既に春は目の前という事で、日照時間も長くなってきた。
とは言っても、日中とは違い夕方ともなればまだまだ寒い。
あの甘美な一時から無事に身仕度を整え、一貴が用意してくれたコーヒーを一杯飲むと、二人はホテルを出た。
総支配人が言っていた “18:30” という時間まで、あと少し。
でも、ホテルからどんどん遠ざかって行く。
莉世は、とうとう我慢出来ず、口を開いた。
「どこ行くの?」
一貴と手を繋ぎたい……という気持ちを我慢し、右手に見える海を眺めながらも周囲のカップルたちを目の端で捉えた。
舗装されたこの遊歩道では、カップルたちが海を眺めている。
あと1年経てばわたしも堂々と! もちろん、それは表向きなんだけどね。だって、手を繋いではいないけど、こうしてデートっぽく歩いてるもの。
莉世は、一人クスッと忍び笑いをした。
「ディナーさ」
莉世は我に返ると、右隣を歩く一貴を見上げた。
「ディナー?」
「そうだ」
じゃ、あの時間はディナーの予約だったんだ。
納得がいくと、莉世は冷たい空気を肺いっぱい吸い込んだ。
一貴が、今日という日をすごく大切な日にしてくれてる!
……わたしも、二人にとって思い出に残る日にしたい。
一貴は、桟橋に停泊している一台のクルーザーを指した。
「クルーズしながらのディナーだ」
「えっ?」
クルーズって……あのクルーズだよね? 海の上から夜景を楽しむ、アレ。
留学中にも一度経験があるけれど、あの時は昼間だったし、デートとかそういうものではなかった。
莉世は何と言っていいかわからず、一貴の袖を掴んだ。
「どうした? 嬉しくないのか?」
「嬉しいに決まってる!」
嬉しすぎて、嬉しすぎて……言葉では言い表せないほどだ。
莉世の気持ちが伝わったのか、一貴は莉世の耳元に頭を下げて言った。
「お礼は、今夜……な」
今夜……
莉世は、先程の甘い一時を思い出して頬を染めたが、しっかり一貴と視線を合わせた。
「……今夜、ね」
莉世の一言で、一貴の瞳に情熱の光が宿った。
それがまた嬉しくて、莉世は今までにない幸せを感じた。
一貴と再会して "彼女" にしてもらえた時、これ以上の幸せはないと思っていた。
でも、それは違う。
一貴と同じ時間を過ごせば過ごすほど、幸せが増すのだ。
時間を重ねれば重ねるほど、二人の気持ちが近づけば近づくほど……。
「さっ、出港時間が迫ってる。船内へ入ろう」
既にスタッフが出迎えに出ている姿を見ると、莉世は緊張から背筋をピシッと伸ばした。
そんな莉世を見て、一貴はしっかり肩を抱きしめながら歩いた。
「今日は、宜しく頼む」
茶系のダークスーツに身を包んで出迎えてくれた30代後半の男性が、頭を下げた。
「私は本日の総責任者・七尾(ななお)と申します。素敵な時間をお過ごしになられますよう、スタッフ一同 ――― 」
挨拶が終わると、一貴は莉世をエスコートし船内へ入った。
だが、船内には客が一人もいない。
一貴は莉世のコートを脱がし、それをスタッフに手渡した。
莉世は、ゆっくり船内を見回した。
ガラス張りの為、室内は暖かく……それでいて海の眺めが見渡せる、素敵な設計になっている。
一貴が椅子を引いたので、莉世はそこに座った。
スタッフがいなくなったのを確認してから、テーブルを挟んで真向かいに座る一貴の方へ身を屈めた。
「ねっ、どうしてわたしたちだけなの? 他のお客さんは?」
「あぁ、その事か。二人だけでクルーズが楽しめるようにしたんだ」
「ふ、二人だけ?!」
「そうだ」
ちょ、ちょっと……それはすごいお金がかかってるんじゃ?
その時、船が動き出すのがわかった。
視線を一貴に戻すと、彼は物思いに耽った表情で莉世の目をジッと見ていた。
「な、何?」
「うん? ……大人になったなと思ってな」
よくその言葉を口にするけど、いったいどうしたの?
莉世は不思議に思いながらも、照れたように頬が緩まるのがわかった。
「もちろん! いつまでも子供じゃないんだからね」
一貴は、莉世のその答えに長いため息を一つついた。
「何でため息なの?」
莉世は唇を尖らせて、一貴を鋭く見つめ返した。
「……これからが大変だなって事だよ」
大変? 何が大変だっていうのよ。
その時、突然天井の光が絞られて、薄暗くなった。
「な、何が始まるの?!」
莉世はビクッとして、周囲に視線を向けた。
バックミュージックとして曲が流れ出す。あの聴き慣れた “誕生日の歌” だ。
同時に、暗闇の中から突如ゆらゆらと揺れる炎が現れた。
バースデーケーキだ。
その素晴らしい光景に、莉世は魅せられた。
テーブルの中央に、生クリームたっぷりの大きなデコレーションケーキが置かれた。
蝋燭の炎は静かに揺らめいている。
まるで、二人の想いが燃え上がる前のように。
あぁぁ、どうして一貴は知ってるの? わたしがロマンティックなものが好きだって事を。
いきなりポンッという音が響き、莉世は小さな叫び声を漏らした。
「シャンパンだ。……未成年という事はわかっているが、お祝いの日は特別だ」
スッタフが、細長いグラスにシャンパンを注いだ。
「グラスを持って」
言われるがまま、莉世はグラスを持つ。
炎に照らされ、気泡が踊るように動く様が見て取れた。
まるでわたしの気持ちみたい。ぱぁ〜と弾けたいぐらいだもの。
「17歳の誕生日おめでとう」
「ありがとう」
一貴がグラスを少し上げただけだったので、莉世もそれを真似てからシャンパンを口に含んだ。
もっと苦いものだと思ったが、意外にも想像していた味より甘かった。喉の奥で弾ける気泡を楽しみながら呑み干すと、甘さは一転しさっぱりとした後味になった。
「美味しい……」
わたし、クセになるかも。
「特別な日に呑むから、美味しいんだ。だが、あと3年は我慢しろよ。味を楽しむには、それからでも遅くはないんだからな」
莉世は、クスクス笑った。
「一貴……学校の先生みたい」
「先生だ」
「そうだけど……」
根本的に一貴って真面目なのかも。先生なんてやってられるか……って言ってたのに、無関心な態度でいながら学校ではちゃんと先生してるもんね。
莉世は、緩む口元を隠せないまま一貴に微笑んだ。
「火を消すか」
「うん!」
莉世は、目を瞑った。
家族がいつまでも健康で、楽しく幸せに暮らしていけますように。
第一次推薦で、大学進学が決まりますように。
そして、一貴からずっと……ずっと愛してもらえますように。
何故か、その最後の願いで涙腺が緩んだ。
泣く必要なんてないのに、なんで目頭が熱くなるの? 幸せなんだから、何も心配する必要なんてないのに。
「莉世?」
莉世はハッと我に返ると、涙を振り払い、蝋燭の火をフゥ〜と一息で消した。
すると、絞っていた灯りが徐々に明るくなり部屋を照らした。
「たくさん願いごとをすると、神様は迷って一つしか叶えてくれないぞ? ……うん? どうした? 泣いてるのか?」
表情を曇らせた一貴に、莉世は無理やり笑みを作った。
「泣きたくもなるよ! こんな、こんな素敵なバースデー初めてなんだから」
「そうか」
その言葉に、一貴は嬉しそうに口元を綻ばせた。
莉世は一貴の表情に励まされ、知らぬ間に強ばっていた肩の力をゆっくり抜いた。
コース料理が始まる頃、莉世は先程の不安な思いなど忘れて、目の前に座る一貴を見て幸せを噛み締めていた。