「ああ、こけちゃったんだ? 大丈夫? 立てます?」
目の前の男性が、千珠と目線を合わせようとしゃがむ。
目が合うと、千珠はハッと息を呑み、ゆっくり手を下ろしてまじまじと彼の顔を見つめた。
現代風に長めのウルフカットにし、黒の礼服に白いネクタイを身に着けているが、その顔はどこから見ても泰成その人だった。
唐突のことにどう対処したらいいのかわからず、千珠は呆然と彼の顔を眺める。
何故か彼も雷に打たれたように目を見開き、じっと千珠の顔を見つめていた。
ふたりはしばらく何も話そうとはしなかったが、その濃厚な空気を裂く一陣の風が舞い上がる。
それを期に我に戻り、ふたりは何度も瞬きを繰り返した。
そして先に自分を取り戻した彼が急に照れたように俯き、すぐに立ち上がった。
2歩ほど後ろに下がり、そこにある立て札の前で足を止める。
「白桜樹。平安中期、この地を守る藤原泰成が桜の精千珠姫を奉り……未来永劫移植することなかれ……と子々孫々に伝承≠ゥ……」
彼の言葉に、千珠の目から再び涙が零れた。
泰成がどうしてこの桜を守ってくれたのか、千珠はなんとなくわかった。千珠を泰成の元へ運び、そして連れ去ったのがこの大樹だと知っているからだ。
泰成は子々孫々に伝承するほど、この桜は大事だと思ってくれたのだろう。
子や孫に囲まれながら、泰成はこの桜をずっと見守ってきてくれたに違いない。
それが、泰成の千珠への愛。ありがとう、本当にありがとう……
千珠は泰成に深く感謝すると同時に、ふたりで愛を紡いだ時間は決して忘れないと、桜の根に触れて誓った。
そうすれば、その想いが泰成にも届くとでもいうように。
そんな千珠の前で、男性が続けて言葉を発した。
「ふぅ〜ん、そうして今に至ってるのか。それにしても、珍しいこともあるもんだな」
彼はちらっと千珠を見た。目が合うなり頬を赤らめて笑った。
「実は、俺の名前、藤原泰成っていうんだ」
「……えっ?」
千珠の心臓がドキドキする。こんなことはあり得ないと思いつつ、千珠は彼に対する興味を隠せないまま彼を見上げた。
「同じ……名前?」
泰成と名乗った男性は、ポケットに手を突っ込み、千珠に笑みを向ける。でもすぐに咲き誇る桜を見上げた。
「ああ。偶然この神社に来たんだけど、まさか俺と同じ名の人がこの桜を守っていたなんてびっくりだよ。でもなんか……この立派な桜を守ろうとしてきた人と同じ名前って知って嬉しいな」
瞬間、千珠の頭に泰成の言葉が過った。
千珠が私の傍を離れる日が……もしくるならば、今度は私が千珠の元へ駆けていきたい。それほどそなたを手放したくない
彼はそのとおり、生まれ変わって千珠の前に現れた?
そんなことって考えられるのだろうか。ほんのついさっきまで、千珠は泰成の腕の中にいた。愛を告げられた。
そして目の前にいる人が藤原泰成だと話す。彼と似た顔で、声音で、千珠に笑みを向ける。
違う、彼は千珠の愛した泰成ではない!
それがわかっているのに、泰成と同じ名前の彼に微笑みかけられるだけで目が離せない。
千珠が泰成を求めているからだ。
「わ、わたしの名も……千珠というの」
千珠は自然と自分の名を告げていた。
「ええっ!?」
驚愕に満ち開かれた男性の目を、千珠は覗き込む。
蔵人少将泰成と呼ばれた、千珠の愛する人の瞳と同じように、彼の目も澄んでいてとても綺麗だ。
「ここに書かれた人物の名前を持つふたりが、偶然出会うなんて凄いな。なんか、……運命を感じるね」
そう言うなり、彼は再び桜を仰ぎ見、じっとその場で佇む。
それからどれくらい経ったのだろう。
再び一陣の風が舞い、千珠の髪と頬をなぶった時、彼がゆっくり千珠に目を向けた。
その瞳には覚悟を決めたような光が宿っている。
視線が交わると、彼はゆっくり千珠の方へ歩み寄り膝をついた。
「あの……さ、そこに書かれた説明板に偶然ふたりの名前があるだけでなく、その桜の下で出会えたのって何かの縁だと思うだ。もし良かったら……って、うわっ、待って! これナンパじゃないから! ……いや、どっちかって言うとナンパか――」
彼は急にあたふたし出し、恥ずかしそうに襟足を掻く。
泰成と目の前の彼は違う。それは十分にわかっている。
でも泰成が現代にいれば、彼と同じ反応を見せるのかなと思うと目を逸らせなかった。
目の前の彼と話したい。泰成の顔と声で、もっと話しかけてほしい!
「……ああ、くそっ! こんなの俺らしくない。言い訳ばっかりして……。よし、はっきり言わせてもらう」
男性は「ううっんん!」と喉の調子を整えると、白いネクタイの結び目に指を入れてそこを緩める。
そして、千珠に真摯な目を向けた。
「もし良かったら、携帯の番号を教えてくれないかな。なんか、俺……千珠さんとこのまま離れ難いというか……このまま去ってほしくない」
彼の去ってほしくない≠ニいう言葉に、千珠は感極まってしまった。
まるで泰成に言われたような錯覚に陥り、涙がどんどんあふれて頬を伝い落ちていく。
「ええっ? あ、あの! せ、千珠……さん!?」
千珠が泣いてしまったため、彼があたふたする。そんな彼を、千珠は涙を流しながらじっと見つめた。
「わたしの携帯番号は――」
そらんじて覚えている番号を言おうとする千珠の手を、彼がいきなり掴んだ。
「待って! 今は、まだ聞かないでおくよ」
「えっ?」
教えてほしいと言ったのは男性本人なのに、どうして今になって聞かないと言うのだろうか。