『初桜に愛舞い降りて〜宿世の契り〜』【27】

 敦家にいったいなんの得があるのだろうか。

 その沈黙が暁の上を震え上がらせているとは気付かず、泰成は眉間に皺を寄せて唇を噛み締めた。
「あ、あの……近衛少将さまは恋文を送ってくだったのではなく、今宵泰成さまがわたくしのもとにお渡りになるというお話でした。そこに、泰成さまには意中の姫ができたので、必ずや今宵はお心を手中にするように……と」
「な、……に!?」
 泰成は呆然としながらも、暁の上の肩からゆっくり手を離した。
「敦家……が!?」
 そういうことだったのか!
 敦家が暁の上に知らせたかったのは、千珠のことなんかではない。
 それは、ただの手段だろう。
 彼が伝えたかったのは、暁の上に泰成の心をしっかり掴めということ。女人の話をすれば、暁の上が危機感を覚え、必死になって泰成との伽を持とうとする。
 そう踏んだに違いない。
 だが、どうしても解せないことがある。
 何故敦家は、このような真似をしたのだろうか。
 話の流れを整理すれば、泰成をこの西洞院に留め、白桜邸に戻らないようにする仕業なのがよくわかる。
 そうする理由はいったい? ……敦家は泰成を西洞院に留めて、いったい何をしようとしている?
 薄暗い白桜邸が頭をよぎった瞬間、泰成はハッとした。

 いや、違う! そうではない! そうでは……

 泰成は突然浮かんだ答えに、心の中で激しく頭を振る。
 だが、いくら考えても、行き着く答えはただひとつしかない。
 そもそも敦家は、泰成が西洞院へ行くことを確認してきた。直後、暁の上に御文を送りつけ、他の女人の話を持ち出すことで嫉妬心を煽り、泰成を引き止めておくように画策した。
 その間に敦家がしようとしているのは、主のいない白桜邸の東の対屋に、千珠の局に忍び込むこと。
 敦家は、本気で千珠を手にかけたいと望んでいるのだろうか。
 泰成の躯が恐怖でブルッと震えた。

 する、必ず千珠を我が物にしようとする!

 敦家は、千珠の顔だけでなく、立ち去るその凛とした後ろ姿にまで見惚れていた。
 あの時、彼の顔に浮かんでいたのは、甘い羨望、滾る情熱、そして我が物にしたいという欲の色。
 泰成の顔から、血の気がどんどん引いていく。
 わかっていたはずだった。敦家の興味が、千珠に向き始めたあの顔を見た瞬間から。
 敦家は確かに思っている。
 千珠に触れ、その反応を我が身で感じたいと。泰成が初めて千珠を腕に抱き上げた時に感じた思いと、全く同じ感情を。
 女人の扱いにたけた敦家は、この状況を上手く利用する。そして、今この瞬間にも実行に移っているのかもしれない。

 ひとり眠る千珠の御帳台に忍び込み、彼女の匂い立つ肌に唇を寄せ……

「だ、駄目だ。それは……許せない!」
 泰成は暁の上から退くなり、彼女の手で脱がされた衣装を手に取った。
「泰成さま、どうして衣装を手に……。もしや、お戻りになるのですか? 今宵はわたくしとともにしてくださらないのですか!?」
「白桜邸に戻る」
 優美な裸体を桂(うちぎ)で隠した暁の上にちらっと目を向けたが、すぐに指貫(さしぬき=袴の一種)と直衣を着る。
 泰成が本気で帰る用意をしていると、暁の上は小袖の袷を合わせるなり、すぐに起き上がって泰成の腕を掴んだ。
「泰成さま! このような真似はあんまりです。お願いですから、今宵はここでわたくしと一緒に……」
「すまない、暁の上」
 泰成はその手をそっと外そうとする。だが、彼女がしっかり握っているせいで、その手を退けられない。
 その思いを象徴するように、暁の上は泰成にすがりついてきた。
「このような仕打ちをされたら、わたくしが女房たちに笑われるというのをご承知なのですか? 正妻なのに、これではわたくしが……泰成さまの想いが他の姫に移ったと陰で言われて……しまいます!」
 いつも笑顔で泰成を迎え、優しく接してくれた暁の上が直衣に顔をうずめて涙を流した。
「暁の上……」
「失礼いたします!」
 その声に振り返ると、御簾を上げて女房が局に入ってきた。
 暁の上付きの女房、香苗だ。彼女は泰成と暁の上のいる御帳台の傍に来るなり、腰を落として手をついた。
「旦那さま、北の方さまの願いをどうかお聞き届けくださいませ。旦那さまが早々に西洞院を退出されたとなれば、すぐに他の女房の知るところとなります。それではあまりにも北の方さまのお立場が――」
「香苗、すぐに牛車を出すよう義文に伝えなさい」
 女房は絶句する。暁の上のためだといっても泰成が考えを曲げなかったからだろう。
 本当なら、もっと静かに話せる場所で告げるつもりだったが、暁の上は正妻。
 彼女は他の人の御文で知るのではなく、泰成の口からきちんと聞くべきだ。
「暁の上」
「……は、はい、泰成さま」
 暁の上は泰成の直衣から手を離し、従順ながらも涙を浮かべて面を上げた。
「私は、ひとりの女人を妻に迎えた」
「な、なんと!」
 香苗が悲鳴を上げ、暁の上が両手で顔を隠し、声を殺して泣き崩れる。
「ずっと、ずっと……私の妻は暁の上ひとりだと心に決めていた。その思いに偽りはなかった。だが、その女人と出会い……私の心は一瞬にして変わってしまった」
 泰成は跪き、崩れ落ちた暁の上の手を取る。彼女は涙で濡れた顔で泰成を見た。
 そこにあるのは静かな怒り、裏切り者と叫びたいが叫べない心の声が、瞳から読み取れる。
 申し訳ないという気持ちに苛まれるが、こうなるのはもうわかっていたこと。
 それを承知で、泰成は千珠に手を出したのだ。

 彼女が欲しくて、他のどの男にも渡したくなくて、ずっと泰成の傍にいてほしくて……

「私が他に妻を迎えても、正妻は暁の上、そなただけだ。その地位は揺らがない。それだけは心に留めておいてくれ」
 暁の上の欲しいのは、こんな言葉ではない。
 千珠への気持ちと彼女への気持ち、どちらに深くより傾いているのかということだろう。
 でもそれを口にはできない。言えば、もっと暁の上を苦しめてしまう。
「ひどいですわ。このような仕打ち、あまりにも北の方さまを侮辱しております! 何故、どこかの姫を妻に娶られる前に、一言暁の上さまにご相談されなかったのです? 旦那さまは名のあるお方。若い女人に目に留めてしまうこともあるでしょう。だからこそ北の方さまには事前にお話してほしかった。……泰成さま、もうひとりの妻はいったいどなたなのです? どこの姫君なのですか? 本当に暁の上さまの身分は保証されているのですか!」
 矢継ぎ早に話す女房に、泰成はため息をつき立ち上がった。
 置かれた灯台を手にし、ふたりに背を向けて歩き出す。
「もうよい。私が義文のもとへ行こう。香苗は、暁の上を頼む」
「旦那さま!」
 女房の叫び声に、ちらっと振り返る。暁の上を支える女房は泰成を睨んでいる。暁の上は、さきほどと同じ涙に濡れた瞳をこちらに向けていた。
 何か言葉をかけるべきかもしれないが、泰成は「失礼する」とだけ言い、御簾を上げて外に出た。
 来た時と同様、渡殿を通り過ぎ、中門廊のにある車寄(くるまよせ)へ向かう。
 暗闇に浮かびゆらゆらと揺れる灯台を見た雑色が慌てて進み出る。
「こ、これは蔵人少将泰成さま! い、いかがされたのでしょうか」
「私の従者に白桜邸へ戻ると伝えてほしい。すぐに牛車と牛飼童をここへ」
「ただいますぐに!」
 雑色はその言葉どおり車宿りへ向かい、乱れた衣服を整えながら藤原家の面々が飛び出してきた。
「若君! 何をされているのです!」
 車寄に立つ泰成を見た従者の義文が、慌てて飛び出してきた。
「いけません! すぐに北の方さまのもとへお戻りください。このような行動を西洞院さまに知られでもしたら――」
 義文は膝を折り、康成に頭を垂れる。
「お前は誰の従者だ? 私の……ではないのか?」
 泰成は腕を組み、義文を睨みつけた。
「……そ、そのとおりでございます。ですが!」
「もうよい。私は白桜邸に戻ると決めた。早く、早く戻らなければ……!」
 牛車が目の前に引っ張られる。雑色が足台を出すなり、泰成は誰の手も借りず足をかけた。
「泰成さま! 新しく迎えた奥方より、北の方さまの方を大事に考えてくださいませ! 北の方さまのご実家の権勢は、泰成さまにとっても――」
「権力など興味がないと、ずっと前から言っているだろう! これ以上は何も言うな義文。考えたくはないが、もし……もし千珠が敦家に手折られていたらと思うと、私はどうにかなりそうなんだ!」
 泰成は義文の目を避け、牛飼童に「急ぎ白桜邸へ。来た時よりもさらに速くだ」と話すと牛車に入った。
「……泰成、さま。それほどまでに、あの女人を――」
 絶望と、静かな怒りの入り混じった声音が響く。
 だが、義文のその言葉は泰成は無視をした。
 牛車が動き出すなり、気持ちは白桜邸へ、千珠のいる局へと飛んでいたからだ。

2015/09/05
  

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