小半刻(約30分)経った頃、牛車は西洞院に着いた。
中門廊の車寄(くるまよせ)で降ると、泰成は出迎えた女房のあとに続き、寝殿の透渡殿を進んだ。
女房の手にある灯台の火が、暗闇の中でゆらゆらと揺れる。
まるで泰成の心の揺らぎと似ていて、思わず苦笑する。だが、すぐに表情を引き締めた。
しっかりしなければ。暁の上とは付き合いが長い。泰成のほんの些細な仕草で、何かがおかしいと気付くだろう。
暁の上を前で、千珠を思い出すようなことがあってはならない。
それが妻に対しての礼儀だとわかってはいるのに、心が拒絶反応を示す。
泰成は手にした扇に力を入れ、奥歯を強く噛み締めた。
そうしなければ、想いが口をついてしまうとでもいうように……
その時、女房が東の対屋の妻戸を開けた。そこには、泰成を出迎えるために暁の上付きの女房香苗が膝をついていた。
「お待ちしておりましたわ、旦那さま。さあ、どうぞお進みくださいませ」
「……うむ」
香苗の案内で孫廂(まごひさし)を進み、さらに廂へ入る。
だが何故か彼女は、泰成の足元を照らしながらも、ちらちらと泰成を窺ってくる。
「何か言いたいことがあるのか?」
暁の上を正妻にしてからの付き合いなので、女房は泰成の率直に物を言う性格を知っている。
だが今回はギョッとし、躯を震わせながら泰成を仰ぎ見た。
「あ、あの……」
「構わない。なんでも口にしなさい。私はそんなことで咎めないと知っているだろう?」
「は、はい……」
女房は一瞬どうしようか迷った素振りを見せるが、意を決したのかゆっくり立ち止まった。
「差し出がましい言葉を口にしますが、暁さま付きの女房ということでどうぞお許しくださいませ。あの……旦那さまは、いつ西洞院に居を移してくださいますのでしょうか?」
泰成は静かに「そのことか……」と口にした。
その話は、これまでに何度も父と義父に言われ続けてきたこと。今更そんな話を女房からもたらされたからといって、泰成は怒りはしない。
だが、女房がさらに続けた言葉で、泰成の顔が強張った。
「ご一緒になって、もう長い年月が過ぎました。暁さまにおややが授からず、このままでは旦那さまが他の姫の元へ通われるのではと……。いえ、わたくしは旦那さまが暁さまを大切に想ってくださっているのは存じております。ですが、口性のない者たちが、告げ口をしてくるのです。旦那さまのお心が他の姫に移ったのではないかと」
「誰がそのような話を?」
泰成の声音が低くなる。それに気付いた女房がさっと顔を背け、先へと歩き出した。
「お、お、お許しくださいませ、旦那さま。これはわたくしが勝手に申したこと。どうか暁さまをお責めにはならないでくださいませ!」
女房の言葉に、泰成は返事をしなかった。
彼女は泰成の怒りを買ったと思ったのだろう。
それをいいことに、泰成は暁の上の昼御座に着くまで、一言も口にしなかった。
女房は御簾を上げて泰成を招き入れると、暁の上のいる几帳の奥へ案内し、静かに局をあとにした。
「お久しぶりです、泰成さま」
灯台の小さな明かりでもわかる、暁の上の艶やかな髪、愛らしい唇、こちらを見る信頼しきった瞳。
いつもならその凛とした美しさに笑みを返すところだが、上手く声を発せられなかった。彼女を見て、どこかで千珠と比べている自分に気付いてしまったためだ。
先ほど女房に言われたのも影響しているのかもしれない。
もしかして、暁の上も知っているのだろうか。泰成が他の姫に、千珠に心を寄せているのを……
「先日は物忌みでお会いできなくて残念でしたわ。ですが、間が開いたからでしょうか。今宵は泰成さまのお顔を見られただけで、いつもよりとても嬉しく思います。あの……御酒を召し上がりますか?」
「……そうだね。いただこうか」
「はい」
暁の上は口角を上げて泰成に微笑みかけると、傍にある高坏(たかつき)から杯を取り上げ、それを泰成に手渡してくれた。
「ありがとう」
まるで時間を稼ぐように、酒を少しずつ呑む。
目の端に映る帳を下ろした御帳台が、今日に限って目を背けたくなる。
ああ、今夜は躯が反応しないかもしれない。
「泰成さま? 今宵は、御酒が進みませんか?」
暁の上の言葉に、泰成は目だけを動かす。
「……そんな風に見えるか?」
「はい。今宵は、心ここにあらず……といった感じでしょうか。何か、泰成さまのお心を悩ませることが?」
悩ませている、か……
泰成は自嘲するように苦笑を漏らす。
目を閉じれば、瞼の裏に浮かぶのは千珠の顔だったからだ。
千珠は扇で顔を隠さず、じっとこちらをまっすぐに見る。
そこに奥ゆかしさはない。だが彼女は自然に感じたまま笑い、声を上げ、物怖じしない態度で泰成に向かってくる。
千珠の全てが、泰成の目を惹き付けてやまなかった。
あのような姫には会ったことがなかったので、とても新鮮だったのだろう。
そのせいか、千珠はいとも簡単に泰成の心をがっちりと掴んでしまった。こちらが溺れるほど、彼女なしでは生きられないと思うほどに。
これほど女人としての千珠に惹かれるなんて驚きだった。
最初はただ、別の世界から来たとおかしな話をする女人に興味を持っただけだったのに……
泰成はそっと視線を上げ、恥ずかしそうに、でも自分を求める暁の上を見た。
既に何度も床をともにし、彼女の感じやすい場所やどこを攻めれば昇天するのかも知っている。
快楽ばかり求めるのではなく、仲睦まじい年老いた夫婦のように、たわいもない会話をして心を通わせてきた。
それで十分だったはずなのに、今は早く白桜邸に戻り、千珠の隣に滑り込みたくてたまらない。
これではいけない! 妻として支えてくれた暁の上に、こんな仕打ちをしては……
それがわかっているのに、泰成はまともに暁の上と向かい合えなくなっていた。
泰成は杯を下に置いた。
しばらく躯が動かなかったがゆっくり面を上げて、こちらを見る暁の上と目を合わせる。
「暁の上……、私は――」
「泰成さま……」
暁の上が、泰成の言葉を遮る。今までにないその態度に、泰成は息を呑んだ。
「お疲れですのね。それなのに、こうしてわたくしの元へ来てくださるなんて、なんとお優しい旦那さまでしょう。今宵は……、今宵はわたくしが――」
暁の上が立ち上がり、泰成の手を取る。
「暁の上?」
泰成は戸惑いを露にする。
暁の上は、泰成に求められたら必ず反応はする。だが、こんな風に自ら床へ誘う真似は一度もしたことがない。
泰成が驚いているのをわかっていて、暁の上は御帳台に泰成を招いた。