ココロの奥で落ち着いていた破片が……急に血管を通り、ズキズキと躰中を痛めつけるような、そんな感覚に陥った。
あの光景が蘇ってくる……忘れたくても忘れられない光景が。
莉世は、思わず瞼をギュッと閉じた。
「ここで何してるんだ、響子」
響子!
莉世は、瞼をパッと開けた。
一貴の口からその名が飛び出すと、あのシーンの一言一句が耳元で囁きかけてくるような錯覚に陥る。
不整脈を起こしたように、心臓がおかしい。
莉世は、胸元に手をあてて息を整えようと努力した。
「何って……新年のご挨拶よ」
「どうだか」
一貴は、冷たく吐き捨てるように言う。
「……いつからそこにいる?」
「いつって、ついさっきだけど?」
はっきり言って、莉世は二人の会話から締め出されていた。
胸が痛い、苦しい……。
だからこそ莉世は、一貴の元・恋人の響子を観察するように、ジィーと見つめた。
整った綺麗な顔立ちは、子供の時に覚えていた容貌とは全く異なっていた。覚えているよりも、一層大人の女性として魅力溢れている。
大きな瞳に、白いきめ細やかな肌、愛らしい唇に……豊満な躰。
ブランド物らしいスーツが、一層響子を大人の女性として際だたせている。
途端、一貴の背にしがみついていた、赤いマニキュアをした指が脳裏に浮かぶ。細くて長い足を抱えあげて、一貴が身を倒し……。
「っぁ…」
抑えきれない声が、声となって口から小さく漏れた。
その小さな声を聞きつけた一貴は、瞬時に莉世の腰を抱いた。
もちろん、その仕草に響子も引きつけられた。
「……その子は、誰?」
響子さんの目が鋭く光ったように感じたのは、わたしだけ?
首の頚動脈がピクピク動いているのを感じながら、莉世は息を飲んだ。
「お前に知る必要があるか?」
「まぁね。この子が……水嶋のおじいさまが言ってた子だとは思わないけど」
大人の余裕を見せて、色っぽく微笑む。
ソファに寛いだまま、響子は足を組み替えた。
目に飛び込んできたしなやかな足が、再び莉世を襲う。
知らず知らず、莉世は一歩後ろに下がってた。
「莉世?」
一貴が心配そうに上から声をかけてくる。
それを聞いた、響子が驚愕したように口をポカンと開け、莉世に視線を動かした。
「莉世……ですって? ……あなたが、あの……莉世ちゃん、なの?」
莉世は、ゴクリを唾を飲み込んだ。
「……はい」
「まぁ! 元気だった? わたしの事、覚えてるかしら?」
響子は素早く立ち上がると、莉世の両手を取り……引き寄せた。
「わたしが覚えている莉世ちゃんは、まだ小学生だったのに、大きくなったわね」
だから……会いたくなかった。こうして、再会したくなかった。
莉世は、震える唇を強く結んだ。
「とても可愛くなったわね。ボーイフレンドも一人や二人いるでしょう?」
「いえ……」
表情を強ばらせて、莉世は頭を振った。
「そう?」
響子が無邪気そうに微笑む。
莉世は、再び胸を強く叩かれたような痛みを感じた。
それは、遠い昔感じた時にはわからなかった、大人の女としての感情。
わたしが子供だった頃にはわからなかった。
響子さんはとても優しく、いつも二人の邪魔をしていたわたしを邪険に扱う事はなかったって……思ってた。
でも、それは違うって今ならはっきりわかる。
響子さんは、響子さんは……。
「莉世ちゃんぐらい可愛かったら、いると思うんだけど。わたしだって、莉世ちゃんぐらいの時は、一貴がいたワケだしね」
「響子」
一貴は、二人の間に入って来ると、響子を睨み付けた。
それを見て……莉世は、響子が同性として嫉妬を感じているという事実に気付かないわけにはいかない。
そう、響子さんは……昔も、二人の間に入り込んでいたわたしに、嫉妬を感じていた。
それは、言葉の端々で表現されていた。でも、子供だったわたしは……それを感じ取る事が出来なくて。
「何? わたし、普通に話してるだけよ? 変な事言った?」
首を傾げる響子に、一貴は冷酷な目で見つめる。
「何の用で、勝手に部屋に入ってるんだ?」
「そんなに怒らないで。……初めて入るワケでもないんだし。ねっ、莉世ちゃん」
突然話を振られて、莉世は無意識に軽く頷いていた。
「でも、年月って経つのが早いのね。あの時の子供だった莉世ちゃんが、こうして中学生? になってるんだもの」
中学生……
莉世は何て答えればいいかわからなく、崩れるようにソファに座った。
すると、響子も再び隣に腰を下ろす。
「当時は…何歳だったかしら? ごめんなさい、よく覚えていなくて」
申し分けなさそうに謝る響子に、莉世は頭を振った。
「子供は……子供にしか見えませんから。でも、わたし今高校生です」
「高校生! まぁ、そんなになるの? じゃぁ、わたしが一貴と付き合ってた時と同じだわ」
「いい加減にしろよ」
一貴はそう言うなり、莉世の腕を引っ張り立たせた。
「何? 莉世ちゃんにわたしと付き合っていた事を知られたくないの? でも、知ってるわよ。いつも一緒にいてたでしょう……私たち3人で」
響子は、堂々と一貴を見上げた。
「そんな事はどうでもいい。いつまで人の部屋にいるんだ。さっさと出て行ってもらいたいね」
「何て言い方。それがわたしに言うセリフ? 去年は、両家を結びつけようと改めて家族で会ったというのに? もちろん、一貴からは断られたけどね」
響子は、莉世に向かってにっこり微笑んだ。
どういう意味? 両家を結びつける?
莉世は、ハッとなった。
昨年の一貴のお見合い話を思い出したのだ。
そうなんだ……一貴は響子さんとお見合いをしたんだ。改めて家族で会い、壊れた二人の距離を縮めようと家族が仕組んだ、お見合い。
その事に不安がないと言えば嘘になる。
だって、お見合いをした事は知っていたけれど、その相手が誰なのか言ってくれなかったから。
莉世は、昂ぶる感情を押え込もうと、奥歯をしっかり噛み締めた。
「下に行くぞ。響子、お前もだ」
響子は肩を竦めると、優雅に立ち上がった。
「そうね。話したい事があったんだけど……もちろんアノ事よ。でもいいわ、また時間を作ればいいんだし。せっかくの莉世ちゃんとの時間を、わたしの用事なんかで邪魔したくないものね」
瞼の裏がチクチクしてきた。
ダメ、涙なんか浮かべたら……響子さんにどうしたの? って聞かれる。
その時は、何て答えるの? 言えない、言えないよ。
少し俯いて、何度も瞬きを繰り返し涙を払った。
「一貴? 下にはおじいさまもいるの。宜しくね」
「宮野会長が?」
一貴は、眉間に皺を寄せた。
「そっ。新年のご挨拶に一緒に来たのよ。さっ、行きましょう」
響子は、何気なしにドアの前で立ち止まる。
一貴は舌打ちしながら、莉世の腰から手を離すとドアを開けた。
「ありがと、一貴」
優しくお礼を言う響子の姿は、同性から見ても本当にうっとりと見入ってしまう。
莉世のココロに、冷たい風が忍び込んできた。
まるで、一貴がわたしに厭きて……再び響子さんの元へ行くような、そんな光景を先に見せられたような感じ。
しっかりしなさい、莉世! 昨日お願いして…祈った言葉を忘れたの? 去年のような、擦れ違いはもうしたくないってわかった筈でしょう?
莉世は、下を向く事はない・正々堂々と胸を張っていればいい・一貴が愛してるのは、今はわたしなのよ……と言い聞かせる。
揺るぎない瞳で莉世を見つめ続け、ドアを開けて待ってくれている一貴の側へ行こうとした。
うん、一貴はわたしを愛してる。わたしを求めるほど……。
莉世は、心配しないで、大丈夫だから……という気持ちを込めて一貴に微笑みながら、一歩足を踏み出したその時、
「莉世ちゃんって、本当お人形さんみたいに可愛いわね」
と、響子が口を開いた。
「着物を着ているからかしら?」
莉世は、響子に視線を向けた。
響子は、悪意に満ちた表情をしてるわけでもなく、ただ莉世を優しく見つめていた。
「でも……そうね、せっかくお洒落してるんだから……口紅は塗り直した方がいいわよ」
莉世は、目を大きく開け響子を見返した。
「食事の後は、塗り直さなくてはね。ほらっ、一貴、女性が化粧を直す時は出て行ってあげるべきよ。じゃぁ、莉世ちゃん下で待ってるわね」
そう言うと、響子はドアをゆっくり閉めた。
――― カチャ。
ドアの閉った音が、無情にも莉世のココロに響き渡る。
莉世は、一人一貴の部屋に取り残されてしまったのだった。
まるで、この先いつでも同じ場面が繰り返す……と予兆してるかのような光景に、莉世は唇を強く引き締めた。
……泣かないもんね。こんな事で、泣かないもの。
響子さんの態度は昔と変わってない。昔から、こうだった……優しくて姉のようにわたしに接してくれてた。でも、決まって最後には……。
莉世は、ギュッと唇を強く結んだ。
いろんな 言葉が……棘のようにココロに刺さるのは、わたしが大人になったという事。同じ女性として、愛する人を独り占めしたいという気持ちが……手に取るようにわかるようになったから。
必死に感情をコントロールしていたのにもかかわらず、いつしか……莉世の目から涙が零れ落ちていた。