小牧は視線を彷徨わせたと思ったら、残念そうな表情を浮かべ、肩をガクリと落とした。
「残念ですけれど……子の刻(23時〜)は下がらせていただきますわ。本当は心から千珠さまのお話をお聞きしたいと望んではいるんですけど――」
そう言って、ちらっと千珠の後方へ視線を向ける。
小牧のその眼差しに気付き、千珠は振り返ってそこにいる泰成を見つめた。
彼は閉じたままの扇で口元を覆い隠し、そっぽを向いてそ知らぬ顔をしている。
肩を落とす小牧と、話に加わらない泰成。
ふたりを交互に見て、千珠はなんとなく何が起こったのか想像することができた。
きっと、泰成が小牧をけん制したのだろう。
そんなに千珠の暮らしを小牧には教えたくない? それとも、小牧には千珠の局に来てほしくなかったのだろうか。
もしかして、そこにふたりの邪魔をするな≠ニいう意味が込められていたのなら、嬉しいかもしれない。
千珠はそこでハッとした。
えっ? 嬉しい?
泰成を意識すればするほど、胸の奥がざわざわして心臓が早鐘を打つ。体温が上昇して頬が熱くなってきた。
今この顔を見られたら、絶対に感情を読み取られる――そう思った途端、運悪く泰成がちらっと千珠へ目を向けた。
千珠は慌てて視線を逸らすが、その行為こそ何かあると伝えるようなもの。
平常心、平常心。
何度も自分に言い聞かせ、気持ちを落ち着かせてから泰成に視線を戻した。
問題ないとにっこりする千珠に、泰成が含み笑いをする。
でもすぐに仕切り直しと言わんばかりに、彼は音を立てて扇を開き、それで口元を隠した。
「……躯はもういいのか?」
「えっ? あっ……うん。ぐっすり眠れたから、今はけだるさが残ってるだけかな」
「それは良かった。若いので治りが早いのだろう。若いと言えば……千珠の齢(よわい)は?」
「齢って年齢? わたしは21歳よ」
そう答えた瞬間、目を見開く泰成。続いて「ええっ!?」と小牧が叫んだ。
「な、何? 何かおかしい!?」
千珠はうろたえながら、ふたりを交互に見つめた。
「あの……千珠さまって、意外にお年を召されていたんですね」
はいぃ? 年を……召されてる!?
小牧の言葉に異を唱える様子のない泰成に、千珠は身を乗り出した。
「ちょっと! わたしの国ではね、成人は20歳なの! 21歳なんて、ぴっちぴちで若い部類に入るんだから!」
息せき切って言い募る千珠に対し、小牧は眉間に皺を刻ませる。
「ぴっちぴち? よくわかりませんが……、なんて変わったお国なのでしょう! こちらでは、裳儀(もぎ=女性の成人の儀)を終えたら大人の仲間入りですのに」
源氏物語に出ていたあの裳儀≠指しているとわかったが、それほど詳しいわけでもないので、その話題はスルーする。
だが、小牧はまだ話し足りないとみえて、矢継ぎ早に話しかけてくる。
「成人の儀式を終えられたばかりという話ですが、千珠さまにはあちらのお国に夫がいらっしゃるのですか?」
「夫!?」
目を大きく見開いて絶句する千珠。
それを見た小牧も、負けじと目をぱちくりさせた。
「もしや……、成人の儀式を終えられたのに、まだ夫を迎えてはいらっしゃらないのですか!?」
そう言われて、このまま黙ってなんかいられない。
理解してもらえるとは思っていなかったが、千珠は泰成に話したように小牧にも説明し始めた。
「当たり前でしょ! もちろん、早く結婚する人もいるけど……わたしみたいに大学へ通って勉強している女性の結婚はもっと先……就職したとしても5年は遊んで、結婚はそれからよ」
「まあ! そんなお年を召されても、求婚してくださる殿方がいらっしゃるのですか?」
「お年を召されても……って」
小牧の言葉に千珠は苦笑し、この話は終わりだと片手を振った。
だが突然、小牧と泰成は何歳なのか全く知らないと気付く。
「ねえ、小牧は何歳なの? 泰成さまは?」
「わたくしは18歳ですわ。蔵人少将さまは25歳です。10年前にはもう北の方さまの元へ通われて――」
「えっ? ……通う?」
そういえば、昨夜は泰成の口から何度も通う≠ニいう言葉が出ていた。
そして小牧の言った北の方≠ニいうのは、確か妻という意味だったはず。
そっか、彼は結婚していたんだ……
その事実に、心臓に針で刺したような痛みが走る。
思わず顔をしかめてしまうが、千珠は泰成に目を向けた。
だが、彼は千珠を見ていない。
もう何も話さなくていい――と言わんばかりの強い眼差しを小牧に送っていた。
千珠に口止めしている? どうしてそんなことをする必要が?
この時代の知識は、学校の授業と源氏物語で得たぐらいしかないが、若いうちに結婚するのは知っていた。
泰成は25歳。当然妻もいれば、子どもだっているだろう。
まだそれらしき人物をこの目で見てはいないが、いずれ顔を合わせる機会もあるかもしれない。
その日がくる前に、泰成の口からはっきり妻子がいると言ってほしい。
千珠は生唾をゴクリと飲み、泰成と目を合わせた。
彼は目を逸らそうとはせず、千珠を射抜くような視線を投げてくる。
その瞳にある、何かを決意したように見える強い光はなんだろう。
千珠の心が期待で震えるが、すぐに心の中で頭を振る。
ここで世話になっている身だというのを忘れてはいけない……
視線を落とした時、碗を持った小牧の手が目に入った。
「千珠さま、どうぞ」
「ありがとう」
千珠は小牧が差し出した薬湯を受け取る。
まずは躯を元に戻すこと。それを一番に考えなければ。泰成の妻子の件は、また日を改めて訊けばいい。
そう思うのに、千珠は自然と俯き唇を噛んだ。
そこでふと、昨夜見た桜をもう一度見たくなり、千珠は面を上げた。
あの鈴の音。桜を見た時にまた音が聴こえるのか試してみたい。
「泰成さま。わたし、もう一度あの桜≠見てみたいんだけど――」
「駄目だ!」
それは突然だった。
人目につきにくい時間帯を教えてくれないかな? ――そう訊ねたいだけなのに、いきなり泰成が声を荒げた。
いきなり泰成の態度が豹変するなんて、何故!?