突然の現象に悲鳴上げる。
他の人も千珠と同じ苦しみを味わっているのか、慌てて周囲を見回すが誰もいない。
嘘……、誰もいない!?
「だ、誰か!」
それでも声が誰かに届けばと声を張り上げるが、ただ千珠の声が虚しく社殿に反響するだけだった。
千珠を襲う不可解な音。金切り声に似たつんざく不快なそれに、たまらず目を瞑る。
収まれ、収まれ――と念じるが、そこに鈴の音までも混じる。
「い、イヤ!」
千珠に苦痛をもたらす音に頭を振るが、そうすればするほど逆にまとわりついてくる錯覚に襲われた。
もう一度助けを求めるため細く目を開け、周囲を見る。
でもどんどん社殿がぼやけ、渦を巻くようにして歪み始めていく。
目が回る。ぐるぐる、ぐるぐると……
三半規管がおかしくなったのか、込み上げる嘔気に立っていられない。
「うぐっ……っぷ……。だ、誰か……」
なんとかして姿勢を正そうと手を振り回すが、それはただ空を切るばかり。
ああ、もうダメ……!
抗うのを止めた途端、千珠の躯が前へと傾く。赤い柵が膝にあたって壊れるのを感じても自分ではどうにもできず、千珠はそのまま倒れ込んだ。
意識を失う寸前に、千珠が助けを求めて掴んだもの。
それは、樹幹に巻かれた白い紙垂(しで)だった。
***
躯のあちこちが痛い。
インフルエンザにかかって高熱が出た時みたいに、躯の節々が悲鳴を上げている。
動きたくない、このまま何もせずじっとしていたい。
そう思うのに、まるで千珠を起こそうとするように、お香の匂いが鼻につく。
千珠は思わず眉間に皺を刻ませた。
どうしてこんなに匂うのだろう。香りがきつすぎて胸が気持ち悪くなってきた。
「う、う〜ん……」
自分の口から漏れる呻き声で、千珠は徐々に意識がはっきりしてきた。
何かがおかしい……
香りもさることながら、いつも寝ているベッドの柔らかさを感じない。
起きなければ、目を覚まさなければと思って躯を動かそうとする。
なのに、手足には全く力が入らず、身動きが取れない。
風邪をひいた時でさえ、ここまで躯が動かないなんてことはなかった。
もしかして金縛り? ……まさか!
千珠は自分で作り出す恐怖から逃れたくて、瞼を開けようと必死に試みる。
だが、瞼がピクピク震えるだけで目は開かない。
何度もチャレンジするが、すればするほど疲れが増すだけで力が抜けていく。
それでも諦めず十数回試みたころ、徐々に瞼が上がった。
最初は焦点が定まらなかったが、ゆっくり瞬きを繰り返すうち、ぼやけていたものが鮮明になる。
「……?」
目に入ったのは、今まで目にしたことのない不思議な天井。屋根勾配のままの形で、各部材がむき出しになっている。
鼻につくお香に混じって匂う澄んだ空気、そして騒音が全く聞こえない静けさ。
この異質な雰囲気を、千珠は敏感に肌で感じ取っていた。
巫女のバイトをしているので、社殿や本殿の天井がどんなものかよく覚えている。格子状に組み、そこに板を張っているので、こんな風に各部材がむき出しになるはずはない。
動揺で千珠の目が揺れ動く。それでもほんの小さな気配を感じ取ろうと周囲に意識を向けた。
だが、音の反響さえ聞こえない。
つまり、とてつもなく広い部屋にいるということだろう。
自分の身に起きているこの状況を、早く見極めなければ!
起き上がろうとして力を入れた途端、千珠の躯に激痛が走った。
「うっ!」
想像を絶する痛みに身をよじった時、すぐ傍で人の吐息が聞こえた。
「ああ、このままずっと……目を覚まされないかと思っていましたわ!」
カサカサと衣擦れの音がしたと思ったら、見知らぬ女性が千珠の顔を覗き込んできた。
人がいた――とホッとしたのも束の間、すぐに表情が消える。
そこにいたのは、千珠の見慣れた普通の女性ではなかったからだ。
その女性は千珠にニコッと微笑むなり顔を背け、誰かに向かって軽く頷く。続いて、衣擦れの音が耳に届くが、千珠は彼女から目が離せなかった。
絵本で見るかぐや姫のようなとても長い髪、十二単みたいに何枚も袿(うちき)を重ねた女性が、心配そうな色を顔に浮かべて千珠に目を向ける。
待って……、こんなのって信じられない!
千珠はパニックに陥りそうになり、何度も瞼を閉じてはその女性を消そうと試みた。
にもかかわらず、瞼を開ければ、泣きボクロの印象的な女性と目が合う。
そんな千珠の態度に不審を覚えたのか、今では彼女の顔は怪訝な表情へと変わっていた。
構わず、千珠は目の前にいる雛人形のような女性を消そうとする。
でも、いくら消そうとしても消えない。
つまり、これは夢ではない。目の前にいる人物は実在している。
もしかして……タイムスリップ? まさか、そんな!
どんどん血の気が引き、顔が青くなっていく。
「あの、わたし……」
千珠は唇を舐めて唾を飲み込み、落ち着こうとする。それでも上手くいかない。
「白湯をお飲みになります?」
千珠の気持ちを落ち着かせようとしてくれたのか、女性が口を開いた。
喉を潤せるのなら、なんでもいい。
女性に謝意を込めて頷き、千珠は躯に鞭を打ってゆっくりと上体を起こす。
鈍痛が躯に走るたびに呻き声が漏れ、千珠は顔をしかめた。
そんな千珠に女性がそっと手を貸してくれ、ようやく躯を起こせた。
「さあ、どうぞ」
「あ、ありがとう……」
白い碗を受け取り、それを飲んで喉を潤した。
味も何もない、ただの白湯。正直、美味しいとは言えない。
ただ、自分では気付いていなかったが、躯が冷え切っていたのだろう。温かいものが食道を伝い落ちると、躯の芯がほこほこしてきた。
躯の筋肉が弛緩するのが心地良く、ホッと息をつく。
もう一度碗を口に運んで白湯を飲んでから、周囲を見回した。
寝床を囲うように綺麗な布で立てかけられたそれを、千珠はテレビや日本史の資料集で見たことがあった。
それは、百人一首の絵札にも描かれている几帳(きちょう)だ。
百人一首と思って脳裏に浮かぶのは、平安時代。
そんな出来事が起きるはずがない。起きるはずが……