夏海が、乃愛の手をポンポンッと安心させるように軽く叩く。
「何かあったら相談に乗るから、頑張っておいて。わたしも、お母さんのお店でバイト頑張るからさ。但し、その子供には注意した方がいいよ。かなりマセてるみたいだから」
「だ〜か〜ら〜、子供じゃないんだって……」
「わかった、わかった。じゃ、頑張るんだよ! また明日ね〜」
立ち上がりながらバッグを肩に引っかけると、乃愛に手を振りながら疾風の如く教室から出て行った。
「……あれは、絶対好きな男ができたね。カフェに通ってくるイケメン? それとも、夏海の口からよく出てくる営業の人?」
夏海がよくその人の名前を口にしていたけど、特に乃愛の記憶には残っていない。
(ごめん、夏海……)
心の中で両手を合わせて謝ると、乃愛はしんどそうに立ち上がった。
「ずっとここにいるわけにもいかないもんね。行こうっかな……お金のために。うん!」
コートを羽織り、ボタンを留める。長い髪を外に出して軽く手で梳くと、バッグを肩にかけた。
「準備オッケー!」
しっかり頷くと、乃愛は机の間を縫って教室のドアに向かって歩き出した。あと一歩で廊下に出られるという時、ドアを塞ぐように男子が顔を出す。
「佳代? ……あっ、乃愛!!」
数週間前まで乃愛の恋人だった冨永哲誠。乃愛が元カレと顔を合わせるのは、別れを告げられた日以来だった。
居心地が悪そうに、哲誠は軽く俯く。
(そんな風に感じるっていうのは、哲誠なりに……わたしに投げつけた言葉に罪悪感を持ったっていうこと? それとも、すぐに彼女を作ったから?)
「まっ、どっちでもいいけど……」
「えっ?」
知らず知らず思ったことが口から出たようで、哲誠がびっくりしたように乃愛を見つめる。
捨て台詞のように「まっ、頑張って」とだけ告げると、乃愛は哲誠が呼び止めるように名前を叫んでも、立ち止まることなく廊下を歩き続けた。
「ああ……、叶都と何を話したらいいんだろう?」
既に哲誠のことはどこかに消え、乃愛の頭の中は叶都一色に染められていた。
先週一度叶都の家に行ったので、電車の乗り換えもスムーズに行き、バスも間違えることなく乗れた。叶都の家にも迷うことなく行けたけど、やっぱり長く続く塀や視界に入ってくる豪邸に目を奪われてしまう。
「慣れた頃に、家庭教師の期間が終わってそう」
意外とそのとおりかも知れない――と思った途端、乃愛はプッと噴き出した。
「何笑ってるんだ?」
その声に、乃愛の躯がカチンコチンに固まる。
(今の声って、もしかして叶都?)
恐る恐る振り返ると、初めて会った時のようにブレザーの制服を着崩した叶都が、訝しそうに乃愛を見ている。その上に、防寒具のダウンジャケットを羽織っているけど、乃愛のように、特に寒がってはいないようだった。
「……べ、別に」
「ふ〜ん。まっ、いいけど。どうせ、カテキョ期間が終わったあとのことでも考えてるじゃね?」
乃愛の心臓がドキッと高鳴る。
人の考えを勝手に読む叶都に、負けてばっかりはいられない。
自分が声を出していたことにも気付かないまま、門を開ける叶都のあとに続く。前回のように、見事な庭に目を向けることもせず、家の中に入った。
「もう客じゃないんだから、好き勝ってやって」
スリッパを指す叶都に、乃愛は軽く頷いてみせた。二階に上がり、彼に続いて部屋に入るとコートとバックをソファに置く。
叶都は、中学校指定の鞄を放り投げ、ダウンジャケットもその場に脱ぎ捨てると、真っ直ぐ勉強机に向かった。
(おお! やっぱり受験生なんだね。うん、やっぱり勉強しなきゃダメだよ)
お姉さんらしく、叶都が放り投げた鞄を手に持ち、ダウンジャケットを拾い上げて腕にかける。彼の洋服ダンスの前に空いたハンガーがあるので、それに掛けようとした。
チラッと勉強机に視線を向けると、叶都がパソコンの電源を入れ、3台の液晶の電源を入れていくのが乃愛の目に入る。
(帰って早々、パソコン!? しかも3台も電源入れる必要あるの?)
叶都の理解できない態度に、乃愛は肩を落としながら嘆息を漏らした。ジャケットを掛け終え、これからどうしようと振り返った時だった。
―――コンコンッ
いきなりドアをノックする音が響き、乃愛は飛び上がるほど驚いた。
「はい!」
『開けますよ』
ドアが開き、60代ぐらいの女性がトレーにポットとカップ&ソーサーを乗せて入ってきた。しかも、美味しそうなフルーツタルトケーキが乗ってる。
「うわぁ〜、美味しそう」
思わず呟いてしまった。その女性が朗らかに微笑むのを見て、乃愛は照れたように口元を綻ばせた。
「すみません……」
「いいえ、とっても嬉しいです! 今までに来て下さった家庭教師の先生たちは、気にもしてくれませんでしたからね。わたしが作ったものですから、お口に合うかわかりませんが……」
ソファの前に置いてあるテーブルの上に、トレーを置く。
「乃愛!」
座り心地の好さそうなオフィスチェアーを回し、叶都が声をかける。
「彼女は、火曜から木曜の3日間だけ家に来てくれる家政婦の吉川さん。吉川さん、俺のカテキョの乃愛」
これで紹介は済んだと言わんばかりに、すぐにチェアーを回してパソコン画面に釘付けになる。
そんな叶都を見てから、乃愛は吉川と苦笑いを交わした。
「あとはよろしくお願いしますね」
「はい。ありがとうございます!」
吉川が出て行くと、乃愛は砂時計が全部落ちるのを確認し、ポットからカップに注ぐ。
「叶都! 紅茶入ったよ」
「砂糖なし、レモン一切れ入れて、こっちに持ってきてくれ」
「ケーキは?」
「いらない」
(こんな美味しそうなケーキなのに、いらないの!?)
カットされたメロン、いちご、桜桃、ブルーベリー、ラズベリー、キウイが盛られ、その上にナパージュが塗られていた。フルーツが艶々に光ってとても美味しそうだというのに……
叶都が食べないのであれば、自分だけ美味しくいただこう。
(この時間帯って、すっごいお腹が空くんだよね)
早く食べたいのを堪えながら、叶都の紅茶を持つと、彼の方へ向かった。叶都は、画面を見ながら凄いスピードでキーボードを打っている。液晶画面に近づけば近づくほど、アルファベットと特殊な記号の羅列が並んでいるということがわかった。
叶都の邪魔にならない場所に、紅茶をそっと置く。
「……何それ?」
「うん? ……こづかい稼ぎ」
無意味な羅列を打ち続けるだけで、お金を稼ぐことができるのだろうか? それよりも、他にすべきことがあるのでは?
「ねえ、受験勉強はいいの?」
叶都の手が、キーボードの上でピタッと止まる。首を動かして、横で立つ乃愛を見上げてキッと睨みつけた。
その目つきにたじろぎ、乃愛は一歩足を後ろに退く。
「乃愛はさ、俺の勉強とを心配するために雇われてるのか? 違うだろう? ……それとも、前みたいに俺に構って欲しくてそんなことを言うわけ? 乃愛がその気なら、俺は別にそっちでもいいんだけど?」
思わせぶりに、叶都が腰を上げようとする。
「いいですっ!」
両手を前に出して、激しく頭を振る。
「俺の躯が必要じゃないんならさ、向こうで大人しく座って、ケーキでも食べてたら?」
「そうします!」
叶都の側からそそくさ逃げるように、乃愛はソファに走り寄るとすぐに腰を下ろした。両手を両ひざに置いて、しばらく大人しくジッとする。
「……やっぱり可愛いな、乃愛は」
ついさっきとは打って変わり、軽い笑みを浮かべながら叶都がそっと呟く。でも、叶都の机とソファは離れているので、乃愛にはその呟きは全く聞こえなかった。
(ダメよ、叶都に翻弄されちゃ! わたしが叶都の躯を必要としているだなんて、そんな風に思われたら、わたしの貞操が危なくなっちゃう!)
既に翻弄されてるとは気付かず、乃愛の頬はほんのり桜色に染まっていた。ドキドキする心臓の鼓動を無視するように小さく頭を振る。
「食べよ! 吉川さんの手作りケーキ、すっごい美味しそうだもん」
意識を食べ物に向けて逃げるように、乃愛はケーキのお皿に手を伸ばした。