シーアは、馬番から一頭の馬を借りると、ひらりと飛び乗り、すぐにわき腹を蹴り上げ、早足で駆けさせた。
その姿を、見た者は……必ず意見が二つにわかれるに違いない。
輝くような髪をなびかせた貴族の姫が、大腿まで露に見せたその姿態を一目見ようと、ざわめきたって喜ぶ男たち。
女が馬に乗るなどとんでもない! なのに、騎上し跨がるとは、何と恥ずべき事かと、侮蔑の表情を見せる女たち。
しかし、シーアはそんな事を気にはしていなかった。
全て、兄たちに騎馬について教えられ、またそれを許してくれた父にも感謝さえしていたのだから。
シーアは前だけを見つめ、馬を走らせた。
宮殿と市街地の間の大扉にさしかかると、そこには衛兵が数人いた。
「止まれ!」
シーアは手綱を引き、馬の足を止めた。
「こんな時間へどちらへ行かれるのですか?」
怪しげに見つめる門番は、露になったシーアの白い肌を、舐めるように視線を動かす。
何なの? この衛兵!
シーアの眉がピクリと上がった。
「わたしはヴィンセント家のもの……宰相ダンの息子・ドルーの娘、シーアローレルです。急用でルードリア湖まで行かなければならないの。早く、そこをどきなさい!」
衛兵の顔色は、血の気を失ったように青ざめ、シーアを凝視した。
「シーアローレル……さま?! こ、これは、大変失礼をっ!」
「いいから、早くどいて!」
シーアは苛立って、門番が一歩引いたのを見ると、すぐ馬のわき腹を蹴った。
それに合わせて、大扉を開けた衛兵の横をすり抜けた。
あぁぁぁ、イライラする。どうして、わたしを一人の女性として見てくれないの? どうして、〔シーアローレル〕という名に過敏に反応するのよ!
シーアは唇を噛み締めながら、市街地へと続く道から、ルードリア湖へと続く道へと馬を走らせた。
湖に近づくにつれ、シーアの思考はパニックに陥りそうだった。
何故、こんなにも湖へ行かなければならないと思うの? 何故、こんなに急がなければならないと思うの?
押し潰されるような不安が、シーアを包み込んだ。
こ、こんな気持ち……に、なるなんて……いったい何?
あと一歩という時、シーアは馬を止めて背から降りると、一人で歩き出した。
暗闇に目を凝らし、あの変な光を探した。
草むらを歩き、裾が露で濡れるのもお構い無しで前へ前へ進んで行くが、あの怪しい光がどこにもない。
どういう事? ユエンも見た筈だから、絶対見間違えなんかじゃないわ。何だか、光信号のようにも見えたのだけれど……あぁもう、ローガンが見ればわかったのかも知れないのに!
嫌な冷気がシーアを包み込んだ。
ブルッと震えると、シーアは両手で躰を抱きしめた。
薄いドレスのまま馬を走らせるなんて……これじゃ風邪をひいても仕方ないわ。
自分自身に笑いたくなり、シーアの表情が和んだ。
少し肩の力を抜いた所で、もう一度この暗闇を伺うように目を凝らした。
何かの気配を察知しようと、意識を集中もした。
……しかし、聞こえてくるのは、そよぐ風の音、水の音、虫の音だけだった。
やっぱり、わたしの見間違いだったのかも知れない。
シーアはそう納得すると、裾を持ち上げながらゆっくり湖水まで歩いた。
そのまま屈み込み、冷たい水を手に濡らした。
ここへ、来たのは……何年ぶりかしら?
シーアは湖水をジッと眺め、そして遠くにある古い祭壇の方へ視線を向けた。
周囲の、わたしへの態度が違うと感じたのは、もういつだったか覚えていない。
ただ、それがわたしの名と何か関係があるとわかったのは、6歳頃だった。
兄たちが、わたしを守るように大切にしてくれてるのは、ただ一人の妹だからだと思っていた。
でも、本当の意味を知ったのは、わたしが10歳の時……。
10歳。
それは女の子にとって、節目の年で、〔水晶の祈り〕の意味を伝える、大切な儀式の年だった。
……わたしにも、それは伝えられた。
納得など出来ない未来予想図! 王妃になれると言われ、喜ばない女性などはいないと思う。
でもわたしは違う。
シーアは、鏡のような綺麗な湖水を眺めた。
この名と水晶球がもたらした運命……どれほど憎いか!
わたしを取り巻く数々の視線を退けたくて仕方がないのに、成長するにつれ、周囲はわたしがもう王子の正妃になると思ってる。
シーアは、悔しくて水面を叩いた。
パシャッと大きな音が、静寂な闇を引き裂く。
わたしは〔シーアローレル〕縁のこの地で、必死に願いをかけた。
わたしを自由にして! と。
お願いだから、〔シーアローレル〕の血から解放して! と。
でも、シーアもわかっていた。
それが……どんなに空しい願いかという事を。
独り歩きしてしまった〔水晶の祈り〕を止める事はもう無理だという事を。
その時、枝が踏みしめられてパキンと鳴る、微かな音が闇夜に響いた。
シーアの後ろ……真後ろで!
その瞬間、シーアは身動きせず、意識を身辺へ集中させた。
なんてこと!
シーアは、躰の震えを止めようと必死に拳をきつく握り締めたが、 震えを止める事は出来なかった。
いつの間にか、シーアの後ろには、たくさんの人の気配で充満していたのだ。
シーアは気取られぬよう湖水を見つめ、そこから後ろを見るように、静止していた。
このまま、わたしが知らない振りをしていれば、そのまま去っていくかも知れない。
シーアはそれらが、夜盗ではないと思いたかった。
でも、シーアの本能が夜盗だと訴えている。
この人数では、無事に逃げ出す事は無理だ。
だから、このまま知らない振りをして、彼らを安心させ助かる道を探すしかなかった。
雲間に隠れていた月が顔を出し、湖を照らし始めた。
シーアは唇を噛み締めた。
あぁぁ、どうして気付かなかったの?
それは、わたしが、〔水晶の祈り〕の事を考えていたからだ。
あぁ、本当に何てことだろう。やはり〔水晶の祈り〕は、わたしを不幸にさせる!
それに、わたしが湖水を叩いた音に気付いて、近寄って来たのかも知れない。
あぁ、本当、何てわたしはバカなのだろう!
耳の後ろで温かい息がかかった。
シーアはビクッと震えた。
湖水を見つめるシーアの視界に、月明かりで映る大きな男の視線とぶつかった。
頭にローブを巻きつけ、鋭い光を放つ目だけが露になっている。
「残念だったな、お姫さまよ! お前の魂胆は、俺には手に取るように見え過ぎだったぞ」
途端、シーアの腰を抱きしめると同時に、シーアの口に何かを押し当てた。
「んっんんんっ!」
叫ぼうにも押さえつける力は強く、何をしても無駄だった。
嫌っ、殺される! 助けて……助けて!
シーアの目が涙で潤み、意識が遠のいていく。
な、何?! ……この匂い。
いやっ…だめっ……意識が、遠のいて……。
シーアの躰から、ゆっくり力が抜けていった。
「お頭! そんな小娘放っといて、さっさとずらかリやしょう」
「………いや、こいつは一緒に連れていく」
「お頭!」
次々呼ぶ声を無視し、お頭と呼ばれた男は、シーアを自分の馬の前に抱きかかえると、飛び乗った。
「ずらかるぞ!」
そう言うと、その馬を走り出させた。
そして、他の男たちも、次々後を追うように馬を走らせた。
シーアの意識はまだ消えてはなかった。
そして、遠くからシーアを呼ぶユエンの声が聞こえる。
あぁ……ユエン、助けて……、わたしは、ココ……よ。
シーアは抜けていく力を振り絞り、胸元の宝石の首飾りを引きちぎると、草むらに落とした。
ユエン……わたしは……
力を振り絞った事で……シーアの意識はなくなった。