泰成の目に映る千珠は、絶対に変な女に違いない。
なのに、こうして心配して訪ねてきてくれた。相手を気遣うその気持ちが、本当に嬉しかった。
千珠は胸が熱くなるのを覚えながら感謝を込めて微笑み、そして肩をすくめて見せた。
「躯は疲れてるんだけどね。それに、普段はこんなに早くベッドに……」
そこでハッとする。ベッドなんて言っても、泰成には通じない。
千珠は言葉を取り消すため、小さく頭を振った。
「えっとベッドじゃなくて……、床? ……そう、床につくなんてないの。それで目が冴えてて」
「あ、ああ……」
その言葉を最後に、ふたりの会話が途切れた。
千珠の何がいけなかったのだろう。
泰成は千珠から顔を背け、恥ずかしそうに目を泳がせている。
とにかくなんでもいいから謝ろう。優しい泰成の機嫌を損ねる真似だけはしたくない。
身を乗り出して口を開こうとした時、泰成が咳払いをひとつした。
そして、あらぬ方を見ていた目を再び千珠へ戻す。
「私に……千珠の国の話をしてくれないか?」
「はっ? ……えっ、何を?」
「女房を下がらせた真夜(=23時から1時ぐらい)に私が訪れても、千珠は驚かなかった。つまり、千珠の国では……このようなことは普通にあるのか?」
「普通って、……えっ?」
千珠は、泰成の言葉に目をぱちくりさせた。
つまり、男性が自分の部屋に来るのは常日頃からあるのかと訊いている?
千珠はポカンと開けた口を閉じ、自分の生活を振り返った。
バイト仲間やゼミ仲間を招待しては、楽しく過ごした日々が鮮明に脳裏に浮かぶ。
持ち寄った料理をテーブルに並べては、皆とその時間を楽しんだ。
それは1日では終わらず、友人たちは数日千珠の家に泊まっていったことさえあった。
田舎の実家では、なかなかそんな風に過ごせないが……
大学時代よりもさらにその前、実家暮らしをしていたころにまで遡ってしまい、慌ててそれを心の奥へ押し込む。
そして千珠は口元を緩めて、泰成に頷いた。
「もちろん。下手したら、陽が昇るまでわいわい騒いでた日もあったかな」
「つまり、千珠には……通ってくる男が何人もいるということか!?」
「か、通う?」
確かに、皆が千珠の家に来るのだからそうだろう。
でも、何か泰成と千珠の間では、意味の取り違えをしているような気がする。
目を見開きながらも、千珠の返事を待つ泰成。
一瞬どう言おうか迷ったが、真実を話すために頷いた。
「うん、とても楽しかった。ひとりで寂しかったから……。だからね、こうして泰成さまがわたしの元へ訪ねてきてくれて本当に嬉しい」
そう、それが千珠の気持ちだった。
確かに泰成がいきなり来てびっくりしたが、それは千珠を思ってのこと。
それがどれほど嬉しいか……
千珠はにっこりと微笑み、おもむろに泰成の手を握った。
「わたしのこと……知ってくれる? どんな風に暮らしていたのか、泰成さまに興味を持ってほしい」
「ああ、私の知らない……世界を教えてくれ。千珠の全てを……」
泰成が千珠の手を強く握り返してくれたのをきっかけに、千珠は少しずつ話し始めた。
時間が経てば経つほど、ふたりの仲が急速に縮まっていく。
千珠はさらに泰成の傍に寄り、臨場感たっぷりに手振り身振りを交えて伝えた。
一緒に微笑み合ったり、声を上げて笑ったり、また彼が驚嘆する出来事まで話した。
本当に楽しいひとときだった。
千珠の部屋を泰成が出ていったのは、寅三刻(午前4時〜)。
暁と呼ばれる時間帯だった。
――2日目。
「千珠さま。そろそろ起きてくださいませ!」
「う〜ん、今何時?」
「もう未三刻(午後2時〜)ですわ!」
小牧と話すようになって、まだ24時間も経っていない。それなのに、彼女の頭の回転は速い。
千珠の言葉をすぐさま変換し、何を求めているのか察して答えを導き出してくれる。
逆に千珠は、彼女みたいに、こちらの言葉をすぐに理解できないでいた。
それでもなんとか干支で計算するが、目覚めたばかりなので頭が上手く回転しない。
とうとうため息をつき、千珠は目を瞑ったままだらりと四肢を伸ばす。
「もう、千珠さま!」
「それぐらいにしてあげなさい」
突如降って湧いた泰成の声。びっくりした千珠は目をパチッと開け、乱れた小袖姿にも構わず上体を起こした。
御帳台の1辺の帳は下ろされていたが、残りの3辺は小牧の手で綺麗に巻き上げられていた。
そのせいで、几帳を回って御帳台に近づく泰成に姿がすぐに目に入った。
「どうしてここに? お仕事は?」
昼間っから白桜邸にいることに驚き、千珠は口をポカンと開ける。そのまま、無駄のない綺麗な所作で移動する泰成をじっと見つめた。
「物忌みで、しばらく参内は控えている」
呆然とする千珠に、小牧が慌てて袿(うちき)を羽織らせてくれた。
「泰成さまの御前ですよ。少し慎まなければ……」
おろおろする小牧があまりに可哀想なので、千珠は一言「ごめんね」と謝った。
背後へ移動する小牧を目の端で捉えつつ、意識を泰成へ向ける。彼は千珠と目が合うなり、頬を緩めた。
「千珠、昨晩はとても楽しかった」
「えっ? さ、昨晩!? いったい何があったんですか? も、も、もしかして千珠さまは……蔵人少将さまと!」
千珠の髪に櫛をあてていた小牧が手を止め、ふたりの会話に割って入ってきた。
驚きを隠そうとはせず、ふたりを交互に見比べている。
その顔があまりにもおかしくて、千珠は笑った。
「もう、小牧ったら何を言っているの? 泰成さまはね、わたしの話を……わたしのいた世界の話をいっぱい聞いてくれたの。そうだわ! 今夜もね、わたしの元に遊びに来てくれるって。良かったら小牧も来て」
千珠の言葉に、小牧が嬉しそうに瞳を輝かせる。
「いいんですか? 小牧にも、千珠さまのお国の話を聞かせていただけるんですか!? もちろん、小牧もご一緒に……あっ!」
突然、小牧の顔が固まる。
あんなにはしゃいでいたのに、急に声のトーンまで下がるなんて、いったいどうしたのだろう。