―――珠里、22歳。
運命とも言えるアジア行きが明日に迫る中、珠里は何かをせずにはいられなくなり、現在一人暮らししているマンションの部屋を掃除し始めた。
すると、珠里がモデルとして復帰した第一号写真が載ったDEEPLY≠ェ本棚から出てきた。
「懐かしい……」
とは言っても、まだたった数年しか経っていない。にもかかわらず、珠里は当時を思い出さずにはいられなかった。
* * *
―――珠里18歳、大学1年。
「DEEPLY≠フ専属モデルのジュリだ。皆、宜しく頼む」
「ジュリです、どうぞ宜しくお願いします」
共同の控え室に入った珠里は、紹介してくれた編集者の後に続くように、先輩モデルたちに挨拶をした。
好意的に微笑み挨拶を返してくれるモデルもいたが、明らかに先輩モデルを差し置いて専属≠ニいう地位を獲った新人の珠里に対して、悪意を隠そうともしないモデルもいた。
また、この世界に戻ってきてしまった……
こうなる事はわかっていたので、珠里は特別気にする事もなく、初めての撮影となる衣装を姿見で確認すると、待機しているカメラマンの元へ歩いていった。
阿久津珠里は、ティーンズモデル時代と同様、ジュリという名で仕事をすることになった。
DEEPLY¢、から、先を見通しての起用ということを言われていた為、やはり専属モデルや他のモデルたちより珠里の方が若かった。
きっと学業両立なのは、珠里だけだだろう。
モデル歴は珠里の方が長いかもしれないが、ブランクがあることと、なんと言っても過去のモデル時代の話をするつもりはなかったので、新たな気持ちで臨もうとした。
ティーンズモデル時代の無鉄砲だったジュリと、いろんな経験をしてきた今のジュリとでは……明らかに違うのだから。
「ジュリです、どうぞ宜しくお願いします」
カメラマンの楠本一聖(くすもといっせい)は見た目30代ぐらいで、今風でありながら深みもあり、一本芯の通ったようないい男に見えた。
だが、相手が新人という事で無愛想でもある。
きっと、思い通りの画を撮れなくて、イライラさせる小娘だろう……とでも思っているのだろう。
まだモデルの仕事に慣れていなかった時代、カメラマンが望む仕草やポーズがとれなくて、とても大変な思いをした事がある。
昔は子供だったから、それで良かったかもしれない。
でも、今は許されない。モデルを職業としている人たちが載る雑誌なのだから……
マネージャーが挨拶をする中、珠里はコードを踏まないよう前に進み出た。ライトが目に入ってとても眩しい。
だが珠里は鋭い眼光を放つように、視線を前に向けた。
「もっと肩の力を抜かないと……」
「自然に流れるように!」
カメラマン楠本一聖の苛立ったような声やからかうような声が響く中、珠里は躯全身でその要求に応えようと挑み続けた。
いつしか、昔の記憶が蘇ってくる。そうすると、先程とは全く違う流れるような動きが表に出てきた。
脳内に響く音楽に合わせてポーズを切るように、珠里はカメラマンを前にしていながらカメラを意識する事はなく、ひたすら素の珠里を見せていた。
しなやかに動く躯、流れるようなポーズ……全て阿久津家のお嬢様として培ってきた上流階級の生活が、より良い方向へと結びついていた。
カメラマンの楠本一聖も、バカにしたような言動はせず、いつの間にか何かに魅了されたように、ひたすらシャッターを切っていた。
フィルムを全て使い切り、カメラから手を下ろした時、楠本一聖の動悸は激しく、まるで短距離を全力疾走で走った後のように、荒い息を繰り返していた。
「君……確かジュリと言ったな?」
「えぇ」
一着分の撮影が終わったとわかると、珠里はライトから逃れるようにマネージャーがいる方向へ歩き出した。
「新人……ではないな?」
珠里は、カメラマンの方を向くとただ肩を竦めてみせた。
「……DEEPLY≠フ新人です」
「カメラマンの目は、そう簡単には誤魔化されない。素人か、そうでないのか、すぐにわかるものだ」
「あぁ、すいません! ちょっとミステリアスな感じで売り出したいので、それ以上の質問はご勘弁下さい」
マネージャーが何度も頭を下げてそう言うと、最後の一着に着替えをさせる為に珠里の背を押した。
「さぁ、行くぞ!」
珠里は、促されるまま歩き出したが、首筋に違和感を感じたので歩きながらゆっくり振り返った。楠本一聖が、こちらの全てを射貫くように見つめていた。
カメラマンって、皆あんな感じなの? 昔とは全然違うわ。
(でも……もし陽一からあんな風に見つめられたら、わたしはモデルとしてきちんと対応出来るかしら? ファインダー越しに見られても、わたしは冷静にポーズが取れる?)
そう考えただけで、躯に甘い疼きが走った。
ダメよ、それは出来ない……。陽一の前で全てを見せることは出来ない!
(昔のわたしだったら……陽一に撮られたいと思っていたけれど)
* * *
「陽一には全てを見せることは出来ない……、あの頃はそう思っていたのに」
過去の記憶から現在に戻ると、珠里はその雑誌を横に置いた。この時の雑誌は付録があった為、いつもより発行部数が伸びたらしい。
そして、その号はいつもの号とは一風変わっていた為、それ以降急速に売上部数を伸ばしてきた。それに比例するように、珠里の仕事の量が増え、私生活もゆっくり出来なくなってしまった。
珠里は、不必要な雑誌をダンボールに詰めると、実家に送る事を忘れないよう玄関に置く。
実家に送らずとも、母は収集するのが好きなので必ず置いてあると思うが、珠里が触れた物……その時の気持ちを表わした傷が付いているからこそ、残しておきたかった。
「わたしって、なんて感傷好きなのかしら。そして、自分で自分を傷つけたがる癖もあるなんて」
自嘲するように口元を歪めながら、リビングに置いてあるスーツケースへと視線を向けた。
―――♪
携帯の着信音が部屋に鳴り響くと、珠里は手を伸ばしてテーブルからそれを取った。
「もしもし」
『……準備はもう終わった?』
「何? わたしが怖じ気づいたとでも言いたいの、一聖?」
向こうから、カメラマンの楠本一聖のため息が聞こえてきた。
『そうは言ってない』
珠里は楽な姿勢を取ろうと立ち上がると、ソファに座ってテレビを点けた。予想どおり、芸能特集では珠里と一聖のことが報じられていた。
交際発覚と騒がれる一端となった深夜のデート、朝帰り等の写真を撮られて以来、何かイベントがあれば騒がれる始末。しかも、3ヶ月前にふたりしてペアリングを付けてからは、結婚秒読みとまで言われている。
「大丈夫、もう心は決めたから。というか、決めるしかないでしょ?」
左手の中指で光っているペアリングを見つめた。
『そうだな』
「あっ、今ね……わたしが初めて一聖と出会った時の雑誌を見つけて、ちょっと感傷に浸ってた」
珠里はクスクス笑った。
『強烈だったな、あの時は。こっちは不慣れな女子大生を撮るのかと思って、イライラしていたのに、いざ珠里を撮り始めたら……俺はのめり込んでしまった』
「それ! よく言われるのよね〜」
『才能だよ。自然と身に付いた、モデルとして最高のものだ』
「それが良かったのか、悪かったのか……。一介のモデルがドラマに出演するようになって、騒がれて……」
『それがあるから、珠里のモデルとしての価値があるんだ』
「酷い。わたしにはそれしかないみたいな言い方して」
珠里は、あまりにも違う芸能リポーターの言葉に顔を顰めると、すぐにリモコンを掴んでテレビの電源を切った。
『そうは思ってないさ。ところで、熱は下がった?』
「もう、7度5分まで下がったから大丈夫。ありがとね。あとは今夜もう一度解熱剤を服用して早く寝るわ」
明日からは、予想すら出来ない、とてもつもなく長い一日を何日も送らなければならない。体調だけはきちんとしておかなければ。
『あぁ、そうしろ。躯は大切だから』
「えぇ。それじゃ」
『また、あとで』
珠里は、一聖の言葉に笑みを漏らしながら通話を切った。
「7度5分……か。なんて中途半端なの! でもこれぐらいの熱が、どっちつかずでしんどさを感じるのよね。……ちょっとアノ時の感覚に似てるけど」
珠里は自分のとんでもない考えに苦笑いを浮かべたが、すぐに口を閉じて携帯を見つめた。
明日、この熱は下がるだろうか? それとも、緊張のあまり上がってしまう?
「神のみぞ知る、かな」
珠里は生姜湯でも作ろうと立ち上がると、携帯を充電器に差し込んでからキッチンへ向かった。
明日、出発するまでにまだまだすることはあったが、とにかく今は少し落ち着きたかった。