『運命のバリ島へ』

―――珠里、22歳。
 
「モデルという枠を超えるのが今の時代なんだ。珠里の考えはもう過去の遺物だ」
「皆、同じように売り出さなくてもいいとわたしは思います」
「だが、専属モデルであるからこそ、その顔≠売る努力をしなけれればならない、それが珠里の仕事でもある」
 珠里は、ギュッと奥歯を噛み締めると、渡された台本を手に取った。珠里の初ドラマとなる台本だった。
 今までは、モデルの仕事だけだったので、隠れてマシェリ≠ナの仕事を続けてきたが、これでもう足を洗うべきだろう。
 マシェリ≠ナ知り合った某有名服飾デザイナーとのデート現場を陽一に見られた事もある。もちろん、陽一はマシェリ≠ニ関わりがあるとは思っていないと思うが、この辺できちんとするべきだろう。
 陽一への復讐のように続けたマシェリ≠ナの仕事は、彼が知らないだけでずっと自分の為にもなったから。
 それに……
「それと、最近噂になっている楠本一聖との件、本当に何にもないんだな?」
 珠里は、ティーンズモデル時代のマネージャー大北と一瞬だけ視線を交わすと、現社長の息子であり、現マネージャーでもある堀ノ内に視線を向けた。
「そうね……何もないけれど、いいお付き合いをさせてもらっているわ。お友達としてね」
 楠本一聖は、カメラマンとしてはまぁまぁだが、大物俳優兼舞台演出家の息子として世間から注目を浴びている。彼と一緒に行動すると、その女性も注目されてしまう。
「彼との付き合いは、珠里のモデルとしての名を馳せる影響を持っている。だが度を越すと、逆に転落の人生に陥る。わかっているだろうが、」
「わかっていますとも!」
(全て会社の為、雑誌の為に、身を滅ぼすなと釘を刺しているのよね。それぐらい、わたしでも知ってるわ……。我が家自体がそうなんだから)
「話は終わりでいいかしら?」
 珠里が立ち上がろうとすると、マネージャーが頭を振った。
「まだだ、次が大事な話になる」
 大事な話?
 珠里が訝しげに頷くのを見てから、堀ノ内は書類をテーブルの上に置き、そしてゆっくり話しだした。
 
 * * *
 
 半年以上前、堀ノ内からその仕事の話を聞かされて以来、どれほど今日という日が来ない事を祈ったか……。
 運命とも言えるアジア行きの飛行機ビジネスクラスの座席に座りながら、珠里は書き込みを終えた入国カードを脇に避けると、小さな窓から青い海を見下ろした。
「まだマシよね……、スタッフとは現地で会う手筈になっているし」
 精神的にも肉体的にも辛く大変な事が待ち受けている。
 でも、それらはしばらくの間は先送りとなった。そんな些細な事だったが、珠里の心はまだ平穏を保つ事が出来た。
 だが、出国時の騒ぎを思うと、そうはいかないだろう。
 珠里は、斜め前方に座っている楠本一聖の横顔を見つめた。二人は共に行動する事はせず、時間をずらして出発ロビーに向かったにも関らず、どこからか記者やレポーターが押し寄せて写真を撮られてしまった。
 
『カメラマンの楠本一聖氏と挙式≠ノ向かわれる為、極秘でバリ島へ出発されるという事実に間違いはありませんか?』
 
 
えぇ、間違いありません≠ニ堂々と応えられたら、どんなに良かったか。
 珠里は深々とハンチングキャップを被り、サングラスで目を隠しながら無言で彼らをやり過ごした。
 その後、出国審査を抜けたところで一聖と合流するが、彼も同じようにマイクを向けられたという。
 一昔前に流行った逃避行を思い出し、懐古趣味に走ったのかと思われているのかも知れない。大物俳優の息子が一介のモデルとの結婚を許して貰えない為、とか。そんな事はないのに……。
 珠里は、一人で頭を振った。
「どうかしたのか?」
 堀ノ内マネージャーが、心配そうにこちらを見つめる。
「いいえ、何もないわ。……そうだ、お願いしていたように、明々後日の撮影は休みにしてもらっているわよね?」
「あぁ、そこはきちんと伝えてある。前以ってこちらの都合を言っておいたから、そういうスケジュールで撮影は組んでくれている筈だ」
「そう、良かったわ」
「だが、その日はいったい何の予定があるんだ? まさかとは思うが、」
 マネージャーはそう言ってから、斜め前方に座る一聖を見て、再び珠里へと視線を戻した。
「週刊誌に騒がれているように、楠木氏との極秘結婚じゃないよな?」
「……マネージャー、その日は休日にしてもらったの。仕事とは違うんだから、詮索はしないで」
「だがな、珠里。これは一個人の問題でしておくべき事では、」
「あっ!」
 珠里の目に、点灯したベルト着用のランプ飛び込んできた為、マネージャーの話の腰を折るように声を出すと、すぐに座席を戻した。
「もうすぐ到着ね。海外は久しぶりだから、楽しまなくっちゃ。ねっ」
 楽しむ……とはほど遠い心境だったが、珠里はにっこり微笑むをそっと目を閉じた。
 今夜を乗り切り、明日と明後日の撮影を終えたら……。
 珠里は、ただ祈った。何事もなく撮影を終えられますようにと。
 だが、そう簡単にいかない事もわかっていた。こんなにストレスが我が身を締めつける理由、それがどんなものなのか……もう既に知っていたからだ。

2009/05/03
  

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