莉世は、ガラステーブルに置かれてある紅茶を手に取った。
それは、もう既に冷たくなっていた。
それぐらい二人は夢中に話をし、キスをし……愛撫していたのだ。
莉世は、俯くと頬を染めた。
カップの縁を優しく指でなぞっていると、一貴の優しい繊細な指使いを思い出した。
大きな手なのに優しく触れてくれて、わたしを夢中にさせてしまった……。
躰の奥にある燻りは、未だ消えていない。
躰の火照りが消えるのを願うように、莉世は冷たくなった紅茶を飲んだ。
それにしても……一貴いったい何してるの?
扉を見ようと振り返ると、一貴が立ち止まって莉世を見ていた。
その瞳には、莉世と同様未だ欲望が見え隠れしていた。
一貴に見つめられているとわかると、莉世は堪らなく彼に触れて欲しいと思ってしまった。
だが、莉世は無理やりに視線を逸らせると、持っていたカップを下ろした。
わたし……いったいどういう行動をとればいいんだろう?
視線を上げると、既に一貴はソファへ近寄り、気付いた時は隣に座ろうとしてた。
「……お前に風邪をひかせたくない。だから、髪を乾かす方が先だ」
いったい何の、先だろう?
一貴にその事を訊こうとすると、一貴は自分の前に座れと指差した。
莉世は立ち上がると、一貴が足を開いて場所を開けている所の足元へ座り込んだ。
ソファは座丈が低い為、殆ど一貴の腕の中にいる状態だった。
一貴がドライヤーのスイッチを入れると、莉世の髪にあて指の腹で頭皮をマッサージするように優しく動かす。
昔……、そう昔もこうして優しく乾かしてくれた事があった。
でも、感覚は昔とは全く違う。
一貴は普通に乾かしてくれてる……でもわたしは、こんなにエロティックな気分にさせられてる。
ドライヤーの温かい風が、莉世の緊張をほぐしていき、一貴の息遣いや動く指が、莉世の躰に甘い電流となって走った。
思わず漏れそうになる甘美なため息を、莉世は必死で堪えた。
ドライヤーの音はとても小さく、この何も話さない状況が、急に苦しくなった為、莉世は口を開いた。
「ねぇ、一貴?」
感じてる為か、声が掠れてしまったが、ドライヤーの音できっと小さな声にしか聞こえなかったに違いない。
そう思うと、少し安心した。
「何だ?」
「どうして、教職とったの? おじさまの会社で働いてるとばっかり思ってた」
「お前の親父さんから、何も聞いてないのか?」
何か、言ってたっけ? ……パパ。
莉世はいろいろ考えたが、それらしき事は何にも思い浮かばない。
「……うん、何も言ってない」
「俺の親父の親父……祖父は親父が大学卒業すると、30歳までは好きな事をして暮らしていいって言ったんだ。 親父はそれが嬉しかったらしい。だから、息子の俺にも同じように言ったんだ。30歳までは好きな事をしていいってな」
莉世は、パパから聞いた話を思い出し、眉間を寄せた。
「でも、確かパパは……おじさまは卒業と同時に会社に入ったって言ってたと思うんだけど」
「おっ! それは知ってたのか。あぁ、確かに親父は会社にすぐ入ったよ。まぁ、それは理由があってな」
理由?
「何?」
「俺のお袋は、まぁ普通の人だ。知ってるよな?」
莉世は頷いた。
わたしは、いわゆる部下の娘に過ぎない。だけどおばさまは、わたしに対してもいつも優しく接してくれた……。
もし、おばさまが上流階級出身のお嬢様だったら……きっとわたしは、歓迎してもらえなかっただろう。
昔はわからなかった。しかし、今なら莉世にもわかる話だ。
「お袋の両親は、この結婚に大反対だったんだ。だが、親父は絶対諦めなかった。祖父の会社に入って、自分の地位を固める事で、お袋の地位も守ろうとしたんだ」
莉世は微笑んだ。
そこまで愛されるなんて、おばさまは何て幸せなんだろう。
「それで、おじさまはおばさまの地位を守る為に、自由を捨てたのね」
「“自由” は捨ててない。お袋を……手に入れて、初めて “自由” を手に入れたんだからな」
一瞬、一貴の指の力が強まったがすぐに力を抜き、再び莉世の髪を乾かし始めた。
その触れ方がとても優しくて……とても愛おしさを感じて……莉世の胸はギュッと切ない痛みを覚えた。
「一貴は……どうして無数にある職業から教職を?」
「別に意味はない」
意味がない?
「それじゃあ……あと2年したら、おじさまの会社に入るの?」
突然、一貴はクックッと笑い出した。
「俺は、既に会社の役員だよ」
「えっ?」
莉世はすぐに振り返って一貴を見上げたが、彼はすぐさま莉世の頭を元へ戻した。
「痛い!」
「お前が勝手に向くからだろうが」
莉世は、頬を少し膨らませた。
何で、急に乱暴になったりするんだろう。わたしが怒ってるって、わかったの?
一貴は、ハァ〜とため息をついた。
「親父は俺に好きにしていいと言った。だから好きにしてるんだ。教職の傍ら、会社での仕事もしてる……俺が30歳になったら、会社一本になるな」
莉世は、まだ怒っていたかった。
だが、優しく頭に触れられていて、こうして話してくれていると、その怒りはたやすくもろく崩れてしまった。
「……一貴は、2足のワラジをはいてるんだね」
「お前、本当に帰国子女なのか」
その楽しむような言い方に、莉世は思わず微笑んだ。
「カリフォルニアでね、“日本人なら日本の事を良く知っておくべきだ!” なんて、友達に言われてたの。だから、諺とかだけじゃなくて、着付けも勉強して、浴衣とかも着てたんだよ」
「……俺もお前の浴衣姿が見たい」
首筋を触れるか触れないか程度で撫でながら、掠れた声で言う一貴に、莉世は思わず躰を奮わせてしまった。
「見たい? わたしの姿を、だよ?」
「あぁ。莉世の姿を、俺だけに見せて欲しい」
何て、一貴は誘惑上手なんだろう。
莉世は、赤くならずにいられなかった。
「……夏になったらね」
「あぁ」
髪の毛は、殆ど乾いてきた。
時計を見ると、既に18時を過ぎている。
まだ、帰りたくない……。
莉世は、この時間を伸ばすように、また質問した。
「一貴は、どうして学校であんなに冷たいの? ……あっ、わたしに対してじゃないよ。それは……よくわかったから。クラスでの事を訊いてるの」
「あぁ。アイツらに少しでもいい顔してみろ。絶対調子にのってくる。俺はそんなの一切ごめんだ。冷たくしてる方が、アイツらにとってもいいんだよ」
誰かの事を言ってるかのような口ぶりだったので、莉世はそれ以上突っ込まないでおこうと決めた。
「それで、 彰子も別に気にしてなかったんだね。普段もあんな態度だったから……。わたしだけか、驚いたのって」
一貴は、本当に重いため息をついた。
「お前……三崎と仲良くなったのか?」
きつい言い方に驚いたが、何も考えず莉世は思ったままを口にした。
「そうだよ。彼女、ズバズバしてて隠さない人だから、変に気を遣わなくていいし」
「ちっ、まずったな」
一貴の声は、本当に苛立たしそうだった。
「何で? 一貴が、彰子の隣にわたしを座らせたんだよ? 忘れたの?」
「忘れるわけないだろ? あぁぁ〜、くそっ……やっぱり駄目だ。あいつから離れろ、いいな莉世」
どうして友達を作るのに、一貴の許可が必要なわけ?!
「い〜やっ! わたし彰子の事気に入ったもの」
「……こうなる事を先に考えとくべきだったな。いいか、莉世。アイツさばさばしてる上に結構鋭い嗅覚を持ってるんだ。だから、悟られないように気をつけろ、わかったな?」
悟られる? 何を?
いつの間にか、ドライヤーの音は止まっていたが、莉世は気付かなかった。
「わたし、何も悟られるような事はないよ? 留学してた事ももう言ったし……っぁ!」
一貴が、莉世の髪を片方に纏めて、露になった首筋にキスしてきたのだ。
一貴は、莉世の腰に腕を回すと、自分の胸元に莉世の背中とぴったりつくように、莉世を抱きしめた。
「俺と、お前の事だよ」
耳の下にある敏感な窪みに舌を這わしながら、一貴が言った。
その小さな声がすぐ耳に届き、息遣いまで聞こえると、一気に莉世の胸はドキンと高鳴った。
莉世は、一貴の腕を両手で掴んだ。
拒絶ではない、離さないで欲しいという意思からだったが、それが一貴に届いているのかはわからない。
莉世の息遣いは、だんだん速くなってきた。
「……わたし、と…かず、きの事?」
「あぁ、そうだ」
一貴の舌は、莉世の鎖骨にまで伸びてきた。
莉世は自然と首を傾けて、一貴を誘った。
でも、その甘い誘惑に負けないように、莉世は一貴の腕を強く掴んだ。
「わたし、が……一貴の、知り合いって事、を?」
「あぁ。それに、俺とお前が……こういう関係だって事をさ」
一貴は、ガウンの隙間から手を差し入れると、莉世の乳房を包み込んだ。
「ぁっ……んっ!」
躰に甘い電流が静かに流れた。
でも、こういう関係って……どういう事?
莉世は不安になり、乳房を揉む一貴の手を押し付け、動きを止めさせた。
「莉世?」
一貴は、その拒絶に戸惑ったようだ。
莉世は、窓に映る二人の姿を見た。
息を弾ませているわたし、胸に伸びてる一貴の手……二人の関係はいったい何?
莉世は、直接一貴の目を見る事が出来なかった。
だから、窓に映る一貴の目を覗き込んだ。
「こういう関係って、どういう関係なの? 一貴が……いつでもわたしを……好きに奪えるって事なの?」
その言葉を聞いた一貴は、パッと莉世の乳房から手をひいた。
そして、莉世の顎を掴んで振り向かせ、莉世の瞳を覗き込んだ。
莉世は、一貴の瞳を見て驚愕した。
彼は……怒ってる。それも、ものすごく怒ってる!
「俺をそんな奴だと思ってたのか? 俺が、お前にこういう態度を取ってるのに、お前は俺が遊んでるとでも言ってるのかっ? くそっ」
一貴は莉世の顎を突き放すと、顔を背け立ち上がろうとした。
莉世は咄嗟に向きを変え、一貴の肩を押さえつけた。
今ここで行かせてしまえば、取り返しが付かなくなると思ったからだ。
「だって、一貴……わたしに何も言ってくれないじゃない。わたしがそう思っても不思議じゃないでしょう?」
悔し涙が溢れそうになった。
「一言でも、わたしを好きだとか……愛してるとか、言ってくれた? ……わたしは、一貴に愛してるって言った。嘘じゃない、本当に男として愛してるの。でも、一貴はわたしの事をどう思ってるか言ってくれてないのに……一貴に、っ恋人がいるかどうかもわからないのにっ、……こんな風にされたら、遊ばれてるとしか考えられないじゃない!」
莉世は瞼を閉じ、涙が流れるままにした。
手が興奮のあまりブルブル震えてる。わかっているが、止める事が出来なかった。
すると、莉世はいつの間にか、一貴の腕の中で抱かれていた。
一貴のブラウスに、莉世の涙がどんどん染み込んでいく。
「あぁ、すまない莉世」
一貴は、ギュッと莉世を力強く抱きしめた。
「そうだった……。お前に俺への気持ちを言わせたのに、俺は一度も口に出して思いを伝えなかった。莉世、お前が混乱するのがよくわかった。お前が俺に遊ばれてると思っても仕方ないな。俺があんな風に腹を立てる事じゃなかった。すまない」
一貴は力を緩めると、莉世の肩を掴んで少し距離をとった。
そして、両手で莉世の頬を掴みながら流れる涙を拭い、面を上げさせた。
「莉世? ……俺を見るんだ」
莉世は、その震える一貴の声に促され、ゆっくり目を開けた。
「俺には、恋人なんていない。俺は、莉世を愛してる。お前を、俺の女にしたい……なってくれるか?」
莉世の大きな目が、驚愕の為に大きく開いた。
本当なの? 一貴が……わたしを、愛してる? 本当に?
莉世は、一貴の首に顔を埋めるように抱きついた。
「本当? 本当にわたしを愛してるの? わたしは……一貴の恋人になれるの?」
一貴は、莉世をギュゥと抱きしめた。
「あぁ、俺はお前のものだ。………お前は俺だけのものだ」
莉世は、嬉しくて嬉しくて、念願の夢が叶って、心の中はバラ色に染まった。
「莉世……俺はお前が欲しいんだ。いいか? お前を愛していいか?」
一貴から……一貴の口から欲しかった言葉がやっと聞けるなんて。
莉世は、何度も何度も頷いた。
もう、流れ出すココロを止める事など出来なかった。
上流から下流へと流れるように、莉世のココロは一貴の元へと流れるまま、その熱を持った迸る奔流に……身を委ねた。
長い夜が……二人だけのストーリーが、今まさに始まりを告げていた。