「バカか、お前は!」
莉世はビクッと躰を震わせ、思わず両手で耳を押さえた。
一貴が、幼少の頃から学生時代まで使用していた部屋に連れて行かれて、言われた第一声がこれだった。
「ごめんなさい……何か、特別な言葉だったんだね」
一貴は大きく吐息を吐くと、ソファにどっさり座り込む。
「当たり前だろう?」
「でも、わたし意味わからなかったんだもの。ちょうどおじさまから、何でも聞いていいよ…って言われたから、」
莉世は、一貴の側に寄った。
「俺に聞け。そうすれば、俺が何でも教えてやる」
な、何でも?
その言葉に不信を持ったかのように、莉世は訝しげに目を細めた。
それを一瞬で捕えた一貴は、不気味な微笑みで莉世を見つめ返す。
「何でも……教えてやってる、だろう?」
莉世はパッと顔を背けると、窓辺に向かいながら、
「知らない!」
と言い捨てた。
莉世の頬は、ほんのりと染まっていた。
一貴が何を指しているのか、わかっているからだ。
もう、一貴ったら……わたしを困らすような事ばかり言うんだから。
でも……本当に“ヒメハジメ”ってどういう意味なんだろう? わたしが齎した言葉に、どうして皆あんなに驚愕して…そして興奮したんだろう?
莉世は、階下で起こった事をもう一度思い出した。
* * * * *
「わたし、変な事を言いました?」
一貴のパパは、呆然と莉世を見つめる。
えっと、どうしよう。どう言えばいいの?
莉世は、何故かドキドキしながら、重い口を開いた。
「……だって、一貴が」
「莉世、それ以上言うな」
一貴が慌てて立ち上がると、莉世の腕を取り引き寄せた。
そんな一貴の姿を見た一徳は、顔を強ばらせて射貫くように一貴を睨み付けた。
「……お前か? お前が莉世ちゃんに、そんな言葉を教えたのか?! ……何て事だ。お前はいい大人だから、良しとしよう。だが、莉世ちゃんはまだ学生なんだぞ? それにお前は、教師という立場だろうが。にもかかわらず、そんな言葉を莉世ちゃんに教えるとは……卓也にも申し訳が、」
一徳は、チラリと卓也に視線を向ける。
それと同時に、莉世も父を見た。
そこに見た父の怖い形相を見て、莉世はビックリした。
何? どうしてパパったら、あんなに怖い顔をして……しかも青ざめるほど唇を震わせてる。
「パ、パ?」
「莉世、もう何も言うなと言ったろ?」
一樹は莉世の腕を掴むと、襖の方へと歩き出す。
「待て、一貴! 話はまだ終わってないぞ!」
一貴は、振り返って座の皆に一瞥を放つ。
「大丈夫ですよ。莉世は……今日“ヒメハジメ”をするワケじゃないのでね」
「「一貴!」くん!」
一徳と卓也の言葉が、見事に揃う。
莉世は、呆然となりながら……引っ張られるまま廊下へ出ると、階段を上がった。
* * * * *
そして、今に至る。
莉世は、クルッと振り向いた。
「ねぇ、どうして皆怒っていたの? “ヒメハジメ”って何なの?」
既に立ち上がり、側まで近寄ってきていた一貴を見上げて、莉世は聞いた。
一貴は、莉世をきつく抱きしめる事が出来ないもどかしさを抱きながら、大きくため息をついた。
「“ヒメハジメ”っていうのはな……」
――― 5分後。
「もう! バカ! 信じられないよ……」
莉世は顔を真っ赤にしながら、両手で顔を覆った。
皆が呆然となるのも、頷ける。だって、公然の場で……あんな事を言ってしまって……。しかも、最後の捨てゼリフが、アレだ!
「一貴、どうして最後にあんな事を言うの? パパやおじさまが怒るのも無理ないよ」
「そうか? 安心させたつもりだったんだが?」
安心? ……あれが安心の言葉?
莉世は、呆れたように頭を振った。
ダメだ……一貴ってばわかってないよ。あの言葉は……まさしく二人の関係を指し示していたのに。しかも生々しく……。
もちろん、一貴との外泊を許してくれた(1泊だけだけど)パパは……わたしたちの関係がどの辺りまで進んでいるのか、内心ではわかってると思う。
わかってはいるけど、堂々と宣言されるのとでは全く違うんだよ?
それに、パパってば、異常なほど一貴との関係には慎重だし。
「……パパとの対面が怖いよ」
ボソリと呟いたその一言は、莉世のココロを鏡のように映し出していた。
――― コンコンッ。
「どうぞ」
「失礼します」
入ってきたのは、水嶋家の家政婦、ハルだった。
「お紅茶をお持ちしましたよ」
そう言いながら、続き間となっているベッドルームのドアを見たのを、一貴は見逃さなかった。
「ハルさん……大丈夫だよ。莉世をベッドに押し倒したりはしない。それに、着物を着てるんだ。解いた後は、いったい誰に締めてもらうんだ?」
その一言で、ハルはホッとしたようだった。
「そうでございますね」
「そう。だから、親父たちの偵察隊みたいなマネはやめてくれ」
「はいはい」
ハルは、我が子のように一貴に微笑むと、そのまま出て行った。
一貴は、クルッと莉世に向き直るとおかしそうに笑いを堪えていた。
「莉世が、着付け出来るとも知らずに……」
そう言うが早いか、一貴の目が異様に輝き出した。
えっ? ……も、もしかして……。
ずんずん距離を縮めると、一貴は莉世のお尻に手を周して抱き寄せた。
「さぁ、これで邪魔者はいなくなった」
「一貴、ちょっ、」
と待って……と言う前に、一貴の唇が莉世の唇を覆った。
階下で受けたキスとは違う、飢えたようなキスに、莉世は喘ぎながら一貴の胸元を握った。
一貴の手が項を愛撫し、ゆっくりと鎖骨から前襟へと滑らせる。
「っぁん……」
一貴の辿った肌が、刻印のように熱くなってきたのは言うまでもない。
求められてるという行為が、莉世をその渦へ落とそうとする……。
しかし、莉世は意思を総動員させて、腕を突っぱねた。
「どうした?」
「……出来ないの」
「出来ない?」
一貴の目が細められる。
あぁ、そうじゃなくて……
「帯が解けたら……自分で出来ないって事!」
莉世のその一言が、一貴を驚かせた。
「お前、着付け出来るんだろ?」
そう、出来る……出来るけど。
「今日の帯はね……本を見ながら締めたの。だから、同じようにココでは結べない。わかる?」
一貴は、ガクッと気落ちしたように、莉世の肩におでこを落とした。
「……という事は、違う帯の締め方をしていれば、」
「皆にバレちゃう」
一貴は、本当に大きくため息をついた。
そして、何を思ったのか……いきなり莉世の耳朶を唇で挟んだ。
「っぁ」
「残念だな……もちろん、着物を脱がずに莉世を抱こうと思えば抱けるが……肌の接触がないのは物足りない」
も、物足りないって。
莉世は、苦笑いを浮かべた。
「明日、お前の予定は?」
「あっ、ごめんなさい。彰子と初売りに行く約束しちゃった」
莉世は一歩後ろに下がり、一貴を見上げる。
「三崎と? ……約束なんか放棄してしまえ!」
「ダメ! 今年の福を求めて、福袋買いに行くんだから」
一貴は、苦々しく顰めながらも、諦めたように天上を仰ぎ見た。
「俺らの“ヒメハジメ”はいつなんだ?」
「もう、その言葉はイヤだって!」
莉世は頬を膨らませながら、一貴の側を離れ……紅茶があるソファへと向かった。
そんな莉世の後ろ姿を見ていた一貴は……言葉とは裏腹に、愛しそうに莉世を見つめていた。