頭が、ガンガンする……
それに、何度も上下に揺れる振動が頭を痛くさせ、胸を気持ち悪くさせていた。
どうして、こんなに揺れるの?
き、気持ち、……悪い。
混沌とした世界から覚醒するかのように、シーアは重い瞼をゆっくり開いた。
空は暗黒の闇に包まれ、輝く星すら見えない。
何? ここは何処なの?
頬にあたる暖かな温もりと鼓動に気付いた途端、だんだんはっきりと目が覚めてきた。
上下に揺れる振動、ウエストを抱く屈強な腕……頬にあたる力強い鼓動、汗がまじった男の体臭……これって?
恐る恐る視線を上げると、見知らぬ男の腕の中に抱かれているのがわかった。
えっ?
シーアの躰が動いたのがわかったのか、その男は視線をシーアに向けた。
「やっと目が覚めたか」
その聞き覚えのある低い声に、シーアはハッとした。
あの、ルードリア湖でわたしを捕らえた夜盗!
シーアは周囲に耳を傾けると、馬の蹄の音が周囲から無数に聞こえるのがわかった。
状況がはっきりしてきた。
わたしは馬上にいて、この男の腕に抱かれて、何処かへ連れ去られている。
「わたしをどうするつもり? わたしを捕らえても何もならないわ。すぐに解放して」
落ち着きを払ってみせたが、内心シーアの心の中は嵐のように荒れ狂っていた。
なぜなら、シーアの運命は、この夜盗の手の内にあるからだ。
この夜盗から逃げなければ……逃げ出さなければ。
それには、今どういう状況にいるのか……知る必要がある。
「一昼夜こんこんと眠り続けたには、威勢がいいお嬢ちゃんだな」
「えっ?」
シーアは声を失った。
「お前は、昨夜から今まで、ずっと眠りどおしだったのさ」
わたし、そんなに眠って? 薬を嗅がされてから、ずっと意識がなかったっていうの? 何て事!
シーアは奥歯をギュッと噛み締めた。
馬の速度はかなり速い……並足なんてものではなく、これは駆足だ。
こんな速い速度で馬を走らせているのなら、 ルーガル王国の首都から、かなり離れたに違いない。
でも、わたしは家族の元へ帰らなければ。
誰にも心配させる事なく、急いで帰らなければ!
シーアは、男を睨み付けるともう一度言った。
「わたしをどうするつもり? すぐに解放して」
「それは出来ない話だ。俺らの顔を見られたのだからな。それに、あそこで何を見たかによる」
シーアは、唇を噛み締めた。
「わたしは、何も見ていないわ。あなたたちが居た事すら知らなかったのよ? そんなわたしが何を見たっていうの?」
その男の手が、シーアの頬に触れた。
ビクッと震えたシーアだったが、その男の鋭い眼差しから視線を逸らさないよう、強く睨み付けた。
その睨みつけたエメラルドの瞳を、男はしばらくの間見つめた。
「俺が騙されると思うか? こうして連れ去られてるというのに、騒ぎもせず、落ち着きを払ってるようにみせかけてるお前さんを。普通の女ではない……って事は、すぐにわかった」
わたしは普通の女よ。それに何も見てはいない!
そう言ったところで、この夜盗が信じるはずもない。
歯を食いしばって、激しい鼓動を抑えようとした時、その男の手がゆっくり首筋を辿り、早く打つ脈を探りあてた。
そして、そのまま胸元が大きく開いたドレスの上から、乳房に触れた。
早鐘のように打つ心臓の音が、男の手に伝わる。
男の口元が緩んだ。
シーアは、この男に触れられてるという事も許せないのに、恐ろしく戦慄いている事実まで知られてしまったと思うと、悔しくて仕方なかった。
「お前、名は何という?」
名前?
絶対、家族に面倒を持ち込みたくない。
もし、祖父がルーガル王国の宰相だと知られたら、何が起きるかわからない。
そして、自分が王妃になると予言され、伝説の〔シーアローレル〕の名を持つ、ヴィンセント家の一人娘だと知れたら!
シーアは顔を背けた。
どうしよう、何て応えたらいいの?
男の手がシーアの顎を掴むと、容赦なく上へ向かされた。
「俺の質問に答えろ」
冷たく光る男の目が、シーアをどうにでも出来るんだぞ、と告げていた。
シーアは瞼を一瞬閉じたが、すぐさまその男を見た。
「……ローレル」
そう言うと、シーアは男の手を払いのけた。
シーアもローレルも珍しくない名前だ。
だから、どちらを名乗ってもいいが、シーアと名乗れば……もしかしたら家族に迷惑をかけるかも知れない。
だから、あえてローレルと言ったのだ。
家族以外、シーアをローレルとは呼ばないから。
少しでも危険を侵すわけにはいかない。
「本当の名なんだろうな?」
怒りを抑えたその低い声に、シーアは頷いた。
「嘘を言ったって、仕方ないわ。そうでしょ?」
そうよ、事実だわ。
ローレルという名も持っているんだから。
次はこちらの番だ。
「わたしをどうするつもり? わたしの家は……あなたたちに支払うお金なんてないわよ」
男は、ニヤけた嫌な表情をした。
「それはどうかな? 見たところ、お前さんはとても上等のドレスに宝石をつけてるが?」
シーアはゴクリと唾を飲み込むと、意を決して高らかに笑いだした。
「あなた……ルーガル王国の伝統祭を知らないの? リュカ祭では、街娘でも出席が出来るの。その年に16歳になる乙女だけがね。こういうドレスや宝石は貴族からの借り物よ。もちろん……貰える人もいるけれど。わたしもそう。このドレスを与えられて、リュカ祭に出席していたの」
男は眉間を寄せて、シーアを見つめた。
実は、この話は嘘ではなかった。
少女から乙女の仲間入りをする16の娘たちは、リュカ祭で正式に乙女と扱われるようになる。
もちろんシーアも例外ではなく、今年の伝統祭で乙女の仲間入りをした。
ただ、わたしが街娘ではないだけ。
その嘘を見破られないよう、シーアは目を逸らさなかった。
「そういう事にしておこう、か」
そう言われて、シーアは思わず目を瞑った。
「それなら、お前には値打ちがないという事だな……」
シーアは、何か言いたげなその声に目を開けると、その男を睨み付けた。
「そうね、値打ちはないわね。だから、わたしをココに捨てて行きなさいよ」
「それは出来ないと言ってるだろ?」
男は、ニヤッと笑った。
「まだまだお前には利用価値があるさ……そうだな、この宝石のような綺麗な目ん玉、絹のような素晴らしい蜂蜜色の髪……きめ細かい柔肌。そして……男にまだ掘られてないとしか思えない、その躰」
シーアは、男が発したその最後の言葉に、顔を赤くした。
「高く売れそうだな」
シーアは、ハッと息を飲んだ。
う、売る? わたしを?
「お前なら……どこの貴族や王宮でも買ってくれるだろう。……強欲で身分ある老人の愛人、運良くいけば……王宮のハーレムにでも潜り込める、かな?」
何て、何て事を言うの!
人を物みたいに眺め回して、それでいてわたしを……売るだなんて!
シーアは、男の胸板を思い切り叩いた。
「ちょっと! わたしは売り物じゃないわ」
途端、
―――バチーン!
「きゃぁ!」
男の大きな掌が、シーアの頬を思い切り打ったのだ。
思い切り叩かれて、馬上から振り落とされそうになったが、 しっかり腰を抱きしめられていて、落ちる事はなかった。
シーアは、叩かれた衝撃で無数に飛び散る星と闘った。
「調子にのるんじゃないぞ。いいか、俺には、手をあげるんじゃねぇ! もし、野郎どもの前で同じことしてみろ。これだけじゃすまないからな!」
怒りを爆発させないように抑えるこの男の力に、シーアは躰を震わせた。
ジンジン痛み出す頬は、次第に熱を帯びてきて、腫れてきたような感じがする。
シーアは悔しく思いながら、熱を持ち始めた頬を手で冷やそうとした。
その途端、涙が込み上げてきた。
わたし、確かに〔シーアローレル〕の名から逃げたいと思った。
でも、こんな風に連れ去られる事を、望んだわけじゃない!
わたしは……ただ普通の女性として暮らしたかっただけ。
なのに、今わたしはこの男に連れ去られ……そして、誰かに売られようとしている。
どうして、誰かに売られなければならないの? どうして……こんな事になってしまったのよ!
シーアは、痛む頬に耐えながら、涙でぼやける暗闇を辛抱強く眺める事しか出来なかった。