『青い空の下で…』

「ストップ!」
 カメラマンの小野寺陽一のその一声で、ジュリの初写真集となる撮影が中止された。
 撮影スタッフの女性が、すぐにサテンのローブを持って走ってきたが、珠里はただこちらの全てを見通そうとする陽一の視線を、真っ直ぐに見返していた。
 だから……嫌だったのよ。わたしの写真集を撮るカメラマンを陽一にした事。
 珠里は、奥歯をギュッと噛み締めながら、水着姿を隠すように羽織らせてくれたローブの胸元を掻き合わせた。
 その仕草を見た陽一が、バカにしたように口元を歪めた。
 
 顔が熱くなる……
 
 だが、彼から逃げるように視線を逸らす事は絶対嫌だった。
 陽一がスタッフを手で退けながら、珠里の側まで近付いてきた。
 光り輝く太陽、青い空、透き通るような綺麗な海、それらを背景にして珠里は波打ち際に佇んでいた。
 昨日のリゾート風スタイルでの撮影は、何とか無事に終えたものの、やっぱり陽一の前でビキニ姿……しかも挑発するようなポーズはどこかでブレーキがかかる。
 わかっていた事でしょ? こうなるって。だからこの話が持ち上がった時、社長に断固反対という姿勢を見せたのに……
「珠里、やる気があるのか?」
 やる気? あるに決まっているじゃない! カメラマンが陽一でなければ、どんなポーズだって撮らせるわよ。
「……一聖だったら」
 珠里はボソッと呟いた。その言葉を聞き逃さなかった陽一は、片眉をグイッと上げて珠里を見下ろす。
 だが、一聖を思い出した事で自然と視線を逸らしていた珠里には、全く見えなかった。
「楠本、ね」
 珠里は陽一の声にハッとすると、視線を上げて彼を見つめた。
 ダメ……、今は一聖の事を言うべきじゃないし、気取られてはならない。全ては、明日何事もなく式を挙げられる為に。
「何がいけないのか言って」
 彼が何かを考えてしまう前に、意識を逸らそうと珠里は陽一に詰め寄る形で言った。
「わからないのか?」
 陽一が腕を組み、珠里を見つめ返す。彼は目を細めて、珠里の考えを読み取ろうとしてくる。
「わかってるわよっ!」
 珠里は苛立ちながら大声で言い放った。その瞬間フラッと立ち眩みがして、思わず目を閉じた。
 ダメ……、今ココで倒れるわけにはいかない。
 背筋を伸ばして足を踏ん張ろうとした矢先、強い力が二の腕に走った。
「大丈夫だ」
 陽一の声が耳元で聞こえる、躯が彼の体温に反応し悲鳴をあげている。
(悲鳴をあげたいのは、わたしよ!)
 彼から離れたいが為にゆっくり瞼を開けて、逃げようとした珠里だったが、何故か先程まで微かに聞こえていた、スタッフの話し声やざわつきが全く聞こえてこない。
 不思議に思った珠里は、自然と意識が陽一の方へ向くのを意思の力で押し止めると、視線をスタッフの方へ向けた。
 そして、わかった。珠里が放った一言で、現場の雰囲気を壊してしまったという事が。
 
「しばらく休憩だ」
 それを察した陽一が、珠里の腕を掴んだままスタッフに向かって叫んだ。
「了解、休憩に入ります!」
 スタッフたちは、日射しから逃れるようにバタバタと休憩テントの方へ歩いていく。
 だが、珠里のマネージャーだけがこちらへ歩いてきた。
 陽一は目の端でそれを捕えると、珠里のマネージャーに手を向けて、こちらへ来るのを止めさせた。
「しばらくモデルと話させて欲しい」
「しかし!」
「これが俺のやり方だ。契約書を見ていないのか?」
(イヤ、ふたりきりにしないで! お願い、堀ノ内さん! この撮影中、わたし……ずっと陽一を避けていたのに、これじゃ意味ないのよ!)
 だが、マネージャーは一瞬珠里を見て、そのまま心配そうに背を向けて歩き去った。
 無言のまま陽一は珠里を木陰に座らせると、アシスタントの男性が持ってきたフルーツジュースと水を差し出してきた。
「飲めるか?」
 何故そんな風に、心配しているような声音で話しかけてくるの?
 珠里は水とフルーツジュースを見て、どちらを先に飲むべきか考えた。どうして悩んでいるのかわかったのだろうか? 陽一は、すかさず水を差し出した。
「……水分を補給してから、ジュースを飲むんだ」
 無理やり水を押しつけられると、珠里が飲み干すのを助けるようにコップを傾け、そしてあろうことか、珠里の額に手を置いたのだ。
 思わず水を噴き出しそうになったが、陽一が続けた言葉に驚いて、真正面から彼の目を見つめ返した。
「熱があるな……。昨日もあったんだろう?」
 何故わかるの? 熱があるって。
 事実、日本を発つ前から熱があり、薬を服用していた。それでも、平温に戻ってはまた微熱が出るといったように繰り返していた。
 最初は風邪からの発熱だったが、今は緊張から微熱が続いているのだとわかる。ただ、それが陽一との撮影からなのか、明日に控えた式を心配してなのかよくわからないが。
「……ちゃんと薬は服んでる。仕事にも穴は開けないわ」
「わかっていないのか? 今日は一枚もいいものがない」
 陽一が、視線を落とした。つられて彼が落とした視線の方へ向けると、ローブの胸元が開けていた。彼の目に、堂々とビキニで隠れていない乳房を見せていたのだ。
 珠里は恥ずかしさから、急いで胸元の袷を手で掴んだ。
「それが、いけないんだ。カメラマンに見られて恥ずかしがってどうするんだ」
 真実を言い当てられた珠里は、唇をギュッと閉じて彼を睨みつけた。
「わたしは、カメラマンに見られるのは一向に構わないわ。でも、陽一に見られるのだけは絶対嫌なの!」
「何故、俺に見られるのが嫌なんだ?」
「それは!」
「それは?」
 珠里は、唇を噛み締めながら悔しそうに顔を背けて、白い砂浜へ視線を落とした。
 理由なんて言えるハズがない。もう、あんな思いはしたくない。「俺を追いかけるのはやめろ」と、もう一度彼の口から聞きたくはない!
「陽一は、女性モデルを撮った後にその女性と寝るからよ!」
 珠里の言葉に、陽一は問いかけるようにこちらを見つめた。
 だからなんだ? お前には一切関係ない事だ、そうだろう? ……そう言われているかのようだった。
「あぁ、もう! 聞かなかったことにして。わたしは、今この仕事をやり遂げることに集中したいから」
「そうだな、きちんと仕事をやり遂げて欲しいよ、俺も。体調も管理出来ないモデルと仕事させられるハメになったのは、初めてだからな」
「違う! きちんと仕事はしているじゃない! 体調とは無関係よ」
 陽一は、いきなり立ち上がった。
「こんな状態の珠里とは仕事は出来ない。今日は一日ゆっくり休んで体調を整えろ。今日の分は、明日しっかり撮らせてもらう」
 えっ? 明日? ……明日はお休みの日で、結婚式が。
「大丈夫、今日撮れるわ! 陽一が望むようにきちんとするから、」
「明日だ」
「陽一!」
 珠里は、悲鳴に近い声で彼の名を叫んだ。
「明日は……お休みを貰ってるのよ、今日頑張って明日ゆっくり休んで……明後日はさらにモチベーションを上げるから、お願い」
「……俺が明日と言えば明日だ」
「陽一!」
 懇願するように、彼の名を囁く。
「そうだな、明日……徹底して俺が考える被写体について、珠里と話し合う日にしよう。だから、休みは今日だ。明日じゃない!」
 陽一が、釘を刺すように珠里を睨んだ。
 珠里はそこでハッとした。
(陽一は知ってる……。明日、わたしがどこに行こうとしているか、何をしようとしているのか)
 瞼をギュッと閉じて、珠里は心の中で葛藤し始めた。
(陽一の考えていることは、検討違いだと……わたしは知っているけれど、今は話せない。今話せば、なんの為に今まで極秘にしてきたのか、全て水の泡となってしまう!)
「陽一……、これは当初の約束どおりさせてもらうわ。明日、わたしはオフを貰っている。その件はきちんと伝えてあるのよ。陽一の一言で、この日程を変更するなんて無駄よ」
「そうかな? 俺の一言がどれほどの威力を発するのか試して見よう。おい! 変更だ!」
 陽一が珠里に背を向けて、スタッフの方へ大声を出した。
(本気、なの? 本気で……わたしのお願いを無視する気?)
 珠里の顔から血の気が失せてきた。
「そうだ、珠里」
 珠里の方へ振り返ると、陽一ははっきりと告げた。
「明日、俺は絶対お前から目を離さないから。もし逃げるようであれば、俺の部屋へ連れていく覚悟もあるから、そのつもりで」
 そう言うと、陽一は珠里をその場に置いて、スタッフたちの元へ歩き出した。
 
 * * *
 
(あいつの元へは絶対行かせない! あんな男を愛していると言っても、俺は必ず珠里を引き止めてみせる)
 珠里の兄≠ニしてではなく男≠ニして対峙するようなことになっても。
 陽一の脳裏に、成熟した珠里の裸体が浮かんだ。大切な個所はビキニに隠れているが、それでも彼女がどのようにベッドで躯をくねらすのか、いとも簡単に想像出来る。
 ただ、その声音や表情は、今までも極力無視するようにしてきたので、その辺はボヤけているが。
 陽一は、強く頭を振ったが、決心は決して変えない……とでもいうように、ただ真っ直ぐ前を見据えて歩いた。
 
 * * *
 
 彼が何を考えているのか全く気付かない珠里は、陽一の後ろ姿を見ながら砂をギュッと掴んだ。
 バカ、何考えているのよ! 陽一の傲慢な態度に腹を立てるべきなのに、彼の部屋へ連れていく……という言葉に思わず反応してしまうなんて。
 今まで抑えに抑えてきた甘い震えが、珠里を襲ってきた。
(わたしが逃げようとしたら……一聖の元へ行こうとしたら、本当に陽一の部屋へ連れ込むの? それでもわたしが行こうとしたら、どうするの? 陽一?)
 スタッフに事情を説明し、機材を撤退し始める陽一たちの姿を、珠里はただ眺めていた。
 この時、既に珠里の気持ちは固まっていた。
(ごめん、ごめんね……一聖。わたし、約束が守れなくなっちゃった。明日の挙式を心待ちにしていたのに、とても綺麗なドレスも用意していたのに)
 
 ふたりの関係が、明日を境に変わろうとしている……とは全く予想すらせず、明日はいったいどうなるのか……と答えを求めるように、珠里は太陽の光で輝く波間をジッと見つめていた。
 珠里が心の中でしか弾けなかった片思いの曲が、陽一の指揮でそろそろ大きく響きだそうとしていた。
 それは陽一も同じだった……

2009/05/06【完】
  

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