「小牧、大丈夫だ」
「えっ、少将さま!? 今夜は北の方さまのところではなかったのですか!? あっ……いえ、申し訳ございません。お傍近くに控えておりますので、何かあれば小牧にお申しつけくださいませ」
「いや、小牧は自分の局に下がっていなさい。いいね?」
「えっ? あっ……はい。わかりましたわ」
そう言いながらも、本当に去っていいのかと千珠に目をやる。乱れた小袖を見ては、その顔を曇らせている。
「小牧」
突然、泰成が苛立ちも露に強い口調で言った。
「はい、はい! 申し訳ございません」
小牧は頭を下げると、そそくさと局を出ていった。
衣擦れの音が聞こえなくなったところで、泰成が千珠に両腕を差し出した。
「えっ?」
有無は言わせないと言わんばかりに、千珠を抱き上げた。
「やす、なり……さま?」
泰成は何も言わず倒れた几帳をまたぎ、御帳台に入った。乱れた寝具の上に、千珠をそこに横たえる。
腰を下ろした泰成も肘をついて躯を倒し、千珠をそっと抱きしめた。
「……大丈夫か?」
泰成は千珠の手を掴み、そのまま自分の胸に持っていった。手のひらから、彼の早鐘を打つ音が伝わってくる。
泰成の鼓動を感じてホッとしてもいいはずなのに、彼に握られた手の震えが止まらなかった。
その震えを感じ取られたくなくて、千珠は泰成の手を払い退けた。
「せ、千珠!?」
千珠は片方の空いた手で震える手を包み込む。それでも震えは収まるどころか、どんどん大きくなっていった。
もう敦家はいないのに。愛する人が千珠をその腕の中に引き寄せてくれているのに……
「ご、ごめんなさい……わたしっ!」
千珠の声が喉の奥で詰まる。
いつからこんな弱虫になってしまったのだろう。
何があっても物事をあるがままに受け入れ、順応していく強さを千珠は持っていた。
大雑把な性格も関係しているせいもある。
ただ、ここまで戸惑ったことは一度もない。
敦家に襲われた恐怖が抜け切れていない? もちろんそれもある。でも一番の原因は、敦家に押し倒されている場面を泰成に見られたショックのせいだ。
このせいで、泰成に嫌われてしまったらと思うと怖くて、躯が震えてしまう。
ああ、泰成の顔を見られない!
普通の男性なら、どう思うだろう。
付き合っているカノジョが他の男性に組み敷かれている。しかも、カノジョはほとんど素っ裸。
ダメだ。独占欲の強い泰成が、千珠を許すはずがない。
千珠は胸が苦しくなって唇を強く噛み締めた。
その時、泰成の手が千珠の頬に触れた。
「敦家にされたこと、忘れろと言ったところでそう簡単にはいかないだろう。それでも忘れてほしい。怖い思いをした事実は、私が千珠の心からなんとしてでも拭い去ると約束するから」
「泰成、さま?」
「わかっているのか? 何があっても私は……そなたを離さないと言っているんだ。敦家にも、その他のどの男にも」
泰成が優しく千珠を抱きしめた。
強い想いを告げながらも、彼は千珠の不安を取り除こうとしてくれているのだろう。
千珠を抱くその腕に力はないが、いつもと違うのは、労るように、守るように千珠に腕を回してくれている。
泰成なりに、千珠を慰めてくれている。
嗅ぎ慣れた彼の匂い、温もり、そして愛情を込めて触れてくる大きな手。
好き……、泰成が好き!
千珠は身動きして泰成に躯を寄せ、彼の肩の窪みに顔を埋めた。
「わたし、抵抗したの! でも……もうダメだって思った」
「わかっている……。私も敦家の牛車を見た時、千珠は既に……いや、それはもういい。こうやって私の腕の中にいてくれている。それだけで幸せだ!」
千珠を抱きしめる泰成の躯が熱を帯びていく。彼が興奮している証だ。彼女の腰骨に触れる彼自身がどんどん硬くなっていく。
西洞院にいる北の方を、その腕に抱いてきたあとなのに……
嫉妬してはいけないとわかっているのに、他の女性を抱いてきた泰成に触れられると辛くなってきた。
千珠はそこでハッとし、両腕を突っぱねて彼を押しのけた。
「せ、千珠? いったい……」
泰成の驚愕した声を耳にするが、勢いよく身を起こし、小袖の袷に指を這わせる。
腰紐は敦家に解かれたので、ほとんどガウンを羽織った状態だった。それでもなんとか袷を掴んで躯を隠し、彼に背を向けた。
「何か、気に障ったのか?」
話しかけられても答えず、千珠は唇を引き結び俯いた。
泰成が北の方を抱いてきたのか、千珠がそれを気にしているように、もしかしたら彼も敦家にどこまで触れられたのかと考えているのかもしれない。
気にせず泰成の温もりに包み込まれたらいいのに、敦家の匂いのついた躯で彼に身を投げ出したくはなかった。
その刹那、急に背中から抱きつかれた。その腕に力が入り、千珠は強く引き寄せられる。
「どうした?」
泰成は千珠の肩に顎を載せ、頬を寄せる。
「言ってくれなければわからない。何故、私から逃げる?」
「ご、ごめんなさい! わたし、その……敦家さまに触れられて」
それ以上言えなくて口ごもると、耳元で安堵したような吐息が聞こえた。
「それで私が千珠と距離を置くと? そんなことあるわけがない。あるわけがないが……教えてほしい。どこに触れられたのか」
「……ど、どうして?」
声が上擦る。胸の下にある泰成の手が動き、千珠の乳房を包み込んだからだ。
「千珠に残る敦家の感触を消したい……。全てをだ」
「全て……」
本当に言っていいのだろうか。そんなことを話したら、泰成の気分を害すのではないだろうか。
千珠はどこまで正直に言えばいいのかわからず、奥歯をギュッと噛み締めた。