『運命の始まり』【2】

 シーアは、馬番から一頭の馬を借りると、ひらりと飛び乗り、すぐにわき腹を蹴り上げ、早足で駆けさせた。
 その姿を、見た者は……必ず意見が二つにわかれるに違いない。

 輝くような髪をなびかせた貴族の姫が、大腿まで露に見せたその姿態を一目見ようと、ざわめきたって喜ぶ男たち。
 女が馬に乗るなどとんでもない! なのに、騎上し跨がるとは、何と恥ずべき事かと、侮蔑の表情を見せる女たち。

 しかし、シーアはそんな事を気にはしていなかった。
 全て、兄たちに騎馬について教えられ、またそれを許してくれた父にも感謝さえしていたのだから。


シーアは前だけを見つめ、馬を走らせた。
 宮殿と市街地の間の大扉にさしかかると、そこには衛兵が数人いた。
「止まれ!」
 シーアは手綱を引き、馬の足を止めた。
「こんな時間へどちらへ行かれるのですか?」
 怪しげに見つめる門番は、露になったシーアの白い肌を、舐めるように視線を動かす。
 何なの? この衛兵!
 シーアの眉がピクリと上がった。
「わたしはヴィンセント家のもの……宰相ダンの息子・ドルーの娘、シーアローレルです。急用でルードリア湖まで行かなければならないの。早く、そこをどきなさい!」
 衛兵の顔色は、血の気を失ったように青ざめ、シーアを凝視した。
「シーアローレル……さま?! こ、これは、大変失礼をっ!」
「いいから、早くどいて!」
 シーアは苛立って、門番が一歩引いたのを見ると、すぐ馬のわき腹を蹴った。
 それに合わせて、大扉を開けた衛兵の横をすり抜けた。
 あぁぁぁ、イライラする。どうして、わたしを一人の女性として見てくれないの? どうして、〔シーアローレル〕という名に過敏に反応するのよ!
 シーアは唇を噛み締めながら、市街地へと続く道から、ルードリア湖へと続く道へと馬を走らせた。


 湖に近づくにつれ、シーアの思考はパニックに陥りそうだった。
 何故、こんなにも湖へ行かなければならないと思うの? 何故、こんなに急がなければならないと思うの?
 押し潰されるような不安が、シーアを包み込んだ。
 こ、こんな気持ち……に、なるなんて……いったい何?

 あと一歩という時、シーアは馬を止めて背から降りると、一人で歩き出した。
 暗闇に目を凝らし、あの変な光を探した。
 草むらを歩き、裾が露で濡れるのもお構い無しで前へ前へ進んで行くが、あの怪しい光がどこにもない。
 どういう事? ユエンも見た筈だから、絶対見間違えなんかじゃないわ。何だか、光信号のようにも見えたのだけれど……あぁもう、ローガンが見ればわかったのかも知れないのに!
 嫌な冷気がシーアを包み込んだ。
 ブルッと震えると、シーアは両手で躰を抱きしめた。
 薄いドレスのまま馬を走らせるなんて……これじゃ風邪をひいても仕方ないわ。
 自分自身に笑いたくなり、シーアの表情が和んだ。
 少し肩の力を抜いた所で、もう一度この暗闇を伺うように目を凝らした。
 何かの気配を察知しようと、意識を集中もした。
 ……しかし、聞こえてくるのは、そよぐ風の音、水の音、虫の音だけだった。
 やっぱり、わたしの見間違いだったのかも知れない。
 シーアはそう納得すると、裾を持ち上げながらゆっくり湖水まで歩いた。
 そのまま屈み込み、冷たい水を手に濡らした。


 ここへ、来たのは……何年ぶりかしら?
 シーアは湖水をジッと眺め、そして遠くにある古い祭壇の方へ視線を向けた。
 周囲の、わたしへの態度が違うと感じたのは、もういつだったか覚えていない。
 ただ、それがわたしの名と何か関係があるとわかったのは、6歳頃だった。
 兄たちが、わたしを守るように大切にしてくれてるのは、ただ一人の妹だからだと思っていた。
 でも、本当の意味を知ったのは、わたしが10歳の時……。

 10歳。
 それは女の子にとって、節目の年で、〔水晶の祈り〕の意味を伝える、大切な儀式の年だった。
 ……わたしにも、それは伝えられた。
 納得など出来ない未来予想図! 王妃になれると言われ、喜ばない女性などはいないと思う。
 でもわたしは違う。
 シーアは、鏡のような綺麗な湖水を眺めた。

 この名と水晶球がもたらした運命……どれほど憎いか!
 わたしを取り巻く数々の視線を退けたくて仕方がないのに、成長するにつれ、周囲はわたしがもう王子の正妃になると思ってる。
 シーアは、悔しくて水面を叩いた。
 パシャッと大きな音が、静寂な闇を引き裂く。
 わたしは〔シーアローレル〕縁のこの地で、必死に願いをかけた。
 わたしを自由にして! と。
 お願いだから、〔シーアローレル〕の血から解放して! と。
 でも、シーアもわかっていた。
 それが……どんなに空しい願いかという事を。
 独り歩きしてしまった〔水晶の祈り〕を止める事はもう無理だという事を。


 その時、枝が踏みしめられてパキンと鳴る、微かな音が闇夜に響いた。
 シーアの後ろ……真後ろで!
 その瞬間、シーアは身動きせず、意識を身辺へ集中させた。
 なんてこと!
 シーアは、躰の震えを止めようと必死に拳をきつく握り締めたが、 震えを止める事は出来なかった。
 いつの間にか、シーアの後ろには、たくさんの人の気配で充満していたのだ。
 シーアは気取られぬよう湖水を見つめ、そこから後ろを見るように、静止していた。
 このまま、わたしが知らない振りをしていれば、そのまま去っていくかも知れない。
 シーアはそれらが、夜盗ではないと思いたかった。
 でも、シーアの本能が夜盗だと訴えている。
 この人数では、無事に逃げ出す事は無理だ。
 だから、このまま知らない振りをして、彼らを安心させ助かる道を探すしかなかった。

 雲間に隠れていた月が顔を出し、湖を照らし始めた。
 シーアは唇を噛み締めた。
 あぁぁ、どうして気付かなかったの?
 それは、わたしが、〔水晶の祈り〕の事を考えていたからだ。
 あぁ、本当に何てことだろう。やはり〔水晶の祈り〕は、わたしを不幸にさせる!
 それに、わたしが湖水を叩いた音に気付いて、近寄って来たのかも知れない。
 あぁ、本当、何てわたしはバカなのだろう!

 耳の後ろで温かい息がかかった。
 シーアはビクッと震えた。
 湖水を見つめるシーアの視界に、月明かりで映る大きな男の視線とぶつかった。
 頭にローブを巻きつけ、鋭い光を放つ目だけが露になっている。
「残念だったな、お姫さまよ! お前の魂胆は、俺には手に取るように見え過ぎだったぞ」
 途端、シーアの腰を抱きしめると同時に、シーアの口に何かを押し当てた。
「んっんんんっ!」
 叫ぼうにも押さえつける力は強く、何をしても無駄だった。
 嫌っ、殺される! 助けて……助けて!
 シーアの目が涙で潤み、意識が遠のいていく。
 な、何?! ……この匂い。
 いやっ…だめっ……意識が、遠のいて……。
 シーアの躰から、ゆっくり力が抜けていった。


「お頭! そんな小娘放っといて、さっさとずらかリやしょう」
「………いや、こいつは一緒に連れていく」
「お頭!」
 次々呼ぶ声を無視し、お頭と呼ばれた男は、シーアを自分の馬の前に抱きかかえると、飛び乗った。
「ずらかるぞ!」
 そう言うと、その馬を走り出させた。
 そして、他の男たちも、次々後を追うように馬を走らせた。

 シーアの意識はまだ消えてはなかった。
 そして、遠くからシーアを呼ぶユエンの声が聞こえる。
 あぁ……ユエン、助けて……、わたしは、ココ……よ。
 シーアは抜けていく力を振り絞り、胸元の宝石の首飾りを引きちぎると、草むらに落とした。
 ユエン……わたしは……

 力を振り絞った事で……シーアの意識はなくなった。

2003/03/31
  

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