「さぁ、行くぞ」
急に立ち上がると、シーアの腕を引っ張りあげた。
「だいぶ陽が傾き始めた。早く行かなければ、お前が凍える」
わたしが凍える? どういう意味?
ラモンは、もう追いかけっこをするのが嫌なのか、シーアの腕を掴んだまま歩き始めた。
痛い……
無数のすり傷を作ってしまった足が、ピリピリと痛んだ。
だが、その事をラモンに言うつもりはなかった。
突然、水が流れ落ちる音が、耳に飛び込んできた。
いったい何? この向こうには何があるの?
茂る針葉樹に太古からそびえ立つ大木 ……飛び回る虫たちの姿……それらを見ながら歩き進むと、目の前に大きな滝が出現した。
その素晴らしい透明な色と、陽が差し込む事で水がキラキラと輝いている光景に、感嘆せずにはいられなかった。
「きれい……何て素晴らしいの!」
シーアはうっとりと眺めていた。
側にラモンが立ち、シーアの表情を隅無く探ってるとは知らずに。
「さぁ、清めるんだ」
清める?
シーアはその言葉で、何故ラモンがここへ連れてきたのかわかった。
わたしをここで水浴びさせる為に、着替えを持たせたのね。
何故彼はこの場所を知っているのだろう? こんな奥深い森の中にある、素晴らしい場所を。一度、来たことがあるの?
考え込むシーアを、ラモンは訝しげに眉を顰めた。
「早く入らなければ凍えるぞ」
ラモンはシーアの探るような視線から逃れようとしたのか、背を向けると岩に座り込んだ。
一応見ないようにするけど、それ以上は譲らないというわけね。
チラリと清んだ水を見た。
屋敷にいた時は、湯浴みが大好きだった。
だけど……連れ去られてからは、身仕度するのは熱い湯で躰を拭く事だけ。
とうとう誘惑に負けて肌を守るベールを脱ぐと、胸元で結わえられた紐と腰の紐を解き、肩からするりと薄衣を滑り落とした。
後ろを振り向くと、ラモンは背を向けて座ってる。
よし!
太陽で熱せられたせいか、まだ水はほんのり温かい。
ゆっくり中へ進み入った。
すり傷がヒリヒリするが、そのまま中央まで歩いた。
水の高さはちょうど腰辺り、深くもなく浅くもない……いい水位だった。
滝のある側まで歩くと、少し水位が下がった。
引き締まった腰の下にある柔らかな膨らみが、見え隠れする。
しかし、シーアはお構いなしに滝の下に身を任せた。
あぁ〜何て気持ちいいの!
髪から顔に滝の清流を受けて……まるで浄化されていくみたい。
今までの……この過酷な放浪の旅が、まるで夢のように感じる。
バカね、夢である筈がないのに。
足の痛みが真実だと告げているのに。
シーアは、苦悩から逃れるように滝の中に入った。
どうしてわたしをここへ連れてきたの?
どうして身を清めさせようとしたの?
一気に水の中に潜り、滝から 離れて水面に顔を出した時、ラモンがこちらをジィーと見つめていた。
まるで値踏みするように、裸体のシーアを眺めている。
柔らかく膨らんだ乳房に、尖ったピンク色の頂。
それは、まだ誰にも触られていない……と証明しているかのような色だった。
ひどい……騎士道精神をちらつかせておきながら、そんな約束は一度もしていないというようにジロジロ見るなんて!
屈辱と怒りで顔を真っ赤にさせ、シーアは背を向けた。
長い髪が背を隠してくれる事を祈って。
しかし、髪が濡れて背中に張りつき、水滴が陽を反射して艶めかしく見える事など思いつきもしなかった。
「もう上がれ……躰が凍るぞ」
肩ごしに振り返ると、ラモンは再び背を向けていた。
初めから背を向けるのなら、最後までその意思を貫きなさいよ!
唇を噛み締め、着替えの置いてある場所へ上がると、水滴を拭い新しい薄衣を着た。
そしてベールを羽織り、濡れた髪は後ろへ払った。
「いいわ」
その言葉を合図に、岩から飛び降りるとシーアの腕を取り、再び歩き出した。
もし、その時ラモンの目を見ていれば、彼の決意に満ちた瞳を見る事が出来ただろう。
野営地へ戻ると、ラモンがガシュールの側にシーアを連れて行った。
「戻りました」
チラリと顔を上げると、ガシュールはシーアを上から下まで舐めるように見た。
その視線に、シーアは身震いした。
その目は男が女を値踏みする目……どれだけ価値があるのかと天秤にかけてる目だった。
「よくやった。さぁ……お前との旅は終わりを告げようとしている」
終わり? どういう意味?
「我らは、ホーク族が治めるガリオン帝国領域に入った」
ガリオン帝国!
嫌いな地図を頭の中で広げると、我が祖国ルーガル王国より北東にある巨大な帝国図が浮かんだ。
呻きたかった。
よく1ヶ月で来れたわ……あれだけ馬を走らせたのも頷ける。
追っ手が来る前に、足跡は消せ……だもの。
そして、もう一つの事を思い出し目を閉じた。
ルーガルではガリオンの男たちは、粗野で乱暴で教養がないと言われている。
しかし、ホーク族は絶大な統率力を用いて国を繁栄させ、武器を持たせたら敵無しと言われるようになった。
それはあながち嘘ではなかった。
戦いは、必ずガリオンの男が勝利を治める。
確か、ガリオンから……噂に名高いルーガルの絶世の美女を所望する、という書簡が来ていたわ。
祖父の宰相ダンが言っていたのだから、間違いない。
王家の血筋をひく姫を嫁入りさせるべきだと言っていたが、ランドルフ王子の妹姫は、ガリオンへの輿入れは嫌だと泣いていた。
そう、粗野で乱暴で教養がない男の元へ嫁ぐのは嫌だと。
その領土に、わたしは足を踏み入れてしまったんだわ。
でも、これで何処にいるのかがわかった。
何処から何処へ逃げたらいいか、やっと検討がついた。
瞼を押し上げた時、ガシュールの探るような目とばっちり合った。
「お前を、ガリオン帝国貴族御用達の市に出す事にした。貪欲な貴族たちがお前を高値で買うか、高級娼館の旦那が飛びつくか……見てのお楽しみだな」
貴族に買われるか、娼館に買われるかですって?
刻一刻と自由がなくなっていくのがわかると、恐ろしくなり、唇が戦慄いた。
「あぁ、お前が逃げださないよう、ラモンが始終見張るからな。逃げられると思うな」
鋭い眼光で射貫くように見つめた後、手を払って向こうへ行けと促された。
震える足でラモンに連れられ天幕に入ると、彼に向き直った。
躊躇などしていられないからだ。
「お願い! 逃げるのに手を貸して。もし無事に国へ帰れたら、あなたには謝礼をするわ。家族が必ず払ってくれる」
「……お前は街娘なんだろう?」
そう言われて、ハッとした。
確かに、ガシュールにそう嘘をついたからだ。
「そんなはした金で、首をハネられたくはない」
言おうか? わたしがルーガル王国宰相の孫だと……シーアローレルだと彼にはっきり言おうか? お金なら、きっと払ってくれると。
しかし、シーアは顔を背けた。
家には帰りたい。
でも事実を話して、もし国家的犯罪に巻き込まれてしまったらどうする? 今より最悪の事態を引き起こしたらどうするの? わたしに対処出来る?
シーアの目から涙が零れ落ちた。
一度彼に涙を見られている為、もう隠そうともしなかった。
もう、わたしはどうする事も出来ない。
男に身を売る事から逃れられないんだわ!
何ていう運命。おばばの占いも大した事なかったのね。
わたしが王妃になるだなんて……娼婦になろうとしているのに。
まさか、娼婦の中で王妃のような地位を築くとでも言いたかったの?
空しい笑いが胸から込み上げてきた。
縋るようにラモンを見上げるが、彼の目は何も語っていなかった。
しかし、
「ローレル、そう悲嘆する事はない」
と謎めいた言葉を言い残し、天幕から出て行った。
悲嘆する事はない?
何言うのよ! 売られるのよ? ただ快楽の為だけに買われるのに、悲嘆するのは当たり前じゃないの!
シーアは側にあった水差しを入り口に向かって投げつけた。
陶器が砕け、入り口に破片が飛び散る。
わたしの放浪の旅は終わったんだわ。
この1ヶ月……逃げようとして失敗に終わった数々の行為。
ラモンから逃げられないと悟った今日、わたしの運命が決められてしまうなんて。
「うぅぅ……こんな事って、あんまりだわ」
シーアは、突っ伏して思い切り泣いた。
これからの人生に対して、過酷な運命に対して、……そして家族に会えない人生について……。
「だけど、絶対わたしは国へ帰るわ」
意思だけは強く保とうと、顔を上げて天井を睨み付けた。
汚されて、快楽の道具にされても……わたしは絶対父さまや母さまの元へ戻ってみせる。
どんな事になっても!
ピンク色の唇を、シーアはきつく噛み締めた。
そんなシーアの決意を読み取るように、ラモンが入り口からシーアを見つめていた。