千珠は表着(うわぎ)を払いのけて、勢いよく上体を起こした。
「はいぃ? つ、妻!?」
妻というのは、奥さん。奥さんは夫を、家を守り、そして子どもが生まれれば育てていく。
つまり、ひとつの家庭ができるということ。千珠は泰成の名に守ってもらえるのだ。
永遠に……
泰成の千珠への想いを感じ、胸の奥に温かな熱が生まれる。
千珠は軽く俯き、幸せを噛み締めるようにそこに手を置いて目を閉じた。
衣擦れの音がして顔を上げると、小牧が千珠の傍に腰を下ろした。
「そうですわ。後朝(きぬぎぬ)の御文をいただいていたのを、もうお忘れですか?」
「それは忘れてないけど……」
後朝の文に書かれていた歌は、千珠には全く読めない上に理解できなかった。
だが、それをここでまた蒸し返すつもりはない。
泰成が届けてくれた文を前にして、何も反応を示さなかった千珠。それを見た小牧が、どれほど落胆していたことか。
「千珠さまの親御さまがいらっしゃいませんから、露顕(ところあらわし)の儀はできませんけれど、こうして3日夜の餅≠届けてくださったということは、少将さまのお気持ちはひとつ。千珠さまは泰成さまの妻だと公にしたいのですわ!」
そこで、小牧がふと表情を曇らせる。
「蔵人少将泰成さまには、暁の上とおっしゃる北の方さまがいらっしゃるので、正妻にはなれませんが」
「あっ、うん。それはわかってる」
ひとりの男性を複数の女性で支えるなんて、未だに千珠には理解できない。
でも、千珠には泰成しかいない。この世界で頼れるのは、愛している彼だけ。
だから、千珠は覚悟を決めていた。泰成が北の方の元へ行っても、決して嫉妬を抱かないと。
その代わりと言ってはあれだが、千珠は身の回りのものを大改造しようと思っていた。
まず、この硬い枕。安眠とは程遠い代物を、柔らかい枕に作り変えてもらおう。さらに、その日に着ていた表着を上掛けにするのではなく、ちゃんとした布団を作る。
そして、毎日お風呂に入れるよう小さな小屋を用意してもらう。
とりあえず、生活の一部を改善すればとても過ごしやすくなるだろう。
泰成が傍にいなくても、温かく躯を包み込む布団と枕があれば、自然と寂しさをまぎらわせられるに違いない。
今夜は通ってきてくれる、通ってきてくれない……?
そんな心配をしながら日々を過ごしたり、知らせを受けて意気揚々と躯を綺麗にしたり、香を焚き染めたりはしたくない。
女の子は好きな人のために綺麗にしておきたい。それを生活の一部にしておきたい。
「よし、起きよう!」
セックスで痛む躯に鞭を打ち、千珠は大きく伸びをした。
「では、お着替えを」
小牧に言われ、千珠は小袖の上に袿(うちき)、そして表着(うわぎ)をまとうと、胸元に匂い袋を忍ばせた。
身支度が調え終わったのを見計らった小牧が、千珠の後ろに回って髪を梳く。
その時、ひとりの女房が局に入ってきた。既に顔見知りとなっている、まだ15歳の小菊だった。
「千珠さまの朝餉(あさげ=朝食)をお持ちしました」
「ありがとう、小菊」
小牧が使った道具を櫛笥(くしげ=化粧箱)に直す間、千珠は碗を持った。
味が濃く、また油っこいものばかりを食べていたせいで物足りなさもあったが、激しい運動がたたっているのだろう。
千珠は、出された料理をぺろりと平らげた。
「ごちそうさまでした」
局から折敷(おしき=お盆)が下げられ、再び静寂な時間が流れる。
しばらくボーッとしていたが、千珠は反物を広げては整理する小牧を見た。
「ねえ、小牧。今何時?」
「午の刻(午前11時〜)ですわ」
「そう……」
陽射しが庭園に降り注いでいるその光を御簾越しに眺めていたが、千珠はいきなり上がった。
こんな風にだらだらした生活を送っていたら、躯がなまってしまう。
「千珠さま?」
小牧は何度も目をぱちくりさせ、千珠を仰ぎ見る。
「こんなにいい天気なのに、局にじっとしているなんてもったいない! それに、泰成さまは物忌みが明けて参内するって言ってたから、別に大人しくしている必要はないでしょ?」
「えっ? あの……お待ちください! せ、千珠さま!」
慌てて走り寄る小牧から逃れるように、千珠は局を横切って御簾をめくり廂(ひさし)に出た。さらに孫廂へ出る。少し先へ進んだところへ行けば、春の花が咲き誇る庭園がある。
それを覚えていた千珠は、迷わずにすのこ縁に出るとそこへ向かった。
階(きざはし)を下りて直接庭園へ行きたい……
だが千珠は、靴を持っていなかった。
「仕方ない、か……」
千珠は場所を少し移動し、誰も通らない広廂(ひろひさし)に腰を下ろす。
高欄(こうらん=手すり)に手を置いて体重を傾けた時、千珠に追いついた小牧が現れた。彼女は肩で息をし、へなへなと千珠に隣に座り込む。
「千珠、さま……。南へ向かわれたと思いましたのに、どうしてまた東へ移動なさるのです」
額に汗をかいてる小牧を見て、千珠はクスクス笑う。
「小牧、はっきり言って運動不足。それではダメ。わたしより……若い≠だから、もっと体力をつけないとね」
頬を膨らませて拗ねる小牧を見て、千珠は堪えきれなくなって笑い声を上げた。
「大丈夫。もっと走りこめば持久力はつくから。それに、こんなにも重たい袿(うちき)を着ているのに、上半身を動かさずに速く動けるんだもの。うん、きちんと鍛えたら大丈夫よ。ところで相談があるの。あのね――」
千珠は話題を変えて、まず枕と布団を作りたいと伝えた。そして、毎日風呂に入りたいとも話す。
もちろん決定権は泰成にある。その前に、小牧にも話してその反応を見たかった。
「千珠さまのお国では、それが普通なのですか!?」
目を大きく見開いて息を呑む小牧に、千珠は静かに頷く。
「異質だと思うのも当然よね。でも、それが普通なの」
冗談ではないと伝えるため、変におちゃらけたりせず真摯な目で彼女を見る。
千珠が本当にそれを望んでいるとわかってくれたのだろう。
小牧は肩を落とすものの、頬を緩めて首を縦に振ってくれた。
「わかりましたわ。下女に指示していただければ、なんとかなると思います。ただお清めの場ですが、これは蔵人少将さまに訊ねませんと……」
小牧の言うとおりだ。専用の建物を敷地内に造るとなれば、泰成の了承を選らなければならない。
泰成もいいと言ってくれたらいいな……
千珠は頬が熱くなるのを感じながら、ふふっと笑った。
もしかしたら、一緒にお風呂に入れる機会が持てるかもしれないしと思ったからだ。