亥四刻(午後10時30分〜)。
泰成は御帳台(みちょうだい=天蓋付きベッド)で横になっていたが、とうとう小袖の上に袿を引っ掛けるとそこを出て、昼御座(ひのおまし=日常座る場所)に座った。
そして、燈台の灯りの下で脇息にもたれてじっと考える。
もちろん、千珠のことだ。
出仕の途中で遭った物忌み(=穢れ)。
牛飼童に「牛車の前に穢れが」と言われた時はそれほど気にしなかったが、全ては、あの時から始まった。
* * *
「蔵人少将さま。申し訳ございません。牛車の前に穢れが……」
内裏へ参内する途中、牛飼童が泰成に声をかけた。
泰成は傍の小さな戸を開け、気にする必要はないと彼に目を向ける。
参内へ行く途中、穢れに遭うのは珍しいことではない。それもあり、牛飼童に言われてもそれほど気にはしなかった。
「構わない。穢れを内裏へは――」
だが、泰成の視線の先にある光景を見た瞬間、急に胸の奥がざわついた。
空を覆う雲の流れが異様に速かったからだ。しかも、これまで一度も見たことのない七色に輝く筋が雲を照らしている。
それはすぐに消えたが、何故か光の筋は白桜邸の方角へ流れていった。
「それでは、これから白桜邸に戻らせていただきます」
これまで同様、牛飼童が物忌みで白桜邸へ引き返そうとする。
「すまない。なるべく早く戻ってくれないか?」
泰成は動き出した牛飼童の背に、そう言っていた。
牛飼童は泰成のただならぬ気配を感じ取ったのだろう。「ただいますぐに!」と言うなり、慌てて牛車の紐を引き始めた。
それから小半刻(約30分)もしないうちに、牛車は白桜邸に着いた。
牛飼童が中門廊の妻戸の前にある車寄(くるまよせ)に牛車を入れるなり、泰成は急いで降りた。
この胸をざわつかせる真相は、東の対屋にある!
足取りも早く、東の対屋へ行こうとした刹那。
「蔵人少将さま!」
滅多に声を荒げない女房の声に、泰成はピタッと足を止めて振り返った。視線の先には、泰成に駆け寄ってくる女房の小菊がいた。
「何事か」
小菊は泰成の足元に膝をつくなり、頭を下げる。
「蔵人少将さま! すぐに主殿の庭園へお越しくださいませ」
「何故そちらに行かなければならない?」
小菊が面を上げ、顔を青ざめさせながら泰成を見上げた。
「そ、そこに……白桜邸とは縁もない見知らぬ女人が!」
物忌み、雲の流れ、七色に輝く一筋の矢、そして誰にも見咎められず第宅に侵入した女人。
これは何かの兆しだ――そう思うほどに、胸の奥のざわつきが大きくなっていく。
「その女人は庭園のどこにいる?」
「庭園にある桜の大樹の根元に!」
「すぐに向かう!」
藤原家の第宅が、白桜邸と呼ばれるに至った見事な桜。
何故その幹の根元に見知らぬ女人が倒れているのかわからない。
本来なら不審者だと検非違使に突き出してもおかしくない状態にもかかわらず、泰成の心と足は、主殿の奥へと向かっていた。
主殿へ通じる透渡殿を渡り終えると、さらに奥にある庭園へと通じるすのこ縁へ走る。
そして桜の大樹が目に入った時、その根元にぐったりした女人が目に入った。その女人の傍らには東の対屋付きの女房小牧が、そして少し離れた場所に長女(おさめ=雑用に従事する下女)や雑色(ぞうしき=雑事を務める無位の者)がいた。
主殿での騒動。きっとこの件は父、中納言藤原実成の耳に入るに違いない。
それでも泰成は助けを求める小牧の目を見て、すぐに階(きざはし)を駆け下りると、女人の傍へ走り寄った。
「他言無用だ」
泰成は遠巻きに見ていた長女や雑色に言うなり、意識のない女人に目をやった。
血の気を失ってぐったりしている女人を見て、泰成は息を呑む。白粉をつけていない透きとおった白い肌、綺麗に発色している唇に胸がときめく。
だがすぐに湧き立つ想いに蓋をし、冷静さを心掛けて女人を腕に抱き上げる。
なのにその瞬間、心を狂わせるような甘い桜の香りが泰成の鼻腔をくすぐった。
泰成の動きが止まり、目が女人へと吸い寄せられる。
「蔵人少将さま?」
女房小牧の声でハッと我に返るが、泰成は上手く言葉を発せられない。
足も重たく感じたが、なんとか意思の力を総動員させてゆっくり動かすと、主殿へ向かって歩き出した。
衣から伝わる女人の温もりを感じながら……
* * *
初めて千珠を腕に抱いた日を思い出すだけで、泰成の躯の芯に疼きが走る。
彼女の出自は、考えれば考えるほど不思議でならない。
千珠の暮らしていた世界とは、ここの世界とどう違うのだろう。そもそも、そんなことは起こるものなのだろうか。
……あり得るのだろう。彼女が生き証人だ。
それに、普通に考えても、この白桜邸にはそうやすやすと人は侵入はできない。それも、主殿の奥深い場所へ。
千珠はそれを成し遂げている。
到底計り知れない神力が働いているとしか思えない。
そういえば以前、内裏に出自の知れぬ女人が現れたと、どこかで耳にしたような……
その女人がどうなったのか、泰成は知らない。だが、参内した時に探る価値はある。
「それにしても……」
泰成は脇息を抱くようにしてため息をつくと、そこに頭を載せた。
千珠の言葉遣いは、なんとはきはきしていて美しいことか!
扇で顔を隠そうとはせず、まっすぐにこちらを見る大きな瞳、愛らしく綻ぶ口元、そして優しく微笑むその表情。
千珠は、泰成が出会ったどの女性とも違った。そして、どの女性にもない魅力を兼ね備えている。
千珠が欲しい、この手で彼女の全てに触れてみたい!
「そう思うのは、私の我が儘だろうか?」
違うと思いたい。
千珠が白桜邸に舞い込み、父ではなく泰成の東の対屋にいるのが、神のお導き。
だが、千珠に触れるというのは、自分で決めた禁を破ることになる。一生、他の女人には手を触れないと決めた禁を。
その決心を揺り動かす出来事がなかったから、今まで禁を破りもせず過ごしてこれたのだが……
――ガタッ。
かすかに響いた物音に、泰成は上体を起こし、廂へ目を向ける。
「義文(よしふみ)か?」
「若君……」
泰成の従者が、御簾の外で声を発した。
「何事か?」
「西洞院より、使いの者が。若君に御文をと」
西洞院は泰成の舅、春日権大納言の第宅だ。
「……北の方(=正妻)か?」
「さようでございます」
今から10年前、泰成が15歳の時に妻にした2歳下の暁(あかつき)の上の文。ここしばらく忙しく、妻のもとへ通っていなかったので催促してきたのだろう。
泰成は、暁の上以外の女人を妻に望まないと誓い、北の方が寂しがるような真似はせず、穏やかな夫婦生活を送っていた。
まだ子宝には恵まれていないが、それで妻との生活に苦言を漏らしたことは一度もない。
だが、今は……
「……物忌みに遭い、しばらく白桜邸で過ごすとお伝えしてくれ」
「えっ? 御文は?」
「…………」
「……かしこまりました」
義文の動揺が、泰成のもとにまで伝わってくる。
常時冷静な義文の感情を揺り動かせられたと思わずふっと口元を緩めたものの、泰成は疲れたようにため息をつき、再び脇息にもたれかかった。
今までの泰成ならば、北の方に対して、絶対にこんな無礼な振る舞いをしない。
義文はそれをわかっているから、泰成の言動に戸惑いを感じたのだろう。
従者の気持ちがひしひしと伝わってきても、泰成の心は北の方ではなく千珠のもとへ羽ばたこうとしていた。
こんな気持ちで、いったい暁の上に何を書けばいいのか。
泰成は、移りゆくこの気持ちをどうすることもできなかった。
義文が下がって、小半刻(約30分)。
泰成はとうとう行動に移すべく立ち上がった。肩から羽織っていた袿に手を通し、燈台の火を燭台に移す。
千珠のために与えた局に向かうため、泰成は御簾を上げて廂へ出た。
そして、誰も起こさないよう静かに歩き始めた。