『初桜に愛舞い降りて〜宿世の契り〜』【9】

 千珠のためだけに、泰成が設えてくれた局。
 最初に目が覚めた時、千珠は小牧の局に寝ていた。彼女の局は今まで暮らしていたワンルームよりも広かったが、今千珠のいる局はさらにその上をいく広さだった。
 しかもこの局には、ベッドの代わりの天蓋付きの御帳台(みちょうだい)が、絨毯の代わりの、畳の敷かれた昼御座(ひのおまし)がある。
 その周囲には几帳が立てかけられているが、その他に屏風もあった。
 泰成の腕に再度抱かれてこの局へ移動した時、千珠はあまりにも広すぎると伝えた。小牧の局ぐらいで十分だと彼に詰め寄ったが、何を言っても受け入れてもらえなかった。
 ここまでしてもらえるほど、千珠は何もしていないのに。
 知識のない世界で、泰成や小牧にどうやって恩返しをすればいいのだろうか。
 泰成が去り、そして傍についてくれた小牧が局を下がったあとも、千珠は横にならなかった。
 御帳台に持ち込んだ脇息にもたれて、燭台の明かりの傍でじっとしていた。
 これからの行く末を思うと、不安がどんどんあふれて眠れそうもなかったせいだ。
 
 見知らぬ土地に紛れ込んでしまっただけで、気が動転してしまいそう……
 
 燈台の小さな明かりが、四方から下ろされた帳(とばり)に反射している。
 そこにぼんやりと浮かび上がる柄を見ては、千珠は頭を掻きむしりたい衝動に幾度となく駆られた。
 それからどれぐらい時間が経ったのだろう。
 
 今何時? 21時過ぎ? それとも、もう0時は過ぎている?
 
 普段の生活だと耳をすませるだけで、車の走る音や歩道を歩く人の笑い声といった喧騒が聞こえる。それで、だいたいの時間は予想できる。
 でも今は、そんな音すら聞こえない。
 針を落とす音さえ耳に届きそうなほど、静まり返っている。
「はあ……。わたし、これからどうなるのかな?」
 千珠の声とやるせない吐息だけが、広い局にむなしく響く。
 それが余計にお前はひとりぼっちだ≠ニ言われているみたいで、一層不安が肩にのしかかってきた。
 何時なのかわからないこの状況さえも、千珠を心もとなくさせる要素のひとつなのかもしれない。
 携帯のボタンひとつで友達と繋がる安堵感、スイッチひとつで暗闇を照らしてくれる電灯の存在、そして調べたいことがあればすぐに情報を得られるパソコン。
 それらの便利さを知っているからこそ、全てを切り離されて初めて文明のありがたみが身に染みてわかった。
「でも、向こうに戻られないのなら、この世界で暮らすしかないのよね……」
 そう口にした途端、千珠の顔から血の気が引いた。
 
 ここで? それとも、この局を……白桜邸の外に出て?
 
 右も左もわからない世界へ放り出されると想像しただけで、千珠の躯に震えが走った。
 行く末を考えただけで、息が詰まりそうになる。
 ほんの少しでいい。この局を出て、新鮮な空気を吸いたい。
 誰にも見咎められず、自由に庭を歩き回れたら、張り詰めたこの気持ちもどんなに楽になることか。
 でも、途中で躯の節々が痛み、庭で動けなくなってしまったらと思っただけで千珠は怖じ気づき、力なく吐息を零す。
「なるようにしかならない。そうよね? 護寿神社内でも、頑張るって口にしたばかりなんだから」
 この世界に来て、まだたった数時間。
 アドレナリンが放出されているのか、眠気は全く起こらない。
 だけど、明日のことを考えるならもう寝た方がいい。ここでの生活を考えるために、少しでも気力だけは蓄えておかなければ。
 千珠は顔を上げ、燈台を見る。
 小牧から油がなくなれば火は消えると聞いていたので、このまま放っておいて大丈夫だろう。
 ただ、もし振動で倒れたら大惨事になる。
 この時代の消防はどうなっているのかわからないのもあるが、千珠を置いてくれている泰成に迷惑をかけたくない。
 脇息を手で押しやり、燈台へ近づこうとしたまさにその時だった。
 いきなり御簾の揺れる音が静かな局に響き、それが御帳台にいる千珠の耳にも届いた。
 
 えっ? 何!?
 
 帳で四方を包まれているため、その向こう側の気配を全く感じ取れない。それだけでも恐怖を煽られるのに、明らかに人力で御簾を動かした音に、躯がビクッと震え上がる。
 しかも、板を踏む音が千珠の耳に届いた。その音はどんどん千珠に近づいてくる。
「だ、誰!? 小牧……なの?」
「……私だ」
 既に慣れ親しんだ声にホッとすると同時に、千珠の中に不安が芽生える。
「えっ? ……泰成、さま?」
 泰成は、夜が明けたら局へ来ると言って出ていった。でも今はまだ太陽すら顔を覗かせていない。
 どうしてこんな夜更けに彼が千珠のいる局にくるのだろう。
 もしかして何かが起きて、白桜邸を出ていけと言いにきたのだろうか。
 つい数分前に考えていた恐怖が甦り、躯が小刻みに震える。
 筋肉痛で痛む両腕で我が身を強く抱いた時、揺らめく小さな明かりが帳越しに見えてきた。
 その明かりが強く帳に映し出されると、正面のそれがめくれて泰成が現れた。
 傍にある燈台の明かりと合わさり、ふたつの火はまるで溶け合うように大きな光となった。
 
 ひとつに溶け合う……
 
 突然の胸の高鳴りにまた別の震えに襲われるが、千珠はそっと泰成を見上げた。
 言いにくい話をしにきたのだろう。挙動不審げに、彼の目が左右に動く。
 でも何故だろう。
 本当なら泰成の口からもたらされる言葉に身構えてもいいのに、張り詰めていた緊張がゆっくり解かれていく。
 それはきっと、泰成の着ている衣装のせいだろう。
 昼間の直衣姿とは違い、小袖の上に羽織っただけの袿姿は全く堅苦しくない。気軽な衣姿に心が和らいでいく。
 そんな泰成をじっと見ていると、彼が御帳台の奥へと移動し、千珠の傍らに腰を下ろした。
「こんな時間にどうして? ……って、今何時なのかわからないんだけど」
 千珠の言葉に、泰成は朗らかな笑みを浮かべる。
「今は、子の刻(午後23時〜)だろう」
 また干支だ。
 千珠は、子、丑、寅……と指を折って数えるものの、すぐにプッと噴き出す。
「わたしバカね。子は1番目だから、数える必要もないのに」
 泰成は千珠につられて口元を綻ばせる。
「なかなか眠りにつけなくてね。千珠もそうではないかと思ったんだ」
「えっ?」
 
 もしかして、心配して来てくれた?

2014/06/05
  

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