目の前に広がっているのは、ルーガルの特産品〔リュカ〕の花だった。
久しぶりに鼻を擽る〔リュカ〕のかぐわしい香りに、思わず込み上げてくるものがあった。
しかし、シーアの胸に疑問が過った。
何故、ルーガルの地でしか咲かないと言われ、門外不出となっている〔リュカ〕が、ガリオン帝国のこの市に置かれているのか。
そして、何故わたしの手を引っ張って、この場所へ連れてきたのか……だ。
まるで、わたしがルーガルの生まれだと知っているかのように。
……知ってる? まさか!
どうして知っていると考えるの? 誰も知らないのに……わたしがガリオン帝国のハーレムに居るなんて。
シーアは、探るように商人の顔を見た。
「どうです? お気に召しましたか?」
何と答えればいいだろう?
とりあえず、シーアは頷いた。
「皇太子殿下のハーレムに、ルーガル出身の女性が側室に上がられたと耳にしましたので……この〔リュカ〕をお手元に置けば、少しでもお慰め出来るかと思うのですが……」
えぇ、えぇ! 確かに〔リュカ〕を部屋に置いて眺めていれば、国を近くに感じる事が出来るわ。
でも、囚われの身だという事も強く感じるのよ。
それに、今のわたしには必要ない事だわ。
「申し訳ないけれど、」
「ルーガルの女性はを幼い頃から〔リュカ〕手にしているので、お手元にあった方が喜ばれる筈です!」
断ろうとするシーアの言葉を、何故こんなにも強く遮ってくるのか、不思議でならなかった。
「どうして、わたしに〔リュカ〕を勧めるの?」
「それは、コレです」
商人が、シーアの胸元と耳で光る宝石を指差した。
「“緑晶” の地位を与えられたと伺っているからです。お気に入りの女官は、側室さまから地位に合った宝石を与えられ、身に着ける事を許されます。その光る宝石はエメラルドですね? となると、貴女は緑側さま付きの女官さま……でしょ?」
シーアは、リリアン・ウェイに見つかった事で外してくるのを忘れていた宝石に手を触れた。
しかも、今朝小さな宝石なら……と譲ったあの宝石だ。
その宝石が、今のわたしを守ってくれているなんて、何て偶然なの!
チョーカーには付けてはいないけれど、この宝石がわたしを女官だと証明してくれているなんて。
まさしく、リリアン・ウェイが洋紙で説明してくれたとおりだわ!
「〔リュカ〕をお持ちになれば、必ず喜ばれますよ。私を信じて下さい」
えぇ、その言葉は信じてるわ。
もし、リリアン・ウェイが〔リュカ〕を持ってきてくれたら、わたしは泣き崩れる程大喜び、胸が張り裂けるような痛みを胸に負っていただろう。
「でも……これでは、すぐに涸れてしまうわ」
既に咲き誇ってる〔リュカ〕にそっと触れた。
柔らかい花びらの感触と、香りが手に移ると、まるでルーガルの自室に居るような錯覚に陥った。
わたしの部屋に飾られた〔リュカ〕の花束、〔リュカ〕で織られた柔らかなシーツや天蓋から流れる生地を思い出させる。
遠くを見るようなシーアを眺めていた商人は、シーアの言葉に目を光らせると、物思いから目を覚まさせるように、シーアの白い手を優しく叩いた。
「大丈夫ですよ。実は特殊な発送方法で取り寄せた〔リュカ〕が店にあるんですが、それはまだ蕾なのです。宜しければ、蕾の〔リュカ〕を取りに戻りましょうか?」
「えっ?」
取りに、戻る? それって、もしかして……。
「街に戻って取りに行くって事ですか?」
「はい、わたくしたち商人は女官さまの要望に応えるのが仕事ですから」
「あの!」
変に思われてもいい、今を逃したら……この広間から出られないような気がするから、このチャンスにわたしは賭けてみたい!
シーアはゴクリと唾を飲み込むと、一歩前へ出た。
「……緑側、さまには、最高な〔リュカ〕をお渡ししたいの。出来れば、わたしも一緒に伺って選ぶ事は出来ないのかしら?」
商品は、残念そうに頭を振った。
「女官さまは、この広間から外に出る事は一切許されておりません。もし見つかれば、貴女さまも……このわたくしもお咎めを受ける事になります」
「大丈夫よ!」
「何故です?」
商人の目が細められて、何かを考えるように……それでいて何かあやしい光を宿しながらシーアを見つめてきた。
だが、シーアは手に届きそうな自由ばかりに気を取られていた為、その事には全く気付くゆとりさえなかった。
脳をフル稼働させながら、シーアは口を開いた。
「緑側さまは……皇太子殿下のお気に入りなの。彼女……否、緑側さまがお願いすれば、きっとお咎めなんか受けないと思うわ。それよりも緑側さまを悦ばせようとしたわたしたちに、褒美を出してくれるかも知れない」
なんていう嘘をつくの!
しかし、シーアには嘘をつくしかなかったのだ。
「う〜む、確かにそういう噂は、私たちの耳にも入ってきてます」
「大丈夫よ」
本当に大丈夫だろうか? 自分が咎めを受けるのは構わないが、この商人を巻き添えにしてしまってもいいのだろうか?
運悪くすれば、この市の出入りが禁止され、売上が少なくなるかも知れない。
「心配なら、わたしが貰ったこのピアスを差し上げます。小さいけれど、ダイヤも埋め込まれてるから、一財産とは言わないまでも、数年は十分に暮らせるぐらいの価値はあると思うわ」
お願い……この取り引きを成立させて!
祈るようにシーアは商人を見つめた。
二人の間に時間だけが過ぎて行く、そんな感じの間が広がったが、商人が肩を竦める仕草がその緊張した空間を打ち破った。
「わかりました……。貴女を一緒に来た妻という事にしましょう。上に羽織るマントはお持ちですか?」
「えぇ!」
シーアは神に感謝したい思いでいっぱいだった。
そんなシーアを手招きし、店の奥に座らせると、生地の荒い服をドレスの上から被せられた。
「妻の物で悪いですが、念には念を入れませんと……」
「とんでもない! 優しい心遣いに感謝しますわ」
商人に微笑むと、中のドレスを上にたくし上げ紐で結ぶと、裾からドレスが見えなくなった。
「そのサンダルはお脱ぎ下さい、この実用性のあるブーツを」
「えぇ」
何も気にせず脱ぐと、頑丈そうなブーツに足を入れた。
商人に言われるままマントを羽織ると、彼の後ろに従うよう歩き始めた。
歩きながらこっそりピアスを外すと、しっかり手に握った。
扉の外へ出たら彼に手渡し、そのまま逃げよう。
でも今は、あの扉を抜けるのが先だ。
シーアは、商人と共にあの閉ざされた門へと近付いた。
「止まれ! どこへ行く」
衛兵が止めると、商人は特別な通行手形を見せた。
「皇太子殿下のハーレムに入られた方がルーガルの方とお聞きして、特別に手に入れた特産品の〔リュカ〕を持ち込んだんですが、開いた花より蕾の〔リュカ〕が欲しいと言われまして。店にある蕾の〔リュカ〕を取りに戻りたいのです。繊細な花なので、妻と一緒に運ぼうと」
通行手形を見ながら衛兵は頷いた。
「もうすぐ市も閉める時刻だ。早く戻って来るように」
「はい、ありがとうございます」
深々とお辞儀するのを真似すると、シーアは笑みが零れるのを必死で押さえながら、商人の後ろに付き従った。
頑丈の扉が開かれ、外へ出ようとした、まさにその時だった。
「そこの女、待て!」
シーアの笑みは一瞬で凍りついた。
何? ……もしかしてわたし、バレてしまったの?!