唖然とする千珠に、彼が頬を緩めた。
「俺が千珠さんの携帯に電話をかけて、履歴を残せばいいだけかもしれない。ただ、そういうやり取りって、なんか薄っぺらな関係みたいで嫌なんだ。まるで合コンのノリに思えてさ。千珠さんとはきちんとお互いを前にして番号の交換したい。……俺、少し強引すぎる? ちょっと引く?」
「引くだなんて、そんな……」
千珠は小さく頭を振った。
「ああ、良かった! マジ、引かれるかと思った。……うわっ、ごめん! 勝手に手を握って!」
泰成の顔と声で、慌てふためく彼。ギャップの違いに千珠は噴き出した。
「えっと、あの……大丈夫です」
目尻の涙を拭っては笑い声を上げた。ふとそこで彼が静かだと気付き、そっと目線を上げた。
彼は千珠を見ながら微笑んでいた。
「泣いた時はどうなるかと思ったけど、良かった……笑ってもらえて」
彼の言葉に、千珠は息を呑んだ。
もしかして、千珠の気持ちがどこかへ向くように、わざとひとりで慌てた振りをしていた?
千珠が彼に見入っていると、彼が笑った。
「ところでさ、千珠さんって巫女さん?」
袴姿を指されて、千珠はハッと我に返った。
千珠にとっては1週間も前のことだが、よく考えれば今から神楽を舞うのだ。
今すぐ社殿に戻り、神楽女の用意をしなければ皆に迷惑をかけてしまう。
慌てて立ち上がろうとする千珠の手を、彼が握って引っ張り立たせてくれた。
「あの、ごめんなさい! わたし、神前挙式で神楽を舞うの。すぐに用意しないと」
軽く上体を前に倒し、汚れた千珠の袴についた砂を払い落としていた彼。
千珠の言葉を聞いてその手を止め、おもむろに顔を上げる。
「神前挙式って、……藤原家と出水家の?」
言われて、そうだったと思い出す。
「え、ええ」
「そっか……。ここまできたら、もう偶然では済まされないかも。これは運命だ」
男性が悦に入ったように肩を揺らして笑い、そして目を輝かせながら上体を起こした。
「実は俺、今日の神前で式を挙げる新郎の弟なんだ。……挙式が終わったら、俺のために少し時間を作ってくれないかな? その時、改めて俺と番号の交換してほしい」
「……はい」
その瞬間、桜の枝が大きく揺れて花びらが舞った。
千珠、千珠……!
蔵人少将泰成の声が、風に乗って聞こえてきた気がし、千珠は桜を見上げた。
風は今止んでいるのに、何故か温かい気が千珠を優しく包み込む。
この意味は何? どうして急に泰成の千珠を呼ぶ声が聞こえてきたのだろう。
不思議に思うものの、やはり泰成の声を耳にした途端、千珠の涙腺がまた緩む。
「ああ、泣かないで」
隣にいた男性が両腕を開き、おずおずと千珠を抱きしめた。
その抱きしめ方は、記憶にある泰成のものと全く違う。でも、耳元で彼が「大丈夫、大丈夫だから」と囁く声音は、泰成と同じだった。
違うのに、彼は泰成ではないのに、千珠は両腕を上げて彼の背に回し、感情のまま泣いた。
彼はそんな千珠に何も訊こうとはせず、ただ優しく抱いてくれた。
千年桜が見せてくれた恋はいったいなんだったのか。
ふたりの仲を引き離すのなら、どうして千珠を泰成の元へ飛ばしたのだろう。
わからない、……わからない!
でも、蔵人少将泰成の魚袋がこの手にある限り、あの恋はまぎれもない真実だったと言える。
それはつまり、偽りなんかではないということ。
泰成と過ごした日々、言葉を交わし、笑い合い、そして貪るようなセックスは全て千珠の身に起きたのだ。
今はまだこの恋をどう終わらせればいいのかわからないが、それは時間が解決してくれるのかもしれない。
泰成とのことを過去にできた時にきっと……
千珠は鼻をすすると、彼の胸の中で身じろぎし、そっと躯を離した。
「ごめんなさい。泣いちゃって……。もう大丈夫」
「……気にしないで。正直、そういう千珠さんに惹かれたから」
「えっ?」
惹かれた? わたしに!? ――そんな目で彼を見ると、彼は照れくさそうに顔を背けた。
「さあ、行こう! 俺は親族の元へ。千珠さんは神楽を踊るために」
彼は千珠の手を取ると、歩き出した。
その後ろ姿は、やはり泰成に似ている。肩と首のラインは、同一人物かと思ってしまうほどだった。
どうして彼は千珠の前に現れたのだろう。
泰成の代わり? だから同姓同名、顔も声も似ているのだろうか。
もしそうだとしても、泰成の代わりなんてどこにもいない。
彼は彼なのだ。
千珠の手を握る男性の手を一瞬見て、そして彼の横顔を見た時だった。
初桜よ、燃ゆる思ひを今宿世の契りに我の血を捧げん。赤く咲き誇る時、我が望み叶え――
風に乗って、囁くような言葉が耳に届いた。聞き覚えのある言葉と声に、不思議と恐怖は湧かない。
千珠は男性に手を取られたまま振り返り、千年桜を見つめた。
「血を捧げ? ……赤く咲き誇る?」
どういう意味かわからないが、何故かその言葉は強く千珠の心を打つ。
そう思うほど、その声音は千珠に語りかけてくる。
このまま去りたくないという気持ちが強かったが、今はバイトに行かなければならない。
後ろ髪引かれる思いだったが、千珠はそっと心の中で囁く。
――また会いにくるね、泰成さま。あなたが残してくれた千年桜を見るために。
千珠は前を向き、男性と一緒にその場を去った。
後ろでは、千珠を招くように千年桜の枝がしなり、涙を流すように花びらが舞っていた。