莉世は口紅を塗り終えても、ソファに座り込んでいた。
いつの間にか流していた涙のせいで、目が赤くなってしまったのだ。
本当にバカだよ、わたし。何をくよくよ悩むの? わたしが、一貴を愛している……それだけで十分じゃないの?
莉世は、はぁ〜とため息をついた。
自分に問いかけた事が……嘘だとわかっていたからだ。
愛するだけではなく、やっぱり愛されたいって思うもの。もちろん、今一貴に愛されてるって事はわかってる。
わかってるけど……昔の恋人が一貴に近づくと、胸が張り裂けそうになる。
わたしが響子さんに固執するのは、二人のベッドシーンを見たから。
あの時、二人だけの秘密の世界を、わたしが垣間見てしまったから……だからこんなに、一貴と響子さんが寄り添った姿を見たくないって思ってしまう。
どうしても、あの光景が蘇って……わたしを貶めようとするから。
「っもう。昔の記憶に捕われてしまって、どうするの?」
瞼の裏が、再びチクチクしてくる。
莉世は、天上を見て涙を振り払おうとした。
――― コンコンッ。
突然の音に、莉世はビックリした。
「はい?」
小さく音をたてて、扉が開いた。
戸口に現れたのは、康貴だった。
「大丈夫か?」
莉世は唇を尖らせながらも、潤んだ瞳で康貴を見つめた。
「優しい言葉をかけないで。……また泣いちゃうよ」
康貴は軽く下を向いてため息を出すと、ドアをきっちり閉めた。
そして、莉世の側に近寄り、その隣に座った。
「俺の電話に出れないほど、何をしてたのかな?」
眉をあげて、笑いを誘うように康貴が言う。
「何もしてない」
そう、あの時は……まだ何もしてなかった。
莉世は、頬を軽く染めて康貴を見つめ返した。
「一貴が、家にいるのにわざわざ携帯に電話する必要はないって」
康貴の目が急に、鋭く光った。
「ふん! 俺の電話を取らないからこういうハメになるんだ」
と、いう事は……あの時の電話は、響子さんが来た事を教えてくれる為に?
「莉世、お前が兄貴と危うい関係になって……俺のところに来た時の事を覚えてるか?」
「うん、覚えてるよ」
そう、あれは去年の夏。
一貴がお見合いの事を隠していた事から、二人の関係が噛み合わなくなって……。でも、どうしても一貴との関係を修復したいから、康くんの元へ助言を求めに行った時の事。
「兄貴の気持ちは、今でも変わってないよ。今でも莉世だけを大切にしている」
「うん、わかってる。それはわかってるよ」
莉世は笑おうとしたが、表情が強ばって苦笑いにしかならなかった。
「本当に?」
真剣に見つめる康貴に、莉世は本当だと信用してもらう為に、康貴の目を見て頷いた。
「莉世は、兄貴と響子さんの関係を、どこまで知ってる?」
「だいたいかな。もちろん、恋人同士だったっていう関係の事だけどね」
そう、恋人同士で……二人が愛し合っていたという事を。
莉世は、どうしても行き着く先の光景に瞼をギュッと閉じた。
そんな辛そうな表情をする莉世を見て、康貴も辛そうに顔を歪めた。
「昔なんて関係ない。今、……今が大事なんだ。誰にだって過去がある。そうだろう?」
一瞬、莉世は康貴の言葉にドキッとした。
まるで、「お前にだって過去があるだろう?」と言われたような気がしたからだ。
確かに、わたしだって過去はある。
楽しかったけど……辛くて、苦しい過去が。
莉世は、その過去を振り切るように唇を噛み締めた。
「兄貴も同じだ。だが、今兄貴が大切にしているのは莉世だけだ」
「今は、ね」
「莉世……」
思わず本音が出た莉世の言葉に、康貴は脱力したように莉世を見つめた。
「頼むから、そんな事は言わないでくれ。誰だって、未来なんかわかりはしないんだ」
「わかってる、わかってるよ。でも、不安なの。考えてもみて? 響子さんって、同性の目から見てもとても綺麗だし、優しいと思う。大人の魅力いっぱいで……わたしが今手に入れられないモノを持ってるんだよ? そんな素敵な女性がいたら……一貴は、響子さんの元へ戻ってしまうかも知れない」
ココロの奥で思っていた事が、ペンキが剥げ落ちるように、口から飛び出した。
唇を戦慄かせながら、潤んだ瞳を隠そうともせず、康貴に詰め寄る。
莉世は、感情を吐露した事によって気持ちが昂ぶったのだ。
「莉世、考えるんだ。お前が帰国して、二人が恋人同士になったのは、響子さんにないモノをお前が持っていたからだとは思わないか? もし、莉世を“妹”のままにしておきたかったのなら、兄貴はそうして響子さんと付き合っていた筈だ。だが、そうしなかったのは、兄貴が莉世を求めていたからだろ?」
今の言葉で、莉世は聞かずにはいられなくなってしまった。
「……康くん。一貴は……わたしが帰国する直前まで、響子さんと付き合っていたの?」
あぁ、お願い違うと言って! 一貴が誰と付き合っていたとしてもいい。だけど、響子さんだけは違うと……お願い。
「莉世、正直に言う。兄貴と響子さんが、いつ別れたのかなんて、俺にはわからない。確かに不機嫌になった時期と、響子さんが家に来なくなった時期とが符合した事があった。その時優貴と、別れたのかも知れない…と話した事はあったが、それは当人にしかわからない事だ」
莉世は、康貴の言う事も尤もだと思った。
本当、康くんに詰め寄る事じゃないのに。わたしって、いつも間違った事ばかりしてる。
「ごめんなさい」
二人は、そのまましばらくソファに座り込んでいた。
「……っで、今のお前の気持ちは?」
「一貴が好き」
そう、一貴が好き。響子さんに奪われたくないほど、一貴だけを愛してる。
「なら、その想いだけを抱いてればいい。何かに躓いたりした時は、素直に兄貴に聞けばいい。間違っても、去年みたいに自分の殻の中で閉じ籠って、問題を解決しようとは思うなよ。莉世もわかってると思うが、擦れ違いは命取りになる事だってあるんだからな」
妙に説得力のある康貴の言葉に、莉世は素直に頷いた。
「なら、下へ行こうか。お前はお前らしくあればいい……という事に気付いたんだからな」
康貴が立ち上がると、莉世も立ち上がった。
エスコートするように、康貴がドアを開ける。
「そうだ……下にいる皆は、お前の味方だからな」
励ますように、康貴が肩を叩く。
その励ましが嬉しく、莉世はやっと微笑んだ。
「そうだね。わたしには、強い味方がいるものね」
康貴も、莉世に優しく微笑み返した。
長い廊下を歩き、大きな階段を下りながら莉世は祈った。
お願いだから、一貴がわたしから離れて行きませんように。
響子さんと付き合ったりしませんように。
……わたしだけを求めてくれますように。
莉世は大きく息を吸い込むと、昨日初詣で祈った事をもう一度祈った。
『今年は、一貴を信じるようにします。ちょっとした事で疑う事がないよう努力します。どうか、今年もらぶらぶで幸せな日々を過ごせますように』
しかし、一貴の事は信じるけれど、響子の出現で今年1年波乱に満ちるだろうという事を、莉世は既にわかっていた。
そして、今回の再会が……序章になるいう事も。
莉世は、不安をココロの奥底に押し込むと、康貴に促された部屋の前で立ち止まった。
このドアを開けた瞬間から……始まる。
康貴がノックをし、ドアを開けた瞬間……まさしく莉世のココロの戦いが始まったのだった。