「えっ!? あのっ!」
千珠が笑うとは思わなかったのか、彼はさらに慌てふためく。
そんな彼の様子がおかしくて、千珠は口に手をあててクスクスと声を出して笑った。そして高欄に手を置き、少し上体を前に倒して彼の目をまっすぐ見た。
「ねえ、どうしてそんなに自分をよく見せようとするの? 素の姿を見せてくれる方が、女は嬉しいものなのに」
「えっ、素? ……嬉しい!?」
男性は瞬きをして千珠を見ていたが、ハッとして頭を振った。
「いえ、あの……あなたも、姫もそうなのですか? 私のことを知りたいと? 嬉しいと思ってくださるのですか?」
彼の目が妖しく煌めく。興味の対象になったと気付き、千珠は慌てた。
きっと千珠が悪いのだろう。
サークル仲間やバイト仲間にするみたいに、気安い言動を取ったために、その男性を勘違いさせてしまった。
間違いを正すのは自分しかいない。
千珠は上体を元に戻し、どこで誘惑を仕掛けようかとこちらの反応を窺う彼を見返した。
「ひ、姫……、私はこのようなことを――」
直衣(のうし)姿の男性が、何かを言いかけながらゆっくり玉石を踏みしめる。
彼は一歩、さらに一歩、千珠の座るすのこ縁へ詰め寄ってきた。
千珠は内心焦ってはいたが、相手を刺激しないよう口角を上げる。
「もちろんそうよ。ただ、わたしの言ったのは世間一般の話。でも――」
そう、この人が誰なのか知りたい。
泰成は、千珠のいる局に決して人を近づけさせなかった。信頼できる小牧、そして小牧の選んだ女房だけが入ってくる。
男性なんて問題外だ。だから、ここまで入ってこられた彼のことが余計気になって仕方がない。
「あなたはいったい誰? 誰にも咎められず、こんな奥にまで入ってこられるなんて……」
千珠の言葉に、彼は顔を輝かせる。
「私は、姫の御名をお聞かせ願いたい! 姫の名をこの口で囁きたい。なんということだろうか。御簾越しではなく、また扇で顔を隠そうともせず、こちらをまっすぐに見つめる姫……。ああ、蝶が羽ばたくように私の胸を打っている」
「ハハハッ……」
まるで舞台上で吐く台詞に、千珠はしらけて苦笑した。
もし泰成の口調が、目の前の男性みたいだったら、絶対に心を捧げなかっただろう。
こんな言葉を並べられると、呆気に取られる以前に、拒否反応。虫唾が走って逃げ出したくなる。
それでも走り出さないのは、彼と泰成がどういう関係なのかまだわからないせいだ。
だけど、やっぱり……
「ああ、気持ち悪い!」
「はい?」
声に出していたと気付き、千珠は咄嗟に作り笑いを浮かべた。
「いえ、こちらのこと。ところで、わたしは自分の素性を話さない方に、名前を告げるような育てられ方はしていないの。もし、話す気がないのなら――」
早々にここから出ていけ!
ジロリと睨み、人差し指を彼に突きつけようとしたまさにその時、遠くで透渡殿を渡る足音、続いて孫廂(まごひさし)を走る音が耳に届いた。
泰成の白桜邸に来て以来、こんな音を聞いたのは初めてだ。
千珠が何事かと目を向けると、表着(うわぎ)を振り乱して袿(うちき)の裾を乱暴に蹴って走ってくる小牧の姿が目に入った。
しかも、凄い形相をして千珠を見ている。
孫廂(まごひさし)からすのこ縁に出た途端、彼女は地団駄を踏むように千珠に詰め寄ってきた。
「どうして扇でお顔を隠さないのですか! いえ、それより、どうして泰成さま以外の殿方にお顔を……。小菊! 几帳をお持ちしなさい!」
小牧が孫廂でおろおろしている小菊に命令する。
その声音、乱暴な振る舞い、強張らせた顔を見ているだけで、彼女が本当に憤慨しているのが伝わってくる。
いったいどうやってその怒りを静めればいいのだろう。
千珠が何も言えずにその姿を見ていると、小牧がさっと動いて座って手をついた。
「近衛少将敦家(あついえ)さま。どうぞご無礼をお許しください。ですが、どうか千珠さまのお顔はお忘れくださいませ!」
少将? つまり、泰成と同じ身分ぐらいだろうか。
小牧の言葉に反応して、敦家と呼ばれた男性に視線を移す。
「それは無理というものだ! こうして既にお目にかかったのだから。それに、もう私の心に姫のお姿が焼き付いている。忘れたくても、忘れられそうにない。それより――」
敦家が、ふいと小牧から千珠に流し目を送る。
「姫の名は、千珠というのですね。なんとお美しい名だ!」
だが、小牧がいきなり立ち上がって千珠と敦家の間に躯を入れた。
「近衛少将さま! 申し訳ございません。千珠さまは、泰成さまと3日夜の餅≠――」
「もういいわよ、小牧」
千珠は彼女の腕に手を置き、そっと押しやる。
何をおっしゃってるんですか! ――と言わんばかりの小牧に、千珠は力なく頭を振った。
「だって、もう話してしまったもの。顔も……その……見られた。とくれば、今更隠すなんてナンセンスでしょ? それに、わたしは今まで誰にも顔を隠したことがないし」
「千珠さま!」
泣きそうな表情を浮かべる小牧に、大丈夫だと告げるようにして頷く。
もちろん事の成り行きに、多少不安を感じる。
でも、小牧の言葉で3日夜の餅=泰成のもの≠セというのは伝わったのだから、それほど身構えなくてもいいだろう。
「……ほほう、千珠さまは本当に変わっておられる。だが、そうか……泰成と3日夜の餅≠。堅物だと異名の高い泰成の心を、姫は掴んでしまわれたのか。それほどまでに惹きつけられたものとはいったいなんなのだろうか」
敦家は意味深な言葉を言い、さらに舐めるようにして千珠を眺めてくる。
だが、千珠も彼の言葉に興味を持ってしまった。
「ねえ、どうしてわたしが泰成さまの心を掴んでるなんて言うの?」
そんなことを訊かれると思わなかったのか、敦家はきょとんとした表情で千珠を見つめた。
「本当に千珠さまは変わっておられる。……そういう風に訊ね返す女性がいるとは思ってもいなかった」
そう口にするなり、敦家が急に口角を上げて楽しそうに笑った。
何故かその笑みに、背筋がゾクッとした。
心地いい甘い疼きではなく、嫌な予感とでも言うのだろうか。
それは、コンパ中に嫌な視線を投げつけられた時とよく似ていた。そういう目をする男性は、決まってさりげなく千珠の肩や背に触れてきた。
もしかして、敦家も変な気を起こそうとしている?
一瞬、そんな考えが浮かんだが、千珠はすぐに一蹴した。
ここは現代ではない。しかも、彼は泰成と千珠の関係を知っている。
きっと変なことは起こらない。
千珠は自分にそう言い聞かせて頷いた時、敦家がクスッと笑みを零す。そこに何か意味深な雰囲気を感じて、彼を窺うように見つめた。