千珠の心臓がドクドクと早鐘を打つ。
「あの、わたしは……どうしてここに?」
恐る恐る訊ねる千珠に、目を見開く若い女性。
「まあ! それはこちらが伺いたいですわ! 巫女さまは、いったいどのようにして――」
「み、巫女!?」
千珠の口からすっとんきょうな声が漏れる。
それも意に返さず、彼女は優雅な仕草であらぬ方向へ視線を向け、聞き耳を立てる。
「……まあ! 半刻(=約1時間)前に局(つぼね=部屋)を退出されたばかりなのに、またこちらへお渡りなのね。それほど気になっておられるということ」
彼女がボソッと呟いた時、やっと千珠の耳にもドスドスドスッと板を踏みしめる音が届いた。
それはだんだん大きくなり、こちらへ近づいてくる。
な、何? これからまたいったい何が起こるの!?
千珠は知らず知らず手に持った碗に力を入れ、躯を震わせながら女性に目を向ける。
「あれは、なんの音?」
「透渡殿(=橋廊下)を歩く音ですわ。こちらの局へ来られたようです」
「局?」
これから何が起こるのかさえ全く理解できないのに、局≠ニ言われて、何故か千珠の頭の中に春日局≠ニいう言葉が浮かんだ。
想像している時代からして全然違うのに……
この状況でそんなことを思い浮かべる自分に呆れ、思わず笑いが込み上げる。
でも女性が立ち上がったので、千珠はすぐに奥歯を噛んで唇を引き結び、目を上げた。
「……うん? どうしたの?」
囁いた時、何かの音が聞こえた。
千珠の場所は几帳(きちょう=間仕切りカーテン)が立てかけられているので、何が起きているかわからない。
だが、誰かがこの局に入ってきたのだけはわかった。
足音に続いて、几帳越しに人影が透けて見える。
いったい誰!?
新たな人物の登場に緊張で息を殺す千珠。
次に何が起こるかわからない状況に、心臓が痛いぐらいに鼓動を打つ。
早く説明してもらわないと、酸欠でぶっ倒れてしまいそうだ。
千珠は助けを求めるために女性に声をかけようとしたが、彼女が柔らかな笑みを零したので開いた口を閉じた。
嬉しそうな表情に驚くものの、誰を見てそんな顔をするのか気になる。
女性の視線の先を追うように、目をそちらへ向けた時だった。
「小牧(こまき)……、入るぞ」
「蔵人少将(くろうどのしょうしょう)さま」
几帳を回って顔を出したのは、千珠と同年代に見える男性だった。
しかも蔵人少将の呼ばれた彼は烏帽子(えぼし=日常のかぶり物)をかぶり、直衣(のうし=貴人の常用の略服)をまとっている。
う、嘘でしょう!
大声で叫びそうになるのを必死に堪えて、千珠は目の前の人物をまじまじと見つめた。
蔵人少将と呼ばれた彼は千珠と目が合うなり、躊躇いもなく寝床の傍へ近寄り、静かに腰を下ろした。
この局も調度品も、千珠の見慣れている部屋と違うのはよくわかっていた。
傍にいる小牧と呼ばれた女性の姿を見て、脳裏に平安時代≠ニいう言葉が浮かんだのも事実。でも、心のどこかで、これは夢に違いないとも思っていた。
今、目の前に座った男性をこの目で見るまでは。
そんなはずはない、こんなことってあり得ない!
千珠は信じられないとばかりに心の中で頭を振るが、目の前の事実から目を逸らせなかった。
まさか、百人一首に描かれている女性と男性が自分の前に現れるなんて……
正しい年代なんて、はっきりとはわからない。
でも、ふたりの着ている服を交互に見て、千珠が日本史で習った平安時代ごろだというのが自然と理解できた。
もちろん、千珠の頭の中では何故? どうして?≠ニいった疑問符がぐるぐると回る。
それをはっきりさせるためには、きちんと声に出して彼らに訊かなければならない。
千珠は男性の衣服を食い入るように眺めていたが、少しずつ目を上げて蔵人少将の顔へ視線を移した。
ふたりの視線が間近で絡まり合った瞬間、彼の目が興味深そうに光る。
「ようやく目を覚ましたか……。小牧、巫女どのは何かを話されたか?」
「いいえ。たった今、目をお覚ましになったところでございます」
女性が畳に手をつき深々と頭を下げる。
つまり、小牧より蔵人少将の方が身分が上ということだろう。
千珠は生唾をゴクリと飲み、蔵人少将の出方に備えて彼をじっと見つめた。
「そうか……。巫女どの、あなたにはいろいろとお訊きしたいことがある」
「み、巫女!? ちょっと待って、……っ!」
咄嗟に躯を動かしたせいで、筋肉が悲鳴を上げる。
目を覚ました時よりも楽になってはいたが、千珠はまだ残る筋肉痛に唇を噛み締めた。
「巫女さま!?」
小牧がすぐに傍へ寄り、千珠を支えてくれる。彼女だけではない。蔵人少将も手を伸ばしてくれた。
だが、躊躇ったのちそれを下ろす。
もしかして、助けようとしてくれた?
声に出せないまま、そっと蔵人少将を窺う。視線が合うと、彼は何故か苦笑を漏らした。
少し砕けた雰囲気にどぎまぎしてしまったが、千珠はすぐに口を開いた。
「あの……わたし、巫女なんかじゃないです。名前は千珠というの」
ふたりから巫女≠ニ呼ばれて居心地が悪かったせいもあるが、それよりもきちんと名で呼んでほしかった。
これが夢ではない、ふたりの前にいるのは自分自身だと知るためにも。
「私は中納言実成(さねなり)の嫡子、蔵人少将藤原泰成(ふじわらのやすなり)。彼女は東の対屋付き女房、小牧だ」
「泰成くん? あっ、いえ……泰成、さま?」
日本史には疎い千珠だったが、この時代については源氏物語からおおよその世界観は想像できる。だから、慌てて現代風ではなく古風に改めた。
「くん……とは、面白いことを言う」
朗らかに笑うその顔に、千珠の目が釘付けになる。
本来なら千珠の素性を訝しく思ってもいいはずなのに、ひとりの人間として接してくれるその優しさに引き寄せられていく。
「では、千珠。あなたのことを少し聞かせてほしい。どうやって寝殿(しんでん=主人の住む寝殿造の主殿)の奥深くまで入り込めたのか、を」
「えっ、入り込めた?」
泰成は手に持っている扇を閉じてパチンと音を立て、少しふくみを持たせるように間を置いて小さく頷く。
「ここは中御門大路三坊、白桜邸(なかみかどおおじさんぼう、はくおうてい=場所、邸宅の呼称)。我が父上、中納言実成の第宅(だいたく=邸宅)、そしてここは東の対宮にあたる。ここでも警備は万全で簡単に人は忍び込めない。にもかかわらず、千珠は番人のいる各門を通り抜け、主殿へ忍び込んだ。それも、白桜邸の奥深い……庭にまで入り込みそこで倒れていた。何故だ?」
何故と問われても、自分にもわからない。当然、千珠にはその問いに答えようがなかった。
だが、泰成はそんな言い訳を聞きたいとは思っていないに違いない。
彼の目が、真実だけを知りたいと告げていた。