side:康貴
「それで……いきなり大阪に来た理由は?」
康貴は、目の前に座る大学時代の友人であり、セフレでもあった朱音を見つめた。
「理由がなければ、来てはいけなかった?」
上目遣いで誘うように見上げるその仕草……、本能を揺さぶるような女の妖艶に酔いしれたのは、もう昔の事。
康貴は、脱力したように椅子の背に凭れた。
「いけない、とは言ってない。だが、俺を呼び出したりする必要があったのか?」
化粧を濃く施したその塗りは……人妻には見えない。
まぁ、朱音は人妻ではないが。
視線を横に向け、小さな男の子を見る。俺の名を受け継いだ……康汰を。
「相談にのって欲しかったの。もちろん、その相談料は……夜のお楽しみで一生懸命返すわ」
白くて細い指が、康貴の腕に触れ……暗示するように爪で軽く愛撫する。
「朱音……」
呆れたように、康貴は言葉を出した。
「何? 今さら照れるような事じゃないでしょう? わたしをこんな女にしたのは、康貴じゃない」
「それを進んで受入れたのは、朱音の方だろ」
康貴は、その愛撫から逃れるようにそっと振り払った。
すると、朱音は肩を竦めた。
「だって、康貴のモノになりたかったんだもの。……だけど、康貴にとったら女なんて皆同じなのよね」
唇を尖らせると、朱音はワインを一口含んだ。
「俺たちは、割り切った関係だった。それは朱音も納得していただろ?」
「そうだけど……」
康貴は腕を組むと、康汰を眺めた。
もし……康汰が本当に俺の息子だったら、俺は朱音を妻にしてただろうか? 決して一緒になりたくはない女でも。
朱音は、チラリと康汰を見つめて、再び康貴に視線を向けた。
「本当に康汰は……康貴の子供じゃないって言いきれる?」
「当たり前だ。俺は避妊には特に気を使ってる。望まれない子供を植えつけたくないからな。それに……計算があわない」
朱音は、大きくため息をついた。
「もう、本当に男って! どうしてそんな細かい事まで覚えてるのよ」
「それが普通だろ?」
朱音は康貴を睨み付ける。
「……わたしだって、どんなに康汰が康貴の息子であればいいと思ったか。康貴がわたしの最後通牒を受け取って、わたしとの接点を全て捨て去ったから……わたし淋しくて」
「今さらそんな話はいい。俺は、朱音を縛っていた事はないし、あの時は既に俺たちの関係は終わっていたんだ」
「康貴流の、セフレ…がね」
朱音は吐き捨てるように言った。
そんな朱音を、康貴は冷静に観察していた。
「昔話がしたかったのか? それとも、俺に抱かれたかったから来たのか?」
朱音は唇を噛み締めて康貴を睨む。
「違うわ! もちろん、一夜のアバンチュールは拒まないけどね。だって、わたしをあれほど燃えさせてくれる人は康貴しかいないもの」
「朱音」
康貴は、ダラダラと話す朱音に苛立っていた。
「わかってるわよ。……康汰の本当の父親が、わたしを欲しいって言ってきたの」
康貴は、方眉を上げた。
「良かったじゃないか。康汰を妊娠中に喧嘩別れして以来だろ?」
朱音は、急にそわそわし出した。
「そうじゃないの。康汰を産んだ後も……接触はしてた」
「あぁ、セフレか」
康貴は、うんざりしたようにブランデーを飲む。
「そう言われても仕方ない。でも、彼は決して康汰を自分の息子と認めないのよ。だって、わたしは……」
「俺の字を与えたから」
最後の言葉を引き継ぐように康貴が告げると、朱音は肩を竦めて肯定した。
「言えばいい。俺の字を与えたのは、康汰を産む時……助けを求めてきた朱音を、病院へ連れて行ったのが俺だからと」
「言ったわよ。でも信用してくれない。……だって、わたしは康貴に抱かれてたんだもの」
「俺にどうしろっていうんだ?」
「康貴が彼に一言、」
「ダメだ」
康貴は、すぐに断った。
朱音…本当にわかってるのか? そいつは俺を意識しているのに、当の本人が現れたらどうなると思うんだ?
朱音の考えのなさに、康貴は頭を振った。
その時、あの坊主が椅子から消えてるのが見えた。
「朱音、康汰がいないぞ?」
「えっ!」
朱音はビクッと躰を震わし、視線を彷徨わせる。
「康汰!」
その慌てぶりの姿は、母親としか言いようがない。
こいつでも、やっぱり母親なんだな。
「お前はここにいろ。俺は店内を探してくる」
立ち上がると、小さな坊主を求めて周囲を見渡しながら、薄暗い店内を歩く。
ウェイターに、それとなく店内に注意を向けてくれるよう頼む事も忘れなかった。
あの坊主はどこに行ったんだ?
イライラしながら店内を歩いていたが、もしかしたら化粧室へ行ったのかもしれないと思いついた。
康貴は、そのままレンガの塀で仕切りになった化粧室へ向かった。
「お母さんを探してるの?」
突然、女の声が響いてきた。とても優しそうで甘い声が。
その声が、康貴の心を駆け抜けると同時に、躰の芯が熱くなった。
こんな事が出来るのは、妹同然の莉世だけだと思っていた。
思いがけない欲望に、康貴はいつの間にか満足気に微笑んでいた。
「……うん」
小さな男の子の声が、響く。
間違いない、この声は康汰だ!
「じゃぁ、お姉ちゃんも一緒に探してあげる」
「本当?」
「うん」
俺の芯を揺さぶるようなこの女は……いったいどういう人なのだろう?
康汰が見つかった安心からか、いつの間にか興味は女性に移っていた。
音がしないようにゆっくり歩くと、塀の内側に身を寄せた。
そこには、しゃがんで康汰を抱き寄せる女がいた。
その姿は、まるで聖母のように初々しく、それでいて可憐だった。
目の前にいる女を求めて、胸が熱くなり動悸も激しく打ちつける。
こんな症状にさせた女性を、康貴は興味津々に見つめた。
「ボクのお名前は?」
彼女は、康汰を離してゆっくり問いかける。
「……こうた、みっつ」
「そう、こうたくんね。お姉ちゃんはね、」
と言いかけた時、何やら視線を感じたのか……彼女は視線を上げた。
ハッと見開いた大きな瞳を見て、康貴は彼女の気持ちが手に取るようにわかった。
驚愕に見開いた瞳で俺を見つめ……うっすらと愛らしい唇を開けてる。
そんな表情をベッドの中で見つめたいと思ってしまった自分に、笑いそうになった。
おいおい、今会ったばかりなんだぞ?
康貴は無理やり彼女から視線を逸らせると、康汰を見下ろしながら微かに微笑んだ。
「康汰、ここにいたのか?」
柔らかな彼女の胸で抱かれている康汰を、少し羨ましいと思いながら、康汰に手を伸ばした。
康汰は、飛び跳ねるようにパッと振り向き、彼女の腕から離れると……走り寄ってきた。
「何してたんだ、ママが心配してるぞ?」
そう言いながら、康汰を腕に抱き上げた。
「ママ、さがしてたも」
ママとは全然違うタイプの女性を……か?
康汰がどんな男に成長するのかと思うと、笑いが込み上げてくる。
「そっか」
そう応えたが、康汰にばかり全神経を向ける事は出来ず、とうとう惹き寄せられるまま視線を彼女に向けた。
彼女は、まだ呆然と康貴を見つめていた。
視線が再び重なった瞬間、康貴は内から燃え上がる欲望に興奮を覚えた。
彼女は、どうして俺をここまで奮い立たせる事が出来る?
こんな気持ちを抱いたのは……大人になってから一度もないのに。
康貴は、ゆっくり彼女に近寄った。
「悪かったね。この子が君に迷惑をかけたのでなければいいんだが」
「……いえっ、そんな迷惑だなんて」
康貴はそう言いながら、ゆっくり立ち上がる彼女が誰かのモノなのか確かめた。
左手の薬指には……独占の証はなかった。
一瞬で安堵感が包む。
彼女が欲しい……この腕に抱きしめたい。彼女は、俺の腕に抱かれてくれるだろうか?
康貴は……それを受入れられる女性なのかどうか、探るように彼女を見つめた。
「君は……一人?」
「いえ」
いえ? 男と一緒なのか?
康貴は、微かに眉を顰めた。
「康貴? どうかしたの?」
穏やかな……優しい雰囲気に包まれていたというのに。
毒のある棘が投げ込まれたような錯覚を感じながら、康貴は振り返った。
「朱音 ……」
「康汰、見つかったのね。良かったわ」
腕に抱かれた康汰を見て、満足そうに朱音は微笑んだ。
その微笑みは、普通の微笑みではなかった。
何を考えている?
「それじゃ」
か細い声が後ろで微かに響いた。
康貴は、咄嗟に振り返った。
どうしても、彼女との接点をここで断ち切るワケにはいかなかったのだ。
だが、彼女は康貴の側を通りながら、逃げるように去ろうとしている。
「待って! 君、」
彼女を逃してはならないと……本能が囁いてる。
康貴は、腕に抱いている康汰や朱音の事を気にもせず、彼女との接点を持とうとした。
彼女は、ビクッ躰を振るわせると立ち止まり、ゆっくり振り返った。
脅えたような、それでいて悲しそうな大きな瞳が、康貴に何かを訴えかけてくる。
なぜ、そんな目をする? 俺が、何かしたのか?
唇を開けて言葉を出そうとするが、喉が詰まったようになり声が出てこない。
「康貴?」
朱音が康貴の意識を自分に向けさせるように、腕にそっと手を乗せた。
まるで、この男はわたしのもの……というように。
その仕草に、康貴は腹が立った。
だが、怒りを向けようとすると、彼女が先に言葉を発した。
「……さようなら」 と。
康貴は、全てにおいての関りを避けるように去っていく……彼女の後ろ姿を見送る事しか出来なかった。
どうして、去っていく彼女を止めないんだ? 俺は、まだきっかけさえ掴んでいないというのに。
「康貴」
そう呼ばれて、彼女の美しい後ろ姿から目を離し、朱音を睨み付けた。
「邪魔するとはな」
「……康貴、わかってるの? 今まで見た事がないような、だらしない表情をして! まるで、飢えたオスみたいだったわよ。あんなのは康貴じゃないわ」
その言葉に、康貴は怒りがどこかに吹き飛んだ。
俺が、飢えたオス……だと? ……確かに飢えてはいるさ。だが、だらしない表情をした覚えはないぞ?
康貴は、自然と眉を顰めていた。
「ほらっ、もう出ましょう。康汰が康貴の腕の中で寝てしまいそうだわ」
見てみると、確かに康汰がうつらうつらと居眠りをしそうだった。
康貴は仕方なさそうに、そのまま会計へと向かう。
精算して外に出るが、もう一度振り返らずにはいられなかった。
もう一度、彼女と出会えるだろうか?
もし、再会出来たら……俺は今度こそ接点を持ち、必ず彼女を手に入れる!
そんな康貴を見て、朱音は康貴の腰に触れた。
「康貴。女が欲しいなら……わたしが今夜慰めてあげるから」
康貴は朱音を睨みつけると、タクシーを拾う為に大通りへ向かって歩き出した。
再び彼女と出会える事を願いながら……