『ココロの陽、BEST FRIEND』【4】

 莉世はもちろんの事、彰子も湯浅先生まで声を失っていた。
 しばらくその沈黙が続いたが、その沈黙を一貴が破った。

「酒は呑んでないだろうな?」
 そう言いながら、莉世のグラスに手を伸ばすと、突然それを呑み始めた。
 その行動に、皆呆然としてしまった。
「ちょっ、呑むわけないじゃん」
 彰子が先に我に返り、ビックリしながらもニヤッと笑って一貴を見上げた。
「あたしら未成年だよ? よくわかってると思うけど」
 意味深に言う彰子の言葉に、一貴は片眉を上げた。

 その時、一貴の視線が二人の間に置かれた2枚の名刺に逸れた。
 あっ、それは!
 莉世は、咄嗟に手を伸ばしてその名刺を隠そうとしたが、一足遅く……それは一貴の手へと移動してしまった。
「何だ、これは?」
 一貴の視線が、莉世に注いだ。
「あぁ、それ? たまたま居合わせたこの人たちが渡してくれたんだ」
 またも、彰子が答える。
「……水嶋グループか」
 一貴がボソッと呟いた。
「ねぇ、一貴。いいじゃないの。この子たちにとって、コンパって日常茶飯事なんだから」
 湯浅先生が横から口を挟むが、一貴はそれを無視していた。
 一貴は腕時計を見ると、既に21時前になろうとしていた。
「帰るぞ、お前ら」
 それを聞いていたリーマンが、突然割って入ってきた。
「ちょっと、先生。大丈夫ですよ、俺らがちゃんと送っていきますから」
 そう言うリーマンに、一貴は冷たい視線を投げつけた。
「お前らには関係ない。ほらっ、さっさと立て」
 莉世は、こうなったら一貴を止められない事を知っていた。
 それは彰子も同じだった。
「ちょっと、それっておかしいんじゃないか?!」
 一貴は、声を荒立てるリーマンの側に近寄ると、ボソボソと何かを言った。
 すると、そのリーマンたちは、急に顔を青ざめて下を向いた。
「さっ、行くぞ」
 彰子がため息をつきながら伝票を取ろうとすると、横から一貴がそれを取り上げた。
 彰子はビックリしながらも、チラッと一貴に視線を向けてニヤニヤした。
「あれぇ〜? センセ、奢ってくれるの?」
「今回だけだ」
 睨む一貴の視線を、彰子は笑いながら受けた。
「やったぁ! これからは……莉世と出かけるに限るね」
 最後は、ボソッと呟きながら莉世の耳元で話したが、一貴が睨み付けてるのを見ると、聞こえたようだ。
「ははっ」
 莉世は、苦笑いするしかなかった。
 不機嫌な一貴は、落ち着かない莉世、朗らかな彰子……そして納得がいかない表情の湯浅先生を引き連れ、そのイタメシ屋から外に出た。


 外に出ると、4人は円になるように立ち止まった。
「みつる、お前三崎を送ってやってくれ。俺は……桐谷を送っていく」
 その言葉に3人それぞれ違う意味で驚いた。
「一貴! 子供じゃないんだから、ちゃんと帰れるわ。わざわざわたしたちが送らなくても」
「俺の生徒なんだぞ?」
 一貴が、厳しく……だけど冷静に湯浅先生に告げた。
「あっ、あたしは大丈夫。一人で帰れるよ。だけど……」
 彰子はチラッと莉世を見て、再び一貴へと視線を向けた。
「莉世は、まだ地理に不慣れだから送る必要あるかな。あたしとは路線が違うし……よかったら水嶋センセが送ってあげてよ。湯浅センセはどうする? 莉世たちと一緒に行っていいよ」
 その言葉に、嬉しそうに湯浅の口角があがった。
 しかし、
「みつるは、三崎を駅まで送るんだ」
 一貴は、ぴしゃりと言い切った。
 そして 、彰子を睨み付けるのを忘れなかった。
「一貴!」
 焦ったように、湯浅先生は声を出した。
 だが、一貴はその言葉を止めさせるように、はっきり言った。
「みつる。今日は、お前と付き合うのはまっぴらだ。何故か…わかるよな? 三崎、一応みつるは先生なんだ。困らせるんじゃないぞ?」
「は〜い、水嶋センセ」
 莉世は彰子の楽しそうな声を聞きながら、湯浅先生の唇が戦慄いているのを見てしまった。
 同じように恋する女性として、莉世はその表情を見て動揺してしまった。
 なぜなら、その表情は一貴と付き合う前の……昔の莉世の表情と一緒だったからだ。
「莉世? 今日でなくてもいいから、どうなったか連絡ちょうだいね?」
 にっこり笑う彰子に、莉世は不安げな目で見つめた。
「莉世、あたしが言った事を思い出せ!」
 彰子は、すぐさま莉世の頬をうにゅ〜と摘まんだ。
「いふぁひぃ!」
 彰子が手を離すと、すぐさま莉世は手で頬を抑えた。
「しっかりするんだよ、莉世……じゃぁね」
 彰子は、湯浅の腕を掴むと、どんどん歩いて行った。
 莉世は、一貴とその場に取り残された。


 二人の姿が見えなくなると、一貴は莉世の手を急に握りしめ、引っ張るようにすたすた歩き出した。
 沈黙のまま、莉世は引きずられる形で、一貴に引っ張られる。
 何も語らない一貴の背中を見ながら歩くが、一貴が怒っているのかどうか……全くわからなかった。
 手を握る一貴の手は、しっかりと莉世を掴んでいる。
 その力強さを目で見ながら、この手を離したくないと思った。
 湯浅先生には……悪いと思うけど、わたしは自分からこの手を離す事は出来ない。
 莉世の脳裏には、まださっきの湯浅先生の表情が焼きついていた。
 莉世は、その記憶を拒絶するように何度も頭を振った。
 わたしからは、絶対譲れないの……絶対に!
 莉世は、自ら手に力を込めて、一貴の大きな掌を握った。

 それにしても、 どうして何も話さないの?
 この長い沈黙にとうとう堪え切れなくなった時、莉世は口を開こうとして、視線を上げた。
「ぁ……」
 莉世は、口から漏れた声に気付かない程、驚愕してしまった。
 なぜなら、 今までは人がたくさんいて騒がしかった筈なのに、いつの間にか人通りが少ない、静かな路地に迷いこんでいたからだ。
 えっ? どうして?
 視線をキョロキョロ動かすと、大人の男性と女性が、莉世たちと同じように手を繋いだり肩を抱いて、静かに歩いてる。
 えっ? な、何?
 莉世の目は、動揺して視点が定まらない。
 暗い路地に光る、何やら眩しい電光……。
 マンションのように立ち並ぶ建物や、高級料亭にしか見えないその入り口には……光る掲示板があった。
 そこに書いてある字に、莉世は驚愕せずにはいられなかった。

 御休憩……御宿泊?!
「ぁ……」
 その言葉が、何を意味するかがわかると、莉世はか細い声を漏らした。
 莉世たちの前を歩いていたカップルが、ある建物に入った。
 そこも、ラブホだった。
 あの人たちは……今から。
 そう思った瞬間、莉世の鼓動が激しくなった。
 まだ強く引っ張る一貴は、一言も話さない。
 一貴も入ろうというの? わたしと同じように……周囲にいるカップルも、わたしたちがラブホに入ると想像してるの?
 莉世は、恥ずかしさで顔が染まっていくのがわかった。


 一貴が急に方向転換をした。
 緑に囲まれた……立派な日本家屋の軒をくぐったのだ。
 でも、入り口にはやはり……あの字が書いてあった。
 ココも、ラブホなんだ。
 莉世は、溜まった唾をゴクリと飲み込んだ。
 中へ入ると、着物を着た清楚な中年の女性が出て来て、床に膝をついて頭を下げた。
「ようこそ。どうぞこちらへ」
 身を起こしても、その女性は決してこちらの顔を見ようとしなかった。
 一貴は、莉世の手を離さないまま靴を脱いだ。
 だが、莉世が靴を脱ごうとしないのに気付くと、莉世の手を離し、玄関に置いてある椅子に座らせ、 跪いて莉世の華奢なミュールを脱がせた。
 一貴の指が莉世の踝に触れた瞬間、ゾクッと背筋に電流が流れた。
 甘い……甘い電流が。
 それに気付いたのか……一貴が上目づかいで、莉世の視線を捕らえた。
 初めて……彰子たちと別れてから、初めて視線が合ったのだ。
 どうして、そんな辛そうな……苦しそうな目で見るの?
 一貴の視線は、しばらく莉世の目を見ていたが、そのまま胸元まで下げた。
 激しく上下する胸が、一貴の目に入る。
 一貴は一瞬頭を下げたが、そのまま勢いをつけて立ち上がった。
 そして、莉世に向かって手を差し伸べた。
 わたしに、自分で決めろと言ってるの?
 ここまでは、一貴から手を握ってきて、一度もわたしの手を離さなかった。
 今度は……わたしに、ここに入るのかどうか、選べとでも言ってるの?
 ……もし、わたしに拒んで欲しいと思ってるのなら、それは大間違いだよ。
 莉世は一貴の差し出した右手に、左手を絡ませた。
 すると、一貴は一瞬莉世の視線を強く絡めとった。
 一貴の目が一瞬輝いたが、すぐに莉世と一緒に連れだって歩いた。
 今度は引っ張る事なく、横に一緒に並び……まるで対等のように扱ったのだ。


 2階へ行くと、その女性はある襖の前で立ち止まり、再び跪いて襖を開けると、頭を下げた。
「どうぞ、ごゆっくりお寛ぎ下さいませ」
 一貴に促されて中へ入ると、音もなく襖が閉まった。
 少し段になっている所を上がると、もう一枚襖があった。
 一貴が襖を開ける時、莉世は生々しい部屋を想像した。
 ところが、目の前に広がったのは……普通の和室だった。
 わたしの家と、同じような和室だよね?
 床の間もあり、重厚で高価そうなテーブルが中央を占めている。
 テーブルの上には、既にお酒や料亭のような付だしが、数種類用意されていた。
 いつの間に?
 ところが、用意されている席は隣同士だった。
 これだけ広かったら、向かい合わせでもいいのに。
 莉世はそう思いながら、一貴の動きに合わせて席に座った。

「さてと、報告を聞こうか」
 その声には、全く怒りがなかった。
 莉世は一瞬あっけにとられてしまった。
 一貴……怒ってない?
「……まぁ、聞かなくても、あの三崎の行動見てたら、バレたって事だよな」
「あっ……うん」
 一貴の態度がおかしいなと思いながら、一貴にはビールを注ぎ、自分にはお茶を注いで一口啜った。
 一息入れる事が出来て、ホッとしながら視線を上げると、一貴が躰の向きを変えて、莉世の一挙一動を見守っていた。
「な、何?」
 一貴の手が伸びてくると、ゆっくり莉世の頬を撫でた。
 その行為に、莉世は息を飲んだ。
「……お前が顔を隠していても、俺にはすぐわかった」
 あの、お店での事を言ってるの?
「あの店に、お前が居るとは思ってもみなかった……だが、まるで甘い汁を求める蟲のように……俺はお前の姿に吸い寄せられたよ」
 莉世は、その言葉にドキッとして、ゴクリと喉が鳴った。
「肩のライン、骨格、しぐさ……ヒップのライン全てが、お前だと主張していた」
 一貴の微かに触れる指が、言葉と同様にその場所を触れる。
 莉世の胸が、激しい動悸で上下した。

「お前らが顔を隠したのは、俺らが入ってきたからだろ?」
 莉世は漏れる吐息を気にしながら、一貴の優しい声に素直に頷いた。
「咄嗟の行動だったの。一貴の事は、彰子に知られてるってわかってるのに、何故か……隠さなきゃって」
 一貴はまだ莉世の躰の……至る場所に、手を滑らせている。
「それは、あの名刺と関係あるんじゃないか?」
 莉世は、一貴のその言葉に力が入るのを感じ、真っ直ぐ見つめてくる目を見た。
 だが、その強さに耐え切れなくなり、すぐに下を向いた。
「……わからない」
 すぐに一貴の手が頬に伸び、顔を上げさせた。
「あの二人が、お前らに声をかけてるのを見た時、俺がどう思ったと思う?」
 一貴の指が、莉世の首筋をゆっくり撫で下ろした。
「ぁ……」
 莉世の口から漏れる甘い声を聞いた一貴は、莉世の唇を見た。
「すごい……腹が立った」
 あの時、怒っていると感じたのは当たってたの?
 莉世の唇が震えた。
「だが、あいつらが声をかけたくなる気持ちも、わからないではないんだ」
 一貴が、とうとう莉世の唇に軽く唇をつけた。
 微かに触れ合う、柔らかい感触と温かさが、莉世の鼓動を高鳴らせた。
「三崎はあのとおりの美人だし……お前は、」
「っぁ……」
 一貴が、舌で莉世の唇の輪郭を、撫でたのだ。
「こんなに、愛らしい」
 その言葉に、莉世の躰に甘い痺れが走った。

 何だろう……
 いつもなら奪うように扱う一貴なのに……今日はいつもと全然違う。
 どうして?

2003/04/20
  

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