いろいろな話に耳を傾け、千珠の心を和ませてくれた泰成。
素性もわからない女に愛を囁き、こちらの風習に従って千珠を妻にしてくれたのに、泰成とはもうこれで終わりになってしまう。
「お願いです、千珠さま! 止まってくださいませ! ……イヤです、小牧は千珠さまともっといろいろなお話をしたい!」
嗚咽を漏らしながら話す小牧の声は、今やどんどん遠ざかっていく。
鈴の音だけでなく、耳をつんざく耳鳴りに、千珠はその場で崩れ落ちそうだった。なのに、足だけは勝手に桜の大樹へと向く。
桜まで3メートル手前まで来た時だった。
「千珠っ!!」
泰成の声が遠くから聞こえた。それに合わせて、ざわめく周囲。
とはいえ、もう千珠の意思ではどうにもならない。
桜まで1メールと迫ると、頭が割れそうな痛みが襲ってきた。
「ううっ……!」
躯をバラバラに引きちぎられそうな痛みに、意識を放り出したくなる。
そんな千珠を、走り寄ってきた泰成がしっかり掴んだ。
「せ、千珠! な、何だこれは! ひ、引っ張られていく!!」
千珠は薄目を開けて、泰成を見つめる。
彼は恐怖に顔を引きつらせて、その額には汗が滲み出ていた。
これが、本当の別れ……
別れたくない。でも千珠は、この感覚に逆らえないのもわかっていた。
だから震える唇を開けて、喉の奥から搾り出すようにして声を出した。
「あ、あい、して……る」
意識が薄れていく。
「せ、千珠! 私もそなたを愛しているっ!」
泰成の悲痛な叫びを耳にした途端、千珠は愛の力を得て思い切り手を伸ばした。泰成の直衣に触れ、何かを引っつかむ。
でもそこで力尽き、千珠は意識もろとも全てを手放した。
***
「こ、これは……!」
泰成の手を離れて、千珠が倒れ込んだ桜の幹。
まるで、その幹に吸い取られるようにして、千珠の姿は瞬く間に掻き消えてしまった。
泰成の手に残ったのは、今まで千珠が着ていた表着(うわぎ)のみ。
「きゃあああぁぁーーー! 物の怪だわ!」
一部始終を見ていた女房たちが騒ぎ出し、すのこ縁や孫廂をバタバタと走り回る。
その喧騒を気にもせず、泰成と小牧、小菊、そして義文は呆然と桜の傍で佇んでいた。
「せ、千珠さまは……戻られてしまったのです。小牧は、千珠さまが鈴の音≠ェ聞こえると言い始めたころから、危惧していましたの。このような日が訪れるのではと……」
小牧は泰成の前に跪き、頭を垂れた。
「申し訳ございません! 千珠さまをお守りすることができませんでした!」
「わかっている。小牧のせいではない。私は千珠に触れたのに、尋常では考えられない神力が働いていた」
泰成が視線を彷徨わせた時、幹の傍に、千珠の匂い袋が落ちているのが見えた。膝をつき、それを手に取る。
千珠は確かにここに、この腕の中にいた。あの温もりは幻ではない!
泰成は匂い袋を握り締め、千珠がいなくなった喪失感に項垂れた。
「千珠……、千珠っ!!」
誰も泰成に声をかけなかった。
ただ傍に佇み、同じ悲しみを分かち合いながら泰成が動き出すのを待っている。
それがわかっても、泰成は千珠を失った悲しみにその場から動けなかった。
泰成には妻がいる。穏やかな性格の暁の上に不満はない。
彼女に対し、胸を焦がす激しい感情を抱いたことはなかったが、彼女となら争いのない生活が送れる。そんな自分の人生に納得していた。そう思っていた。
千珠と出会う前までは……
千珠が泰成の心を変えたのだ。どんな男の目にも彼女を触れさせたくない、自分だけのものにして寝殿の奥深くへ閉じ込めておきたいと思うようにさせた。
なのに、その千珠は泰成の手から離れていってしまった。
どうしたらいいのだろう。この空虚は何で埋めればいいのだろうか。
泰成は千珠の着ていた表着を手にしながら歩き出し、桜の幹に触れた。
白桜邸にある桜の中で一番に花開き、そして一番長く咲き誇る初桜。
「初桜よ。どうか、もう一度千珠を私の元へ導いてくれ。彼女と契りを交わしたのだ。彼女なしでは生きていけない!」
その時だった。どこからか、男女の声が頭の中に響いてきた。
初桜よ、燃ゆる思ひを今宿世の契りに我の血を捧げる――
いきなりのことにびっくりして、泰成は慌てて手を離す。
だがそのせいで、桜の幹で手のひらを擦ってしまった。樹皮で皮膚が裂け、血が染み出す。
「今のはいったい……。それに血? どういう意味なんだ?」
手のひらに視線を落とすと、滴った血が桜の根に落ちた。
瞬間地面が波打つように揺れ、慌てて桜の幹に触れて躯を支える。
すぐに周囲を見渡すが、誰も慌てた様子を見せるものはいない。
これは幻か?
だが、確かに空気が歪み、地面が生き物みたいに鼓動を打った。
泰成は、小牧と目を合わせる。
お前は何も感じなかったのか? ――と問うために。
だが、小牧が口にしたのは泰成が思っていもいないことだった。
「泰成さま。……こんなことを申したくはないのですが、どうして義文さまは千珠さまの悪口をおとどさまへご報告されたのですか?」
「な、何!?」
泰成は小牧の言葉に驚き、後ろに控えている従者に鋭い目を向ける。
「そなたが父上に千珠の話を? 義文、何故そのような真似をした!」
従者の義文は泰成の怒声にも怯まず、まっすぐな目を向ける。
「若君……。私はいつもとは違う、尋常らしからぬ若君をお傍で見たからです! 素性わからぬ女人を傍へ置くのは別に構いません。ですが、妻として迎え、北の方さまを邪険に扱うその行動は、泰成さまらしくありませんでした! だから私は――」
「うるさい! 黙れ! ……義文が私を裏切るとは!」
「若君!」
詰め寄る義文に背を向け、泰成はざわざわと揺れる桜を見上げた。
「もう会えないのか? 私は二度と千珠を……この腕に抱けないのか?」
小牧も義文も、そんな泰成に声をかけられず、彼が動くまでその後ろでずっと控えていた。