―― 6月。
「それでは、“水嶋”の方に行って来ます」
亜弥は受付主任にそう告げると、バイトで働いている医院を出た。
輝くような日差しを遮るように、目の上に手を翳す。
左手の薬指に填められた精巧なダイヤの指輪が、キラリと反射した。
水嶋……かぁ。
そもそも高原との出会いも、“水嶋”の大阪支社だった。
週3で、亜弥は大阪支社の医務室に出勤する。そこで、医務室勤務の渡辺都(わたなべ みやこ)女史からカルテを受け取り、少しずつ整理していくのだった。
ある日、その高原が医務室へ入って来た。
亜弥が、医院の事務長からこの医務室へと任された、3日後の事だった。
「都、俺風邪ひいたみたい」
高原は、渡辺女史の前で背広を脱いだ。
「如月さん、こっちに来て」
そう呼ばれて、亜弥は奥の部屋から顔を覗かせた。
「どうかしました?」
亜弥が現れるなり、高原はビクッと躰を震わせた。
「あっ、ごめんさない。患者さんがいるとは、」
渡辺女史が、大声で笑った。
「いいの、いいの。わたしが呼んだんだし。高原秀明のカルテを持ってきてくれない?」
「はい」
亜弥は、奥に引っ込みカルテを取り出すと、渡辺女史に渡した。
チラリと視線を高原に移した時、見事視線が合った。
これが、二人の初めての出会いだった。
ビルへ入る前に通行証を首にかけると、警備員の前を通って医務室へ向かった。
この仕事は、昼の3時から5時までだった。
医務室のある階でエレベーターが開いた時、隣のエレベーターのドアが閉じた音がした。
また、渡辺女史のところに誰か来ていたんだ。用もないのに、皆居心地がよくて来るんだから。
でも、亜弥にはその気持ちも良くわかっていた。
渡辺女史は、長いストレートの髪を一本のポニーテールに結び、いつもジーパンにブラウスというラフスタイルを決めていた。
お化粧も薄く、女性という雰囲気を感じさせない。中間と言ったらいいのだろうか? だから男性と女性社員からも好かれていた。
あの日、高原が渡辺女史を“都”と呼んだ時、ドキッとしたが…それは彼に限らず、男性社員の殆どが“都”と呼んでいた。
それほど、好かれているという事だった。
「こんにちは」
と、挨拶しながらドアを開けると、渡辺女史が顔を強ばらせながらも、素早く振り返った。
「如月……です、けど」
「あっ、ごめん。ちょっと化粧室行ってくる」
渡辺女史は、慌てるように医務室を出て行った。
亜弥は、取り乱した渡辺女史を見て驚いた。
そんな女史を、一度も見た事がなかったのだ。
髪は少し乱れ、白衣の下にいつも着ているブラウスには皺が出来ていた。
どうしたんだろう? 女史……
亜弥は、不思議に思いながらも……カルテ整理を始めたのだった。
「うわぁ〜、プロポーズされたん?」
大学時代の友人・碧(みどり)に手を取られる。
「っで、亜弥を見事落とした男は誰?」
薄暗い洒落たレストランで、亜弥は顔を曇らせた。
「……落としたって……そんなんじゃないけど。不動産関連の営業マン」
「営業って、そんなにお金があるもん?」
碧が、指輪を指して問う。
「そんなの知らない」
「えっ?! 年収がいくらだ……とか知らないでプロポーズ受けたワケ? …亜弥、ダメやん! 相手がもし借金こさえてたらどうするん?」
心配そうに言う碧に、亜弥は苦笑いした。
そういう事は、全く気にしていなかったからだ。
これがもし……本当に好きな人なら、いろいろ気にしたり、将来に向けて希望を持ったりするんだろうけど……あたしには、そんな気すらおきない。
もちろん、そんな事を思うのは許されない事。だけど……この指輪が、あたしを縛りつけてるような気がして、何とも言えない複雑な気分がする。
「……亜弥。亜弥の気持ちわかるけどさ、妥協したらダメやで」
「碧は、幸せな結婚してるからそう言えるんよ」
おちゃらけて言うが、内心は複雑だった。
お願いだから……あたしを惑わすような事は言わないで!
「わかった。亜弥が決めた事に口は出さない。けど、相談ぐらいやったら聞いてあげられるんやから、相談してよね?」
「ありがと。ちょっと化粧室行ってくる」
亜弥は、この話題から逃げるように立ち上がると、化粧室へと向かった。
指輪を抜き取り、手を洗う。
この瞬間こそ、亜弥が一番安堵出来る時間だった。
そう、指輪を外した瞬間が……
鏡に映った自分を見ると、その表情は幸せ絶頂という感じではなかった。
空ろな目に、悲しそうに下がった唇。
活き活きとした表情は、そこにはなかった。
はぁ〜、 本当にこれでいいの?
瞼を閉じてため息を吐き出す。
考えても仕方ないのに……
亜弥は、指輪を手に取ると躰を強ばらせた。
碧と一緒にいる時は、楽しく過ごしたい。ごめん、高原さん!
亜弥はその指輪をハンカチに包むと、バックの中に入れた。
そうした事で、亜弥の顔に微笑みが浮かぶ。
重しが取れた事で、亜弥は少しばかり輝きを取り戻し始めたのだ。
「ひゃぁ!」
ドアを開けた瞬間、股間に何か触れた。
何て大胆な痴漢!
亜弥は睨み付けて怒鳴ろうとさえした。
しかし、振り向いても誰もいない。
「えっ?」
視線をゆっくり下げてみると、小さな男の子が足に腕を絡まりつけていたのだ。
ジーンズだから、ちょうどアノ場所に触れる。
「えっと〜、ボク?」
頬を染めながら優しく囁きかけると、その男の子はビクッとし、すぐに腕を離した。
その表情は不安に曇ってる。
そっか、お母さんと間違えたんだ。
亜弥は屈み込むと、その男の子と同じ目線になって見つめた。
「お母さんを探してるの?」
「……うん」
口の端がヘの字に曲がり、今にも泣きそうな気配だ。
「じゃぁ、お姉ちゃんも一緒に探してあげる」
「ほんと?」
「うん」
にっこり微笑むと、男の子が無造作に首に抱きついてきた。
きっと淋しかったのだろう。
亜弥はその背中をギュッと抱きしめる。
……子供って、何て可愛いんだろう。
あたしも子供が持てるのかな? ……高原さんとの子供。
そう考えただけで、塞ぎ込んでしまいそうになる。
「ボクのお名前は?」
男の子を離して、ゆっくり問いかけた。
「……こうた、みっつ」
「そう、こうたくんね。お姉ちゃんはね、」
と言いかけた時、何やら視線を感じて亜弥は視線を上げた。
思わず、驚きから口が微かに開く。
そこには、目の覚めるような威圧感のある……男性が立っていたのだ。
しかも、彼も驚いたように亜弥を見つめている。
……時が止まったような感じを受けた。
全ての感覚は、スローモーションのようにゆっくりと進む。
腕に触れてる男の子の存在さえ、頭になかった。
ぴったりとしたTシャツは胸板に張りつき、贅肉などついていない事がはっきりわかった。
髪型もすっきりとして、とても印象的な姿だった。
彼の視線が下に向けられると、微かに微笑んだ。
「康汰(こうた)、ここにいたのか?」
男の子が飛び跳ねるようにパッと振り向き、亜弥の腕から離れると……その男性の方へ駆けて行った。
「何してたんだ、ママが心配してるぞ?」
彼はそう言いながら、男の子を腕に抱き上げた。
「ママ、さがしてたも」
「そっか」
彼はそう言いながら、視線を亜弥に向けた。
亜弥は、まだ呆然と彼を見つめていた。
視線が再び重なった瞬間、心臓が飛び跳ねる程激しく動き、息が思うように出来ない。
彼が、ゆっくり近寄ってきた。
彼に見下ろされるだけで……何だか守ってもらってるような気さえする。
バカ、彼は父親なのよ。パートナーがいる男性にときめいてどうするの? それに、あたしだって高原さんという人がいるんだから。
「悪かったね。この子が君に迷惑をかけたのでなければいいんだが」
「いえっ、そんな迷惑だなんて」
と言いながら立ち上がるが、視線は何故か彼の左手の薬指を見ていた。
しかし、そこに愛の証はなかった。
視線を上げると、彼も同時に視線を上げて探るように亜弥を見つめる。
「君は……一人?」
「いえ」
どうしてそんな事を訊くのだろう?
それに、どうしてそんなにあたしを見つめるの?
「康貴? どうかしたの?」
軽やかな女性の声が響いてきた。
すると、彼が振り返る。
「朱音(あかね) ……」
亜弥は、ズキッと胸が痛くなった。
彼はあたしのモノでも何でもない。ただの通りすがりの人。
だけど、彼の字を息子に名付けて……美しい妻がいるこの幸せな光景を見たくはなかった。
あたしには、望めそうもない光景だから。
「康汰、見つかったのね。良かったわ」
逃げ出したい……。ここから逃げ出したい!
「それじゃ」
亜弥はか細い声で囁くと、康貴という彼の側を通りながら、逃げるように友人の元へ行こうとした。
「待って! 君、」
亜弥は、ビクッと立ち止まりゆっくり振り返った。
彼が何か言いたそうに、こちらを見る。
「康貴?」
朱音と呼ばれた綺麗な大人の女性が、彼の腕にそっと手を乗せた。
美男美女の夫婦に可愛い息子の絵図。
亜弥の中に、絶望感が生まれた。
「……さようなら」
亜弥は、その光景を振り切るように、碧の元へ向かった。
「亜弥? どうかした?」
今にも泣きそうな亜弥の表情に、碧が心配そうに問いかける。
「ううん……何でも、ない」
目の奥がチクチクしてくるのを感じると、亜弥は瞼を伏せて座った。
何で……あたしはこんなにも絶望感を感じてるの?
どうして、通りすがりと言ってもいい彼……康貴さんの事が何度も脳裏に過るの?
彼らの幸せな夫婦姿が、羨ましいから? それとも、その隣にいた女性に嫉妬を感じたから?
激しく心が揺さぶられるのを感じながら、何故か祈らずにはいられなかった。
お願い、もう二度と彼……康貴さんとは逢いませんように、と。