ラモンの鋭く放つ眼光が、シーアの躰を震えさせた。
この人の内なる性格を知る人なんて、誰もいないんじゃないかしら。
ガシュールでさえ、彼の本質を見抜いてはいないだろう。
ラモンは、まだ誰にも見せていない部分を持っている。
でも、どうしてそれがわかるように、わたしには見せるの?
「さぁ、行くぞ」
素早く視線を外すと、再び前を歩き出した。
シーアは唇を噛み締め、痛む足を引きずりながらも歩いた。
誰もいなければ……側にいるのがラモンでなければ、絶対逃げ出そうとした……いいえ、違う、絶対逃げ出していた筈だ。
だけど、彼と二人きりの時に逃げ出そうなんて無理だ。
もう、逃げられない……。
彼といる限り、家族の元へは帰れないんだわ!
やっと直面した事実に、シーアは愕然とした。
今さらながら、自分の無謀さに呆れた。
貴族の娘が、馬に乗るなんて……無鉄砲な性格のまま、謎を突き止めようとするなんて。
わたしは、まだたったの小娘……だから誰も興味を抱かないと思ってた。
興味があるのは、〔水晶の祈り〕だけ……そう思っていた。
わたし……何もわかっていなかったかも。
〔水晶の祈り〕があったからこそ、わたしは守られていた。
いつかは正妃になるだろうと思われていたから、誰も恋の遊びをわたしにはしようとしなかった。
していいのは、許されたのは……唯一人、ランドルフ王子だけだったのだから!
今、その〔水晶の祈り〕を知らない盗賊に囚われたわたしは、価値ある女として売られようとしている。多額のお金と引き換えに。
いや、嫌よ……わたしは、娼婦ではないわ!
ただ欲望を吐き出す為の道具として、身を売るなんてまっぴらよ!
逃げなくては……。相手がラモンでも、わたしは絶対逃げなければ。
先程の脅しに屈するよう大人しくしていたが、シーアは突然身を翻して左の獣道に足を向けた。
足運びは寸分狂いなく動いていた。
しかし、ラモンはその音が真後ろからではなく、左に逸れているのを感じ取ったに違いない。
すぐに振り返り、シーアが逃げようとしていたのに気付くと、表情を強ばらせて一気に駆け出した。
シーアは失敗した事に気付き、すぐに駆け出した。
逃げ切れないとわかってるのに、未来の自分……娼婦となる自分から逃げだしたかったのだ。
生い茂った草々に足を捕られ転びそうになりながらも、シーアは走り続けた。
滑らかな素足に様々なひっかき傷がつき、爪が割れそうになっても、なお走り続けた。
迫りくる恐怖から、逃げるように……。
「きゃぁ!」
突然、何かが後ろからぶつかり、シーアは前に転びそうになった。
疲労困憊からか、立て直す術もなく目を見開いた。
足は自由にならず、 ただ黒々とした土が間近に迫ってくる恐怖に、息を飲むしかなかった。
シーアは、恐怖から逃れるようにギュッと瞼を閉じた。
―――ドンッ!
固い土に崩れ落ちた筈だった。
確かに衝撃は躰に響いてきたが、温かい何かが防いでくれた。
恐る恐る目を開くと、シーアの頭を抱え込み、下敷きになったラモンの腕の中に抱かれていた。
走った事で心臓が跳ねるように動悸しているシーアに対し、ラモンの心臓は平穏と言っていい程、乱れてはいなかった。
逃げ切れなかった……わたしはやっぱり彼からは逃げ切れない。
夜半に乗じて逃げ出した時も、ラモンはわたしの行動を知ってるかの如く闇夜を味方につけ、わたしを捕まえた。
無理なんだわ……、わたしはもう逃げ切れないのよ!
側に彼がいる限り、わたしは……。
人前で泣くのが嫌いなシーアの目から、絶望の涙が溢れ出した。
希望は持ち続けたかった。諦めたくなかった。
でも、どうしても無理な事がある……わたしは、それを悟ってしまった。
涙が、ラモンの薄い上着に染みを作った。
「……どこか、怪我をしたのか?」
強く抱いていた頭を、ゆっくり撫でた。
「……あなたには、わたしの事なんて理解出来ないわ」
口では強がりを言ったが、何故かラモンが優しく撫でるその仕草に、心が温かくなった。
突然、この男に沸き起こった言葉を言いたくなった。
「わたしは、逃げたいだけ! 家族の元へ帰りたいだけよ! 誰が街の娼婦の館で身を売りたいって思うの? そんな所へ行きたくないって思うのは当然の事でしょう?」
「……娼館より、もっと高値で売れる……場所だとは考えないのか?」
冷静に告げながらも諭すよう言い方が、シーアの苛立ちに火を点けた。
「売られるのなら、何処でも同じよ!」
シーアは、悲痛に叫んだ。
だが、そう言ったところでラモンが逃がしてくれる理由はない。
ガシュールの部下に、いくら打ち明けても無駄なのだ。
シーアはやっと落ち着きを取り戻すと、ラモンの腕の中で抱かれている事実に直面した。
しかも、横たわって彼の躰の上に乗ってる!
柔らかい胸は、彼の逞しい筋肉のついた胸板に押し潰され……、大腿には彼の硬くなったモノがあたる。
兄が4人もいれば、その現象の意味を知らずに過ごす事は出来なかった。
顔をパッと赤らめて、シーアはラモンの腕を振り解くと躰を起こした。
彼の顔を見たくはない。
しかし、身を起こした時、彼は困惑の表情をしていた。
その表情は、いつもの無表情の仮面ではなく、初めて見た人間らしい表情だった。
「……俺だって男だ。もう何ヶ月も女を抱いてない。お前のような柔らかい躰を抱けば、反応してもおかしくはない」
はっきり言い切るラモンに、シーアは顔を背けた。
彼が興奮した事を知って、躰を離したと気付かれたからだ。
「……他のあいつらだって同じだ。女に飢えてる。もし、こうして俺がお前の世話を焼かなかったら、お前はあいつらに何度も何度も犯されてただろう」
シーアは驚愕し、ラモンの顔に視線を向けた。
「ガシュールがお前を売ると言っても、あいつらはお前を抱ける機会があれば、必ず抱いていた筈だ。だが、俺なら安心だ。お前に手を出そうとはしない」
「何故?」
こんな風に雄弁に語るラモンを見たのは、これが初めてだった。
いつも無口で一人でいるラモンが、これほど饒舌になろうとは思ってもみなかった。
「俺はあいつらとは違う。見境なく襲うような事はしない」
あいつらとは違う? それはどういう意味? 女と見れば襲うような事をしないって事? それとも、育てられ方が違うという意味?
何故か、後者の方がピッタリだと感じた。
盗賊なのだから乱暴に扱っても不思議ではない。
なのに、ラモンの言葉は信用に値する……ナニカガある。
ラモンは、わたしを抱こうとすれば抱けるのに、わたしには決して手をださないんだわ。
だが、それが何故なのか……シーアには全くわからなかった。