夕餉(ゆうげ)をいただき、小牧と小菊とあれやこれやと話をしていると、泰成が千珠のところへ顔を出した。
ただ、2刻(30分〜)ほどたわいもない話をして、彼は局をあとにした。
素直に今夜は北の方のところへ行ってくる≠ニ言ってくれたらいいのに。
一言話してくれたら、千珠だってまだ気持ちの持ちようがある。
それなのに、どうして男はバレるとわかっていて誤魔化そうとするのだろう。
千珠は小さくため息をついた。
「わたしの付き合った彼氏が、そういう男だっただけか……」
「えっ? 何がです?」
傍にいた小牧に話しかけられて、初めて声に出していたと気付いた。
「ううん、なんでもない。今夜はもう寝ようかな」
夜も更けた今は、亥の刻(午後9時〜)ぐらいだろう。
このままボーッとしているだけなら、小牧を休ませてあげた方がいい。
「そうですね! もうお休みになった方がいいかと思います。千珠さま、明日はいろいろ動きましょう。香を焚いてもいいですし、御髪を洗ってもいいですし」
小牧がいつも以上に明るく振る舞う。それは、気を遣わせてしまっている証拠。
泰成のことで……
悪いなと思いながらも、千珠は彼の話をしようとはせずただ頷いた。
「うん、そうだね。明日の朝起きたら、どうするか決める」
小牧はそれに返事はせず、千珠の寝床を整えた。そして「おやすみなさいませ」と言って、局を出ていった。
千珠は灯台の火を吹き消し、整えられた寝床に横になる。
まだ眠たくない。こんなに早く横たわるなんて、きっと小学生以来だろう。
でも、この世界に来ていろいろなことがあったせいか、躯が悲鳴を上げているみたいだ。
暗闇の中で横になっただけで、張り詰めた神経がだらりと緩むのがわかる。
小牧の用意してくれた香枕の匂いも影響しているのか、次第に千珠の四肢の力を奪い、呼吸のリズムが浅くなり始めた。
時間は早いのに、千珠は眠りに誘われた。
――数時間後。
夜風を防ぐために3分の2は格子を下ろし、残りは御簾と壁代(かべしろ=御簾の手前に布製の帳)を下ろしている。
隙間から流れ込む心地いい春風を肌に感じながら眠りについたはずなのに、何かが千珠の気に障り、ハッと目が覚めた。
心臓がドキドキと早鐘を打ち、呼気が弾み出す。
どうしていきなり目が覚めたのだろう。
千珠はじっと暗闇に目を凝らし、耳をすませた。
これといった異変は感じられない。それでも緊張を解かず、横になったまま周囲を探る。
それが功を奏して、目が徐々に暗闇に慣れてきた。
ただ、寝床の天蓋から下がった帳(とばり)のせいで、その向こう側はよく見えない。一瞬恐怖に襲われたが、特に気になる足音などは聞こえてこなかった。
千珠は安堵から、ホッと息をついた。
いったい今何時だろう。
こんな風に目が覚めるというのは、丑の刻(午前1時〜)ぐらいだろうか。
枕元にある白湯を飲もうと、千珠がゆっくり上体を起こした時だった。
ミシッ、ミシッ……
変な音が聞こえて、千珠の動きがピタッと止まる。
今の音はいったい、何?
再び緊張に襲われ、千珠の心臓がどんどん速くなっていく。
「……っ!」
胸を打つ痛みで顔を歪めながらも、局に意識を傾けた。
やはり板を踏みしめる音が耳に入ってくる。
家鳴りではない。足音をなるべく立てないようにしている人が、この局にいる。
その人は迷いなく、千珠のいる寝床へ向かってきている。
目的は、奥に設えられた塗籠(ぬりごめ=現代のクローゼット)にある見事な表着だろうか。それとも、誘拐目的で千珠を連れ去ろうとしている?
徐々に大きくなった足音が、御帳台のすぐ傍でピタッと止まった。
千珠は震える手で小袖(こそで=下着)の胸元をギュッと強く握った。
「だ、誰? そこにいるのは……誰なの!?」
姿の見えない誰かと対峙するのは怖くもあったが、正体を見極めたいという気持ちも強かった。
千珠は唇を強く引き結び、帳の向こう側に意識を集中させる。
その時、帳の隙間からかすかな香の匂いが漂ってきた。
これって、沈の香り?
泰成の直衣に焚き染めている香と似た匂いが、千珠の鼻腔をくすぐる。
「泰成、さまなの?」
でも泰成は西洞院に、北の方のところへ行ってる。
それなのに、どうして彼の香りがするのだろう。
衣擦れの音がしたと同時に、御帳台の帳が開け放たれた。
格子や御簾から漏れる月明かりが、千珠の前に立つ人影を照らした。
烏帽子(えぼし)をかぶっているせいで、とても背が高く見える。その背格好も、泰成と似ていた。
でも、本当に彼なのだろうか。
泰成なら、いつものように千珠の名を呼び、あれやこれやと口にして傍へ近寄ってくる。
なのに、帳を開けてそこに立つ彼は、一言も話そうとしない。
いつもの泰成ではない。
だがそこでふと、今夜は泰成にとってもいつもと違うと気付かされた。
泰成は北の方に会いに、西洞院へ行った。こちらの慣例では、姫のところへ通った場合、明け方近くに帰るのがマナーだ。
でも、泰成はそれを守らずに戻り、千珠の前に立っている。
つまり、西洞院に長居せず、まっすぐ白桜邸へ戻ってきてくれたということだ。
ただ、千珠の局へ来たはいいが、北の方のところへ通ってきた帰りに寄ったと正直にいえないのだろう。それで一言も口を開けないに違いない。
それほど千珠を不快にさせたくないと思っているのだ。
そう思ったら、千珠の心が歓喜で打ち震えた。
ああ、やっぱり泰成が好きだ!
「きて……、わたしの傍に」
かすれ声で請うと、千珠は人影に向かって手を差し伸べていた。