――― 1月2日。
「あけましておめでとうございます、今年もどうぞ宜しくお願い致します」
莉世の父・卓也は、代表でそう告げると、深々と頭を下げた。
そして、家族皆がゆっくり頭を下げる。
「おめでとうございます。こちらこそ、宜しくお願いします。……さっ、形式的な挨拶はこれで終わりだ。中に入ってくれ」
水嶋家家長の一徳は、満面の笑みを込めて一同を促した。
「失礼します」
卓也は靴を脱ぐと、まるで勝手知ったる我が家のように、どんどん奥へ入って行く。もちろん莉世の母、莉加と卓人も同じようにその後ろに続いた。
そして莉世は……草履を脱ぐと着物の端を持ち、ゆっくり上がった。
莉世はその場に佇み、周囲を観察せずにはいられなかった。
留学した年のお正月も、こうして挨拶に来たんだよね。あの時は、まだ何も知らない子供だった。
一貴の事をココロから信じて、頼って……いつも側に張りついてばかりいた子供。ふふっ、今もそれは変わらないか。
莉世に、幸福の笑みが零れた。
変わってない……ここは全然変わってない。一貴が学生時代を過ごした実家は、何も変わる事なく……息づいている。
莉世は、ゆっくり瞼を閉じた。
そう、こうすれば……過ぎ去った過去をたくさん思い出す事が出来る。幼いわたしの手をしっかり握ってくれた一貴、甘やかしてくれた康くん、見守ってくれていた優くん。
わたしは、何て幸せだったんだろう。私には、素敵なナイトが3人もいたんだ。でも……その内の一人にだけ、感心が向いていたけどね。
「何してる?」
急に低くて刺激を感じる……心地よい声が響くと、莉世は白昼夢から目を覚ました。
莉世はゆっくり瞼を押し上げ、その人物に愛情を込めた眼差しを送った。
「あけましておめでとう……一貴」
一貴は、黒いズボンに黒いセーター姿だった。
影のような威圧感を発しながらも、その口元は緩んでいる。
一貴は莉世の側に近寄ると、立ち止まった。
「おめでとう、莉世」
一貴の手が莉世の頬を包み込むと、顔を近づけて斜めからキスをした。
優しく……ゆったりとしたフレンチキスが、妙にエロティックだった。
莉世は頬をほんのり染めて、キスが終わったと同時に軽く俯いた。
どうして、いつも恥ずかしく思うんだろう?
一貴が何でも知ったような素振りを見せるから?
それとも、わたしが……あまりにも反応を示すから?
「何故おじさんと一緒に奥にこなかった? 皆、莉世が来るのを待っているぞ?」
莉世は、肩を竦めた。
「……思い出していたの。随分……久しぶりだなって思って」
一貴は、莉世の帯の下に手をあてると、歩くように促した。
「そうだな。……お前が留学する年の正月が、最後か」
一貴も覚えていてくれたんだ。
だが、嬉しいと言っていい筈なのに、何故か莉世のココロに不安が過った。一貴の“留学”という言葉に、棘が含んでいたからだ。
そういえば……一貴とは留学に関して一切話をしていない。もちろん、一貴のマンションに連れられて、無理やり問いただされた最初の時は別として。
あれ以来、留学の話題が出ない事にホッとしていた。わたしも話したくなかったし、一貴も聞いてこなかったから、そのままの状態で過ごしてきた。
それでいいと思ってた。でも、さっきの一貴の棘は……
莉世は、チラリと一貴を睫の隙間から見つめた。
一貴は、わたしが留学した事を、快く思っていなかったの?
それとも……
「そうだ、言ってなかったな」
莉世は問うように、肩ごしに一貴を見上げた。
「……着物。良く似合ってる」
莉世は、突然の褒め言葉に照れながら微笑んだ。
「ありがと」
「だが、着物だと……」
着物だと……何?
莉世は眉間を寄せた。
「お前をきつく抱けない」
「えっ?」
だ、抱く? ……それって、どういう意味の抱くなの?
莉世は、突然の一貴の言葉に、口をポカンと開けた。
「しかし、着物の利点もあるよな、こうやって、」
「ひゃぁ!」
莉世は、ビクッと躰を奮わせてた。
いきなり襲ってきた甘美な痺れに、身構えていなかったからだ。
莉世の躰に火が燻った事を見た一貴は、満足そうに笑った。
「……そうだよ。腰は帯が崩れるといけないから触れないが、無防備なお尻は……こうやって堂々と触れるんだからな」
一貴は笑いながら、もう一度撫で上げた。
「もう、一貴!」
莉世は顔を赤くさせて睨むが、一貴の目は優しく和んでいる。
そんな風に見られたら……怒りたくても怒れないよ。
口を尖らせる莉世に、一貴はニヤリと笑った。
「ほらっ、皆が待ってるぞ」
二人は、ある一角にある部屋に向かってゆっくり歩を進める。
そこは、お正月の時よく使っていた和室だった。
和室の近くまで来た時、一貴は足を止めた。
「そうそう、お前が嫌がっていても、今その躰がどうなっているのか……俺にはバレバレだぞ。いつだろうな……莉世との“ヒメハジメ”は。もしかすると、その日は今日かもな」
耳打ちにそう甘く囁くと、一貴は一瞬で顔を引き締めて、和室に入った。
もちろん、莉世は恥ずかしさで顔を真っ赤にしていた。
うそ、絶対わかってなんかいないよ。
着物の下で……乳首が痛い程張っているなんて、絶対一貴にはわからない! ……ところで、“ヒメハジメ”って何?
最後の一貴の言葉に頭を捻りながら、莉世は一貴の後から和室に足を踏み入れた。
「やっぱりいいね、若い娘がいるのは」
一貴の父の一徳は、莉世に向かって微笑んだ。
「一徳のところは、嫁が3人も来てくれるんだ。それで我慢しなければならないぞ。俺を見てみろ。大事な莉世は他家に嫁ぐ、その代わりに卓人が嫁を貰う。踏んだり蹴ったりだ」
「あなた……」
莉世の母、莉加が窘めるように、夫の膝を叩く。
「本当の事じゃないか」
莉世は、呆れたように苦笑いを浮かべた。
パパもおじさまも……かなり酔ってるよ。
そのまま視線を周囲に向けた瞬間、莉世は再び苦笑いした。
一貴の機嫌が、とても悪そうだったからだ。しかも、父親に対してだけ。
ははっ、最初すぐに抜け出そうとして咎められたのが原因?
莉世は、視線を一貴の隣へと向けた。
今度は、本当の笑いが漏れそうになる。
なぜなら、一貴に劣らず……優貴も唇を引き締めていたからだ。そして、その隣にいる康貴の表情は……逆に青ざめていた。
何? どうかしたの?
康貴のあの明るさが垣間見れず、莉世は康貴をジィーと見つめ続けた。
それに気付いた康貴は、視線を上げてハッとなる。
途端、いつもの表情を見せて莉世を和ませた。
康くん、何か隠してる……。何隠してるんだろう?
莉世は、頭を傾げながら不思議に思った。
「莉世ちゃん」
急に呼ばれて、莉世は一貴のパパに視線を向けた。
「はい?」
「お酌してくれるかい?」
杯を持ち上げるのを見て、莉世は微笑んで立ち上がった。
「親父……莉世をこき使うな」
一貴が、自分の父を睨む。
「莉世ちゃんはな、俺の友人の娘さんなんだ。お前一人のモノじゃないんだぞ? それなのに、お前ときたら……ずっと莉世ちゃんを独占して、家にさえ連れて来なかった」
一徳は、負けずに息子を睨み付ける。
莉世はそんな二人のやり取りに苦笑いしながら、隣に座るとお銚子を持った。
「はい、おじさま。どうぞ」
「あぁ、ありがとう!」
満足気に微笑む一貴のパパに、莉世はにっこり微笑み返した。
「どうして我が家の息子どもは、こうも自分勝手なんだ。卓也、お前が羨ましいよ」
満更でもない……という風に笑う父に、莉世は当然呆れるしかなかった。
なんて親バカなの! 褒められて……それを嬉しがるなんて。
莉世は、やれやれと頭を振った。
「……何かわからない事や、心配な事があったら、いつでもいいからおじさんに言いなさい。莉世ちゃんの為なら、何でもしてあげよう」
未だ話しかけられていたと知り、莉世は慌てて意思を一貴のパパに向けた。
「ありがとうございます」
その時、“何かわからない事” という言葉に引っかかり、莉世はおもむろに言葉を発した。
「おじさま、“ヒメハジメ”って何ですか?」
その一言で、一貴のパパと莉世のパパがお酒を吹き出し、母親たちの動きは止まる……卓人は顔を真っ赤にしながら口を大きく開け、優貴と康貴はビックリしたように莉世を見つめた。
肝心の一貴は……途方に暮れたように、目を手で覆っている。
座が静寂に包まれてシーンとなったのは、当然の成り行きだった。
一人、意味が全くわからない莉世だけを残して……