side:康貴
―― 2003年5月
「ねぇ、水嶋さん……この後どうする? わたし……いいよ」
軽く腕に触れてきたその感触が、躰の芯に火をつける。
だが……
康貴は、ホテルのバーで秘書の一人と飲んではいたが、そういう関係を求めていたわけではなかった。
急ぎの仕事が入り、それを遅くまで快くタイプしてくれた彼女に、お礼と称し食事を誘ったまでだ。
それを、こんな風に誤解されるとは。
「君を、送ろう」
素早く立ち上がると、彼女は驚いたように目を大きく開ける。
「でも!」
「君はどうか知らないが、俺にはまだ仕事が残ってるんだ」
きつい言い方かも知れないが、希望を持たせるような事はしたくない。
彼女を促し、エレベーターで降りると一台のタクシーに乗せた。
「彼女が言う住所まで行ってくれ」
タクシーの運転手にそう告げると、彼女の手にお金を握らせた。
「今日は土曜日だというのに、遅くまで仕事してくれてありがとう。タクシー代として使ってくれ」
何か言いたそうな彼女から、後ろに下がると、ドアがバタンと閉まった。
思わず肩の力を抜いた。
きっと運転手は、「何の仕事だったんだか……」と思ってるに違いない。
別に構わないさ、俺を知ってるわけじゃないんだしな。
「タクシーに乗られますか?」
ホテルの従業員が声をかけてくる。
「いや、いいよ」
片手を上げて拒絶すると、俺……水嶋康貴は何故かすぐ近くの駅に向かわず、たまに利用する駅へと向かった。
女が欲しければ、そういう女はいる。
だが、そういう躰だけの関係は、もううんざりしていた。俺は楽しく過ごせたらそれで良かった。付き合う事で縛られるようになるのは嫌だったのだ。
そう思ってはいたが、その考えは一瞬でヒビが入った。
つい先日、久しぶりに実家に戻った時の事だ。
あの時、仕事一筋の優貴が彼女を作ったという事実、そして……兄貴が俺たちの妹同然の莉世を恋人にしたという事実を知り、俺は一人取り残されたような気がしたのだ。
皆、真剣に考えて人生を歩んでいるというのに、俺はまだ学生気分が全く抜けきっていない愚か者。
だた仕事に打ち込むしかない、ちゃらんぽらんな男。欲望を解き放つには、特別な女はいらないと思っている男。
……有能な兄たちから逃げたいと思い、大阪出向への話に飛びついた弱虫な男。
康貴は、そんな自分を振り払うように頭を振った。
「いらっしゃいませ!」
康貴は駅付近にある、行きつけのカフェに立ち寄った。
「あっ、康貴さん! まいど!」
こよなく関西弁を話すこの青年に、康貴は笑いかけた。
「よぉ! 相変わらず働いてるんだな」
黒いエプロンをした長身の青年は、さばさばとして限りなく明るい。その明るさが、康貴をリラックスさせてくれる。
「何言うてんの。康貴さんの方が、働いてるやん。いつものでえぇ?」
「あぁ。それとホットサンドも」
青年の目が曇る。
「ちゃんとご飯食べてるん? 彼女に作ってもらわな」
その言葉に、俺はただ唇の端をあげて微笑んだ。
このお洒落なカフェをいい雰囲気にさせてるのは、彼だと言っていい。
もちろん、ここで煎るコーヒーは美味しいとわかってるが、彼がより一層雰囲気を盛りたて、居心地のいい空間を作り出している。
これが東京なら……こうはいかないだろう。
やはり、大阪という場所が成せる技かも知れない。
彼の名は、如月篤史(きさらぎ あつし)21歳の大学4年。
「お待たせしました〜」
篤史が持ってきた物は、2人分あった。
片眉を上げて、篤史に問いかける。
「いいでしょう? 俺が一緒させてもらっても」
俺は心から笑みを浮かべて、向かいの席を指した。
「どうぞ」
これは、もう二人の間だけの会話となっていた。
ここのオーナーは、康貴が安らぎを求めて常連となっているのを知っているようだった。
そして、篤史との会話を楽しんでいるという事も。
「康貴さんて、東京の人とは思われへんわ」
「何故?」
「う〜ん、近寄りがたくないから」
それは、お前がそういう雰囲気を持ってないからだよ。
「そういえば、今就活だな。頑張ってるのか?」
「無理無理。今不況やし、それに俺やりたい事ってないし。だけど、どこかには必ず就職したい。姉ちゃんの為にも」
姉の為に……か。 いいヤツだな、篤史は。
「駄目モトで構わないから、一度ウチを受けてみたらどうだ?」
驚愕したように、篤史は一歩後ろに身を退いた。
「無理やわ。だって、俺が行ってる大学一流ちゃうし、それに時期が遅い」
「関係ないよ。要はやる気だろ? それにお前は営業に向いてるような気がするな。相手をその気にさせるのが上手いから」
篤史は、ムッとしたように表情を変えた。
「それって、俺の口が上手いって事っすかぁ〜。いい方にとったらえぇのか、悪い方にとったらえぇのか、わからんわ」
「いい方だよ。確か7月からは二次がある思う。帰国子女向けにな。公には一般学生の募集は終わってるが、一般でも申し込んできたガッツのあるヤツは、人事課も考慮するだろう。言っておくが、俺はノータッチだから、自分を表に出して頑張るしかないぞ。まっ、HPでしっかり調べておくんだな」
康貴は和やかに受け答えて、ホットサンドを頬張った。
うん、美味しい。バーで飲んだ酒より、よっぽど美味い。
「……はぁ、こんなに親身になってくれる康貴さんが、姉ちゃんの彼氏やったらな。俺、喜んで義弟になるんやけど」
その言葉が、康貴の心を擽った。
だが、以前篤史から聞いた姉さん情報を思い出す。
「だがな、姉さんだって好きな男はいるさ。それに28歳だったよな? 俺より3つも上なんだぞ? 姉さんが嫌がるさ」
「姉ちゃん、つい最近29歳になったけど。ううん、そんな事より、それマジで言ってるわけ?」
鋭く睨み付ける篤史に、俺は首をかしげそうになった。
何をそんなに怒る事があるんだろう。
「言っとくけど、姉ちゃんって年齢のわりに若く見えるし、美人やで。胸だって大きいし。弟の俺から見ても、いい女だってわかる。そして、何より優しいねん。その姉ちゃんが、康貴さんを嫌がるなんて事は絶対ない! ……もちろん年齢は気にするかも知れんけど」
篤史は、姉さん思いだな。
「悪かった。でもな、付き合うとなるとお互いが決める事だから、な」
と、思わず逃げ道を作ってしまった。
未だ、特定の相手を作るという事が出来ないからだ。まして、年上の女となると……俺が躊躇してしまう。
だが、そんな事を篤史に言えるわけがない。
「そうやな。姉ちゃんも、結婚の約束した彼氏がおるみたいやし」
そうだろう、そうだろう!
俺は、思わず安堵した。
笑顔で別れながらカフェを出たが、心の奥底では未だ不安が渦巻いていた。
兄弟から取り残されていくという不安が。
どうして、兄貴は莉世を彼女にしたんだろう? 確かに以前会った時より、一層綺麗になっていた。もちろん俺が知ってる莉世は小学生だったから、その変貌ぶりには驚きもした。
それに……兄貴とのキスシーン。
あの莉世が、兄貴とあんな激しいキスをするとは……
胸が痛まなかったと言えば、嘘になる。莉世は俺のどの位置でも占めていたから。
でも、莉世はもう兄貴の女だ。俺の知らない間に、兄貴は莉世と付き合い始めたんだからな。
そして、優貴。双子の片割れとして、俺は優貴の事がわかってるつもりだった。だが、それは間違いだった。
あいつでも、人並みの欲望があるというのに気が付かなかった。俺は、兄貴の背を見て走る優貴しか知らなかったのだ。その優貴が、会社の子と付き合ってるとは!
どうして、皆俺を残して、さっさと人生を歩むんだろう?
俺の中の欠陥……それはいつ修復される?
本当に“水嶋の血”は、この俺に流れているのだろうか?
豪華ながらも一人住まいのマンションに向かって、康貴は電車に乗った。
光り輝くネオンを見つめるその瞳には、将来の希望・夢が一切映し出されていなかった……
この時、運命とも言えるような苦しい恋をしようとは、まだ知るよしもない。