目の前でゆっくり立ち止まった商人の大きな背中も、強ばっていた。
ここで逃げ出したりすれば大騒ぎになる……という事はわかっていた為、シーアは恐る恐る振り返った。
「何でしょうか?」
衛兵は尊大な態度でシーアの元へ歩み寄ると、そのまま顔を寄せた。
何をされるのかわからず、シーアはいつの間にか息を止めていた。
その時、ふと商人が動いて、腰に手を置くのがわかった。
マントが翻ると同時に、ウエストのバンド部分から小刀が光る。
何故、武器なんかを所持しているの?!
驚きを隠せないでいたシーアだったが、衛兵は何も気付く事なくそっと囁いた。
「宜しかったら、今度奥さんのお友達で未婚の方がいたら紹介して下さい」
えっ?
シーアは目を見開いて衛兵の瞳を見ると、彼は照れたように頬を緩めた。
「嫁さんを貰えと両親がうるさくて……、貴女のような美しい女性なら、お友達もさぞかし美人だろうと」
そこまで言うと、衛兵は商人に視線を向けた。
「こんなに若くて美しい人を奥さんに貰えるなんて、羨ましい限りだ。さぁ、早く行け!」
チラッと商人を見ると、既にマントは元通りになっており、彼は深々と頭を下げているところだった。
シーアも会釈をして、商人の元へ歩き始めたが、その心には今さらながら疑念が生まれていた。
どうして彼は危険を犯してまで、わたしを外へ連れ出そうと協力してくれるの? どうして……緑側という側室が居る事を知っているの?
シュザック皇子は、ただわたしを “緑晶” の間に通しただけで、実際は側室にしたワケではない。
どうしてそれを一介の商人が知っているというの? しかもルーガル出身だという事まで!
わたしがルーガルの者だという事は、あのセリ場で告げられた時だけしか知られていないハズなのに。
おかしい……おかしいわ。
あっ! この商人は奥さん連れと言っていたのに、あの場には女性は居なかった。
そして、このわたしに着せたこの服……奥に置いてあった箱の中から取り出した。
このブーツも!
どうして用意がしてあったの? 何? いったいどうなってるの?!
このまま一緒に行ってはいけないような気がする。
わたし、どうすれば……
荷物を引いた馬車が通れるぐらいの大きな石畳みの通路を抜けると、再び大きな扉があった。
そこに居る衛兵に、商人が再び同じ事を言って通行手形を見せると、扉は簡単に開かれた。
街に出た……と思ったが、そこはまだ宮殿内の一部だった。
鉄壁な守りに、シーアは思わずゴクリと唾を飲み込んだ。
伺うように商人を眺めていると、尊大な歩き方をしていると気付いた。
そのまま観察していくと、彼が商人では考えられないような鍛えられた肉体を持っているのがわかった。
歩くたびに見える足には筋肉がついてるし、着ているローブでさえその下にある見事な姿態を隠せてはいない。
わたし、間違っていた。彼に着いていくべきではなかった。
でも、彼に着いていかなければ、こうやって囲まれた広場と密室状態のハーレムから逃げ出せなかった。
だからといって、最後の最後まで彼に着いていく必要はない……でしょ?
二輪馬車に乗って行き交う貴族たちを見ながら、とりあえず宮殿の外へ出るところまで我慢しようと決めた。
通行手形を持っているのだから、宮殿を守る内壁を突破するには、彼に着いていくしかないのだから。
でも、その前に疑われないように行動しなければ。
無言のまま彼と共に道の端を歩ながら、シーアは目まぐるしく変化するこの件に対して、順応するんだと自分に強く言い聞かせた。
喝を入れると同時にギュッと拳を握ると、掌でチクッと何かが刺さった。
ゆっくり指を開けていくと、そこにはエメラルドのピアスがあった。
彼に渡すと言ったピアス……。
シーアは、約束だけは守らなければと思い、彼の袖を引っ張った。
「何だ?」
彼が商人ではないと睨んでから、初めて表に出した尊大な態度だったので、自分の観察力が正しかったのだとシーアは思った。
彼の態度に少しムッとしたが、シーアは商人の手にピアスを突きつけた。
「約束した宝石よ。あげるって約束したから」
彼は、一瞬目を細めてそのピアスを一度見、そしてシーアを観察するように眺めたが、軽く頷くとそれを受け取った。
良かった! これでお互い貸し借りはなしよ。
わたしが何をしようと、もう関係ないんだから。
シーアは、宝石が自分の物ではないという事実に目を瞑りながら、前を向いて歩いたのだった。
しばらく行くと、とても大きな門扉が目に入った。
しかも高い壁がこの宮殿を守るようにそびえ立っている。
シュザック皇子の宮から見下ろした時は、こんなにも巨大な壁だとは思わなかったし、壁があるとさえわからなかった。
あの宮からだと、遠くまで街が見渡せたのだから。
こうやって眺めると、ルーガル王国と違って、ガリオン帝国は守備にも力を入れているという事がわかる。
強い武力を持ってさえ、この城壁を破るのは困難に思えた。
まるで、観光人にもなったように周囲を眺めながら、門扉の側にある小さな建物へと二人は入った。
そこには衛兵が居て、同じように通行手形を確認する。
先程とは違って普通に許可が下りると、あの大きな門扉ではなく、人が出入りするぐらいの小さな扉が開かれた。
巨人が通りそうな大きな扉と、人が2人しか通れない小さな扉を作るなんて……いったいどういう意味があるのかしら?
「ここが、スーレイ大正門だ」
彼がシーアに言うと、扉の外へと促した。
一歩出た途端、シーアはあまりにもすごい風景に驚愕を隠しきれず、大きく口をぽかんと開けた。
扉から一歩外に出ると、幅広い大きな石畳が前方へと続き、それ自体が橋となっている。
シーアは眺めるのを止められず、ゆっくり周囲を見回した。
橋の下には水が流れており、それが宮殿を守る為の手段とされている事はわかった。
つまり、城壁と水……全てが一つの要塞と化していたのだ。
でも待って。わたしが一番最初に連れてこられた時、こんな堀は見てないし、水が流れている光景も知らない。
ここが大正門だという事は、宮殿への入り口・メインストリートって事よね?
じゃ、わたしはどうやって宮殿内へ連れて行かれたの? ココからではないなら、何処から?
シーアはもう一度高くそびえる巨大な扉と、宮殿全体をぐるりと囲むような壁を眺めた。
ゴクリと唾を飲み込む。
これが……ガリオン帝国。野蛮で戦が好きで負け知らずな……兵力もトップクラスで武力一と言われている帝国。
確かに凄いかも知れない。威圧感さえ感じるもの。
でも、わたしはルーガルのような国が好き。優しく包み込んでくれている雰囲気があるから。
でもココは……
「何をしている? 時間がないんだ、行くぞ」
商人風の男が、シーアに告げると先へと促した。
宮殿から遠のき、衛兵が居る場所から遠ざかれば遠ざかるほど、傲慢な口調になっていると気付いていないの?
シーアは歩きながら、橋の向こう側に見える街へと視線を向けた。
橋を渡りきったら、彼から逃げ出そう。
こっそり人の群れにまぎれてしまえば、気付かれてしまっても逃げ切る事は可能だわ。
それに、この前を歩く男は、わたしが彼が商人ではないと知っている事さえ、全く気付いていない。
だからこそ、逃げるタイミングの一瞬が大切だった。
あと少し……、街に入ったその時に逃げるのよ!
橋を歩き終えると、彼が振り向き左を指した。
シーアはにっこり頷いて、躰を左の方へ方向転換した。
安心して頷く彼が正面を向いた瞬間、シーアは回れ右をした。
今よ!
シーアは、彼が気付く前に走り出した。
彼から貰ったブーツが綺麗に足跡を消してくれた為、一度振り返って見た時もまだ気付かれていなかった。
やったわ! これで……わたし、ルーガルへ帰れる!