リリアンの事は考えてはダメ! 彼女の涙も……思い出したらダメ。
もちろん、共にルーガルへ行こうと、リリアン・ウェイを誘う事は何度も考えた。
だが、彼女を連れ出す事は、自分と同じ道を歩ませる事になるんだと気付いた。
だから、シーアはリリアン・ウェイを誘わなかった。
それが正しい事だと信じて。
視線は伏し目がちだったが、シーアは歯を食い縛ると、前だけを……未来を向いて歩き出した。
普通なら、その扉は庭園からは見えない造りになっていた。
ハーレムの女性たちにとって、その扉はないに等しいものだったからだ。
しかし、シーアに宛われた自室はハーレム内でも一番外れにあった為、その奥にある芸術品とも言えるような、精巧な小さな扉があるのが自然と目につくようになった。
炊事場から下働きの女官が、その扉を抜けて消えたりする事もあれば、女官と商人らしき人物が共に炊事場へ消えたり、そのまま知らない部屋へ入ったりしていた。
戻ってくる女官たちは目を輝かせて、手に持ったカゴを大事そうに抱えたりしている。
シーアはその目の輝きを、ルーガルの宮で何度も見て知っていた為、すんなりとその理由がわかったのだった。
教えてくれた一番下の兄・ユエンに……感謝するわ。
シーアは、ゆっくりその扉へ近づいて押してみた。
蝶番の軋むような音もなく、扉がスゥ〜っと開いた為、シーアは難なくその扉の中へ足を踏み入れた。
石造りの塀に囲まれたその通路に圧迫感を感じたが、前を歩く女官と同じように歩を進めた。
いったいどれぐらい歩かなければいけないの?
シーアはそう思わずにはいられなかった。
まるで迷路のように続く道、途中道が二つに分かれたりとしたが、その先に続く道は、ハーレムとは違った宮へと続いているのだろうと、簡単に察しがついた。
なぜなら、ハーレムで働く女官とはまた違った色のドレスを身に纏っている女官がたくさんがいたからだ。
つまり、この通路は……女官専用の通路って事なのかしら?
様々な色のドレスを着た女性が混じり合うと、大きな広間に出た。
そこでは市が立っており、商人と女官で花が咲き誇ってるかのようだった。
だが、間隔を置いて衛兵が監視しているのも、当然の如く目に入った。
シーアは、ゴクリと唾を飲み込んだ。
商品を見るフリをしながら、大きく開け放たれた扉とは正反対にぴったりと閉じられた扉を観た。
その前には衛兵二人が陣取っており、行く手を遮っている。
他の出入り口はどこにあるのか探したが、石造りの広間の出入り口は、女官たちが通ってきた通路とその閉ざされた扉の二つしか見当たらない。
そんなバカな! 衛兵たちが通る扉は? 女官が通ってきた通路であるハズがない。女性しか通る所を見ていないのだから。
なら、どうやって衛兵たちはこの四方塀で囲まれた広間に来たの?
空を飛んで?
その突拍子もない考えに、シーアは苦笑いを浮かべながら頭を振った。
なんて事を考えてるの? 人が空を飛べるわけないじゃない。
シーアローレル! しっかりしなさい! 今日を逃してしまったら、二度と同じ手は通用しないのよ。
もしこの機会を逃してしまった為にハーレムへ連れ戻されたら……シュザック皇子は本気でわたしを娼館へ売り飛ばすかも知れない。
娼館へ売り飛ばされる事は、一度覚悟を決めたからどうってことない。
でも、シュザック皇子と再び顔を合わせる事になるのは、それだけは耐えられない。皇子のせいで、自分で自分がわからなくなってしまのだけは、絶対イヤ!
市が閉じてしまう前に、何とか方法を考えなければ。
シーアは、衛兵の目を逃れるように人波を縫うと、商品を身近で見ようとする女官をマネて商品に視線を向けた。
ガリオン帝国内のものばかりではなく、各国の特産品も商品として売られていた。
素晴らしい織物や、繊細なレース、宝石が埋めこまれた文箱に、透き通るような花瓶まであった。
「どうです? 素晴らしいでしょう。どれも皆様はお気に召すと思われますよ」
髭をたくわえた商人が、シーアに話しかけてきた。
「……えぇ」
と答えながら、また違う物を物色するように移動する。
同じように商人から話しかけられては、シーアは逃げるように歩を進めた。
自分が何から逃げているのか……それとも何かを探しているのかわからないまま、どんどん店を後にした。
その時、女官と商人の話し声が耳に飛び込んできた。
「特にアンドール地方で作られた絨緞を所望されているの。でもこれでは小さいわ。もっと大きなものはないのかしら?」
「手元にあるのはこの大きさだけなのです。ですが、店に戻りましたら、もう少し大きいものがあると思いますが」
「本当?! なら、すぐに持ってきてもらえないかしら? もし持ってきて下さったら、奥様はとってもお喜びになると思うわ」
「えぇ、ココは息子に任せて、すぐに取りに行ってきます」
えっ? 取りに行く?
その商人が、息子であろう青年に何かを告げると、そのまま走って閉ざされた扉へ近付いた。
衛兵に何かを告げると、その扉が開かれ商人は外へ出て行った。
その光景を眺めていたシーアはコレだと思った。
でも、わたしも一緒に扉の向こうへ出る事は可能なの?
先程の女官は、一緒に出向いて商品を見ようとは言わず、ココへ持って来させるように言った。
やっぱり女官は外へ出る事は出来ないの?
シーアは考えながらいろんな商品を見るフリをしたが、閉ざされた扉の開く気配はなかった。
シーアは青い空を見上げて、太陽の位置を確かめた。
太陽は徐々に傾き始めている。
もうすぐハーレムでも、休んでいた女性が庭園に出てお茶を楽しみ、シュザック皇子の宮を見上げては目に留まるよう軽やかに動き回る時間だ。
となると、ここに居る女官たちもそろそろハーレムへ戻る頃。
早くしなければ!
一人の男性が近付いて来ているとも知らず、シーアが歩き出そうとするといきなり強い力で腕を掴まれた。
「キャッ!」
「女官さま!」
捕まったと一瞬思ったが、女官と声をかけられた為、シーアはホッと胸を撫で下ろして、ゆっくり振り返った。
「何で、しょう?」
その商人は、シーアの顔形・髪の色・瞳の色・肌の色を確かめながら、小さいが胸元と耳に光る宝石を見つめると目を光らせた。
そのまま視線を下げ、ドレスの裾から出ている豪華なサンダルを見た。
シーアは、ハッとなりドレスの中に足を隠した。
忘れていたわ! 女官はこんな宝石の入ったサンダルなんて履いていないのに。
「何!」
意識を足元から遠ざけようと、強く言い放つと、商人は満足そうに唇の端を上げた。
「見ていただきたいものがあるんです」
「いえ、いらないわ」
まるで素性を見破られたように感じたシーアは、この商人から逃げようとした。
だが、彼はシーアの腕を掴んで離さない。
「見てから仰しゃっていただきたい」
何て強い口調なの!
彼の手を振り解きたかったが、その強い力に抗えなかった。
大声を出して衛兵に助けを求めても良かったが、今ここで騒ぎを起こすのは良くない事だとはっきりわかっていた為、シーアは締めつける力に耐える他なかった。
彼が連れてきた商品が立ち並ぶ一角に辿り着くと、シーアを大きく息を飲んだ。
ま、ま、まさか!
シーアは、目を見開いて真横に立つ商人に顔を向けた。
彼は傲慢そうに、だが自分の千里眼が正しかったとでもいうように満足気に頷くと、シーアを引っ張ってもっと良く見えるように側へ押しやったのだった。