小牧の凛とした立ち姿。こんな彼女はこれまで一度も見たことがないぐらい、背筋をぴんと伸ばして前だけを見ていた。
「おとどさま、いかがなされたのでしょうか? こちらは東の対宮、蔵人少将さまの宮ですのに」
「そう泰成……のだ。だから来たのだ。……その几帳の向こうにいるのだな? 泰成が西洞院へ通うよりも愛着を抱いている女人が!」
「千珠さまは、蔵人少将さまより3日夜の餅≠いただきました。それが、少将泰成さまの御心にございます。どうか、おとどさまも千珠さまをお認めくださいますよう……」
「そのような真似ができるものか! 聞けば、素性もわからぬ女人だそうではないか。泰成は、どこの街娘を拾ってきた?」
街娘、ね……
千珠は、几帳の裏で苦笑いを漏らす。
千珠の出自を見れば浮浪者だと思われても仕方ないのに、街娘だと格上げしてくれたのは、なんとなく泰成を思ってのことだと感じたからだ。
現代に戻れば、わたしはこれでも――そう思った瞬間。
「ええい、そなたでは埒があかぬ! そこをどけっ!」
「あっ、おとどさま!!」
小牧の悲鳴とともに、大きな音を立てて几帳が倒れた。
その音にびっくりして、ハッとする。
そんな千珠の前に現れたのは、肩で息をし、怒りの形相をしたひとりの中年男性だった。
この人が、泰成の実父……
千珠は泰成の父と視線を合わせた。
彼は千珠の目から見ても精悍で、泰成が年を重ねればこうなるだろうと予測ができるほどふたりは似ていた。
でも、明らかに違う点がある。
どんなことであっても広い知識を得ようとする泰成に対し、彼の父親は自分が信じたものしか受け入れない堅物のように見える。
優しげな双眸を持つ泰成とは違い、彼の父の目には冷酷な光が宿っているからかもしれない。
こういう男性に下手な態度を取れば、必ず怒りを買ってしまうだろう。
それがわかっても、千珠はこちらの世界の礼儀作法なんてさっぱりわからなかった。
つまり、いつもの自分で向き合うしかない。
千珠が生唾を呑んだその瞬間、泰成の父が手にした扇を突きつけた。
「この白桜邸に忍び込み、心優しい泰成をたぶらかせているらしいな。ここは私の寝殿、とっとと出ていくがよい!」
「おとどさま! 恐れながら、蔵人少将泰成さま付きの女房として申し上げさせていただきます。千珠さまは蔵人少将さまを欺いてはいらっしゃいませんわ!」
小牧の言葉に、泰成の父が彼女をキッと睨む。
「暁の上を大事にしていた泰成の性格を変えたのだぞ! この女人のどこがいいのかわからぬ。童女のように短い髪をしおって………」
小牧が言い返そうと口を開いたのを見て、千珠は立ち上がって彼女の袖を掴んだ。
その行動に小牧はびっくりしたみたいだが、千珠はただ泰成の父をまっすぐに見つめた。
「わたし、白桜邸でご厄介になっている千珠と言います」
千珠の言葉遣いに、中納言の表情が汚いものを見る目つきになる。
しまった! ――と思った時はもう遅かった。
「ふん! 義文から聞いていたとおり、がさつな女人だ。風情も趣も全くない!」
「義文さま? ……もしや少将さま付き従者の!?」
小牧が驚き、ハッと息を呑む。
その様子に、千住は小首を傾げた。
少将付き従者というのは、泰成付きという意味。どうしてその彼が千珠の噂話をしたのだろう。
今まで一度も会ったことも、話したこともないのに……
千珠は代わる代わるふたりを見ていたが、最終的に泰成の父、中納言で視線を止めた。
「どこの出自かわからなぬ女人と契るより、泰成には西洞院へ通ってほしく思っておる。そして由緒正しきやや子を授かってほしいとな。そうすれば西洞院に居を構えるだろう」
「おとどさまは、千珠さまの血が汚らわしいとでもおっしゃるのですか!」
泰成付きの女房であっても、白桜邸の主人に向かってこんな言い方をしていいはずがない。それをわかっていて、小牧は千珠を守ろうと声を張り上げているのだろう。
その気持ちは本当に嬉しい。
だが、小牧の血≠ニいう言葉を聞いたあたりから、千珠は眩暈を覚えていた。
しかも、あの鈴の音がどんどんこちらに近寄ってきている感じさえする。
そして、かすかに頭の中に響く女性の言葉。
初桜、燃ゆる思ひを今宿世の契りに――
まるで、何かを訴えてくるようなそんな感覚だった。それでいて、この身を乗っ取られるような勢いで、何かが肌を浸透していく。
それを意識すればするほど、鈴の音がどんどん大きくなっていった。
「……あっ!」
千珠は耳を押さえてその場にしゃがみ込み、思い切り頭を振った。
そうすれば、鈴の音が止むとでもいうように……
「せ、千珠さま? いかがされたのです? 千珠さま!」
小牧が千珠の傍らに跪き、躯を支えてくれる。
「大丈夫、大丈夫だから……」
心配させないために言ったのに、気分も悪くなってきて嘔気が漏れてしまう。
「も、もしや……また鈴の音ですか!?」
小牧の直感はさすがとしか言いようがない。
でも、千珠は素直に返事をできなかった。この世界に来た経緯を知る人だけなら本当のことを言えたが、ここには千珠を毛嫌いする人もいる。
下手な話をして、この世界で恐れられている怨霊だと騒がれでもしたら、泰成に迷惑をかけてしまう。
それだけは絶対にしてはならない!
「小牧。だい、……じょう……ううっ!」
千珠はたまらず口を手で覆った。胃の中にあるものが引っくり返って、逆流してきそうになる。
「ふん! このようにおかしな女人を囲うとは、我が子ながら泰成の気が知れん!」
中納言が千珠たちから離れようと一歩後方へ下がった時だった。
「千珠!!」
御簾を乱暴に上げて局に入ってきたのは、泰成だった。