まるで祭典でもあるかのような賑わいのある大通りだったが、シーアは臆する事なく人が行き交う隙間を縫いながら走った。
まるで嘘みたいだった。
こんなに上手く脱走出来るなんて……思ってもみなかった。
今までが今までだけに、幾度も脱走に失敗していたから。
自由よ! わたしは自由なんだわ! これで、ルーガルへ……皆の元へ戻る事が出来るのよ!
まるで背中に羽が生えたように心も躰も軽やかになると、気持ちは既にルーガルへと飛んでいた。
シーアは、まだ気付いていなかった。
シーアにとって牢獄こそ平和の砦だったと……、この自由こそ暗黒の世界なのだと。
今まで自由、且つ、安全に街を行き交う事が出来たのは、国中に〔水晶の祈り〕が広まり、“シーアローレル” の名の元に守られていたため。
だから、シーア自身に危険等が襲ってくる事もなかったのだ。
また、軍人として秀でていた次兄・ローガンが圧力をかけていた事も本人は露知らず。
そんなワケで、シーアはシーアローレルとして安全な生活を送る事が出来た。
何も後ろ楯が無い国、何も知らぬ街での行動が、いかに危険なのか……シーアは全く考えもしなかった。
美味しそうな匂いに誘われて足を止めると、焼き立てのパン屋だと気付いた。
途端お腹がグゥ〜と鳴る。
そうだった、今朝は食事を抜いたんだったわ。
だが、お金は持っていない。宝石があるだけ。
宝石で買えない事もないが、きちんと質屋で現金を手に入れるのが先決だ。
唾が口の中で溢れてくるのを感じながら、シーアは歩き出した。
通りに立つ恰幅の良さそうな40代ぐらいの商人が目に入ると、シーアは彼に近寄った。
「すみません」
「はい?」
商人は、深々とマントを被っているシーアに不信な視線を投げつけた。
周囲を見回すと、誰も顔を隠すようにマントを被ってはいない。
シーアは苦笑いを浮かべながらマントを後ろに払いのけると、咳払いを一つした。
「あの、質屋はどこにあるかご存じですが?」
商人は、手入れが行き届いた髪の質と、シミ一つない綺麗なきめ細かい肌に釘付けになった。
「質、屋?」
「えぇ、質屋です。宝石をお金に換えたくて」
商人が素早く、シーアの目を覗き込むように見つめてきた。
「宝石?」
「えぇ、お金が要るんです。この近くにありませんか?」
彼はシーアの本質を見極めるかのように、上から下までじろじろと眺めてきた。
なんて失礼な商人なの。
シーアは、不躾な商人の態度にムッとした。
「ご存じなければ、他の方に訊きます」
その場を去ろうとすると、その商人がシーアの肩をがっしり掴んだ。
「待ちなさい! この大通りを西へ真っ直ぐ行くと、グリエール小通りと交差する。その通りを……右折し、そのまましばらく進めば右手に “ラムジーナの交易亭”
がある。 そこで、交換してくれると思うが……」
たくわえた鼻髭を親指と人差し指で撫でながら、言葉を切った。
シーアは続きの言葉が聞きたく、片眉を大きく動かせて先を促す。
「あぁ〜ウォッホン! ラムジーナの目は肥えていて、ちょっとやそっとの宝石じゃ大して金にはならん」
その言葉を真に受けて、シーアは女官のドレスと生地の荒い服の中からペンダントを手繰り寄せた。
ピアスと対になっていたペンダントだ。
「これでもダメかしから?」
シーアは、ここで大変な間違いを犯した。
当然のように宝石を身につけていられるのは、貴族階級だけだというのに、シーアは彼を疑おうとはせず、問われるまま見せてしまったのだ。
シーアのように、無闇に手持ちの財宝を堂々と他人に見せたりするのは、世間知らずのお嬢様だと証明してしまったようなもの。
何故なら、裕福な商人の妻や娘たちは、見せても良い場所と見せてはいけない場所の区別はついている。
それだけ庶民と近い場所で暮らしているからだ。
「いやいや、それで十分だ! ……それ以外の宝石もお金に換えるのかい?」
「えぇ、いろいろと入り用だから」
商人の目がキラリと光った。
ペンダントを持っていたシーアの指に嵌まる指輪も、抜け目なく見つめていたのだ。
「それなら早く行った方がいい。ラムジーナは大の酒好きだから、早めに店を閉めると酒場へ行ってしまう。……それじゃ気を付けて」
意外とすんなり道を聞くことが出来、シーアはにっこり微笑んだ。
その時、後方で大きな声が聞こえた。
振り返ると、シーアを門の外へ出す事に成功した商人風の男だった。
ここで掴まるワケにはいかない。
シーアは、小さく御礼を言いながらその場から走り去った。
捕まったらダメよ、絶対に!
マントの下で、だんだん女官のドレスが下がってくるのがわかった。
走った事でたくし上げていた紐が緩んだのだろう。
マントの上から両手でドレスごと掴みながら走ったが、こういう経験は何度もしている為、シーアの動きは軽やかだった。
きちんと石畳で整地されている街の為、走りやすいのも影響はしているが。
商人から聞いたグリエール小通りはまだ見えなかったが、シーアはとにかく右手の小さな路地に逃げ込んだ。
これだけ整備された街ならどこかで左に曲がれば、必ずグリエール小通りに出ると睨んだ為だった。
シーアは必死に逃げていた為、振り返る事はしなかった。
もし振り返っていたら……先ほどの恰幅のいい商人も側で身を潜めていた男に何か話しかけ、シーアの方へ指差している事がわかったかも知れないのに。
細い路地な為、息遣いが反響している。
追っ手に気付かれそうだったが、走れるだけ走ろうと思い、出来るだけ足を動かした。
あの男の目から逃れる為だけに、シーアは状況を把握する事もなく、無作為に入り組んだ路地へ曲がった。
「もう……ダメ、息が、切れる」
シーアの心臓は、爆発するのではないかというぐらい激しく動悸していた。
これ以上は保たないと思い、ゆっくり足を止めると、ひんやりとした壁に凭れかかった。
はぁ、はぁ……と息を入れながら、そのままずるずると座り込む。
こんなところでジッとしていられる時間はないのに。
リリアンが仕事を全うして、シュザック皇子にわたしの事を言ったのかも知れないのよ?
黙っていて欲しいとは思うけれど、リリアンのハーレム内での立場も考えると、話さないでと願うのは無理な話。
だからと言って、シュザック皇子がわたしを探し出そうとする事はないと思う。
あの夜、わたしには手を触れようとはしなかったのだから。
もし探そうとするのならば、きっとわたしを買った時のお金を返してもらう為。
えぇ、いいわ! ルーガルに戻ったら、父さまにお願いして代金を全額叩き返してあげるわよ。 その代償が何であれ、わたしは絶対シュザック皇子との繋がりを断切ってみせるわ!
だからこそ、わたしはあの商人風情の男に捕まらないよう逃げなければ。
喉がカラカラに渇いて唾さえも出てこなかったが、シーアは喘ぎながらゆっくり立ち上がった。
運動不足が祟ったのか、悲鳴を上げるかのように筋肉がピクピクと痙攣しているが、長々と休んでいる時間はない。
まだ力が残っているのなら走った方がいい。力尽きて足が止まってしまう前に!
早く “ラムジーナの交易亭” に向かい、お金を手に入れて……ルーガルへ戻る手段を考えなければ。
天を見上げ太陽の位置を確認すると、ふらつきながら西へと向かった。
しばらく進むと、人の声が聞こえてきた。
シーアはホッとし、グリエール小通りに出るにはどうしたらいいか訊ねようと、声がする方向へ向かった。
だが、突然現れたその光景に、足が竦んでしまった。
普通なら微笑ましい姿なのだが、路地の隅で遊ぶ子供たちの姿は、シーアを驚かせ……さらに脅えさせたのだ。
薄汚れた格好に裸足で遊ぶ姿はどこの国でも同じだったが、やせ細った手足に、痩けた頬、落ちくぼんだせいで眼球が突出しているように見える。
そして、その奥にある瞳は、人を疑うようにあやしく光っている。
そこに居る子供たちは、シーアの知っている子供の基準からほど遠かったのだ。
だからといって、どうする事も何かしてあげる事も出来ない。
ただ唖然と子供たちを見つめた後、痛む胸に顔を顰める事しか出来なかった。
「何、ジロジロ見てるんだよ!」
シーアは、子供に似つかわしい低い声と揺るぎない瞳の強さにビックリして、知らず知らず後ずさった。
彼らから逃げるようにさっと身を翻すと、すぐ側にあった路地へと入った。
相手は子供なのに……怖かった。
子供なら子供らしくあるべきなのに、あんなにも荒んだ眼差しを持つ子供が居るなんて。
今まで怖いと思う事なんて、そんなにはなかったのに……。
シーアは、周囲を見回してさらに恐怖を覚えた。
普段なら何とも思わないのに、細い路地の所為か……壁が覆い被さってくるような気がする。
まるでシーアを飲み込もうとするかのように、見えない敵が周囲を固めて徐々に近寄ってくる……そんな感じだった。
シーアはとにかくグリエール小通りへ出ようと、急きたてられるように早足で歩いた。
さっさと“ラムジーナの交易亭” へ行って、手紙を集配してくれる場所、駅馬車の位置……もしくは馬を買える宿屋を教えてもらおう。
早く、早く……この国から出たい!
マントの前をしっかり握り締めると、赤く染まる空を見ながら走り出した。
暗くなる前に “ラムジーナの交易亭” を探さなければならなかったからだ。
シーアは迫りくる見えない恐怖に脅えるように、前だけを向いて走っていた。
しかし、それが想像の産物ではないという事を、シーアはまだ気付かなかった。