開設5周年記念・特別作品(2013年再掲載)
何も言わず、ただじっと杏那を見るミスター・サンチェス。
杏那の顔、服、そして乱れたベッドを眺めてから、再び視線を合わせる。
彼の態度に困惑し、杏那はおろおろし始めた。
『あの、ミスター・サンチェス?』
声を発すると、彼はふっと意味不明に笑い、ゆっくり杏那に近づいた。
ミスター・サンチェスの行動に目を丸くする杏那の前まで歩いてくると、彼は膝を折った。
そして、杏那の膝の上にスイートルームに忘れたクラッチバッグを置く。
『あっ……、ありがとうございます』
素直にお礼を口にするが、そんな杏那にミスター・サンチェスは目だけを動かして真摯な眼差しを向ける。
『ふたりの間に何があったのか……何も訊かない。でも、杏那は僕が言ったことを忘れていたようだね』
ミスター・サンチェスが言ったこと?
杏那は彼が口にした何かを忘れているのだろうか。
こちらをじっと見つめるミスター・サンチェスの目を見返すが、杏那の頭には何も浮かばない。
『あの、何を……?』
杏那が素直に訊き返すと、彼の口角がかすかに上がる。
『残念だよ、杏那。僕が言った言葉を本当に忘れてしまうなんて。僕はそう言っただろ? 目に見える物事こそ真実だと思い込んでいる。でも、実際はそうじゃない≠チて。僕はね、エンリケのことを指していたんだよ』
彼の言葉を心の中で復唱する。すると、杏那の頭にある場面が浮かんだ。
それは、温泉で彼とふたりきりになった時、杏那に言った意味深な言葉だった。
目を見開く杏那に、彼はにっこり微笑んだ。
『それは杏那にも言えたね。この部屋は、スペインの物であふれている』
ミスター・サンチェスは、杏那の室内装飾を身振りで示した。
『つまり、杏那はスペインで暮らした月日を大事に思っているということ。でもそれをエンリケには伝えていない。そうだね?』
『わ、わたし――』
何をどう言えばいいのかわからない。
杏那が口籠もって視線を手元に落とすと、その手を彼が握ってきた。
突然のことにびっくりして息を呑む杏那とは対照的に、ミスター・サンチェスは一切動じない。
『杏那。エンリケは、君のことをとても大切にしているよ。事実、再会した一週間は杏那を怖がらせないようかなり自制していた』
『再会してからの一週間?』
杏那が反応を示すと、彼はそうだと頷いた。
『僕の知っているエンリケは……あんなにも時間をかけて、女性に接近するような男じゃない。欲しいものがあれば、時間なんかかけずすぐに手に入れる』
その言葉が、杏那の胸にギュッと締め付けるような痛みをもたらす。
ミスター・サンチェスは、杏那が唇を真一文字に引き結んだのを見たのだろう。
慌てて言葉を付け足す。
『杏那、僕の言葉を悪い意味に取らないで欲しい。つまり……普段は女性を大切にしないけれど、杏那は特別だってこと。知らなかっただろ?』
杏那はそれは違うと叫びたかった。でも言い返してしまったら、きっと感情が波立ってしまう。それが怖くて、何も言えなかった。
その気持ちがミスター・サンチェスにも伝わったのか、彼は杏那を励ますように、さらに強く手を握った。
『エンリケは、慎重に行動していた。杏那に嫌われたくなかったから、必死に紳士であろうと努力していたよ』
エンリケ……が? 本当に杏那に嫌われたくないと?
『杏那、エンリケは明日スペインへ帰る。こんな状態で彼と別れてもいいのかい? 目に見えない真実を突きとめなくてもいいのかい?』
ミスター・サンチェスの諭すような柔らかな声音が、杏那の心を揺らす。
飛んで行きたい、でもエンリケのもとへはいけない……
どちらにも動けないその狭間でもがくのが苦しくて、杏那は何も言えなかった。
『俺は当事者ではないから、これ以上はもう何も言わない。でも、ひとつだけ言わせて欲しい。エンリケは……杏那の知っているエンリケその人だ。子供のころ、杏那と一緒に遊んだ男で、今も何ひとつ変わっていない。もし、杏那がこの部屋のように、スペインで一緒に過ごしたエンリケのことが好きなら、もう一度チャンスを与えてくれないだろうか?』
もう一度? エンリケと話せと?
『ミスター・サンチェス、あの――』
杏那が慌てて話しかけると、彼は急に立ち上がった。そのまま歩き出し、ドアの取っ手を掴んでドアを開ける。
でも、廊下に足を一歩踏み出したところで、立ち止まった。
『……明日、エンリケは空港で待っている。搭乗手続きが終了する間際まで、ずっと杏那を待っているから』
ミスター・サンチェスは言いたいことを全て言ったのだろう。
廊下へ出ると、後ろ手でドアを閉めた。彼は、一度も振り返らなかった。
いつもの杏那なら礼儀を忘れはしないのに、この時ばかりはミスター・サンチェスを玄関まで送ることさえ頭から抜けていた。
それほど混乱していたのだ。
でもミスター・サンチェスの言葉を何度も反芻するうち、杏那の心に陽だまりに似た温もりが広がっていく。
それが満ち、胸いっぱいになるにつれて、杏那は徐々に面を上げた。
ミスター・サンチェスが言ったように、杏那も隠し事をしていた。
それも一番大事なことを……
杏那がそれを話せなかったように、もしエンリケにも何か事情があってああいう行動に出たとは考えられないだろうか。
杏那は額に手を置き、力なくうな垂れた。
ミスター・サンチェスの目に見える物事こそ真実だと思い込んでいる。でも、実際はそうじゃない≠ニ言った言葉が、頭の中でぐるぐる回る。
「逃げちゃいけなかった。エンリケが説明しようとしていたのに、それを遮って自分からこの恋を捨てるべきじゃなかった!」
傷つきたくないばかりに、逃げ出すなんて……
明日、エンリケはスペインへ戻る。
これで終わりだとしても、ケンカしたまま別れるなんて、絶対ダメだ
もう会えないのだから、お互いいい気持ちで別れた方がいい。
その別れが辛くても、胸を掻きむしられるような痛みを覚えても、素敵な思い出を作ってくれたエンリケに対して、きちんとするのが本当の愛。
杏那は、ミスター・サンチェスが持ってきてくれたクラッチバッグを手にし、そこから携帯を取り出した。
「えっ? これって――」
杏那はそこで揺れているものを呆然と見つめた。
そこにあったのは、ブレスレットではなく、エンリケが身に付けていたペンダントだったからだ。
どうして杏那のブレスレットに代わって、彼のペンダントが付いているのかはわからない。
それでも杏那は、それをギュッと掴んだ。
エンリケの愛を感じたくて、触れたくて、想いを捨てたくなくて……
そう決意した途端、涙があとからどんどんあふれて頬を濡らしていく。
杏那はとうとう堪えきれず、嗚咽を漏らして泣き出してしまった。
「ごめん、ごめんね……エンリケ」
エンリケが肌身離さず身に付けていたペンダントトップに触れると、それにそっと口づけした。
―――翌日。
昨夜ずっと冷やした目は、想像していたよりも腫れぼったくなってはいない。
隠すほどでもないが、杏那は普段とは違って念入りに化粧をした。
そして、玄関の姿見で自分の格好をチェックする。
エンリケの前で着ていた仕事着のスーツや、彼好みの女らしいワンピースでもなかった。
杏那が着ているのは、スキニージーンズにブーツ、胸元がV字に開いたモヘアのセーターにダウンジャケット。普段の杏那が好む服装だった。
そして胸元には、携帯から取り外したエンリケのペンダントをしている。
これがいつもの杏那。彼好みの服ではないが、これも杏那なんだと知って帰って欲しかった。
その時、廊下を歩く音が耳に届く。
鏡から視線を外すと、母が杏那のいる玄関に向かって歩いてきた。
朝早いのに、起きてきてくれたのだろう。
でもその表情はどこか曇っている。
「杏那? あなたたち……エンリケとはいったいどうなってるの?」
杏那は母を安心させるために、作り笑いを浮かべた。
「エンリケは、今日スペインに帰るの。でもね、お母さん。わたし、エンリケが好き。この気持ちをきちんと彼に伝えたい」
杏那が胸に手を置くと、そこに母の目が吸い寄せられる。
視線を逸らそうとはせずしばらくじっとしていたが、小さくため息をついた。
「マルタが言ったとおりに、なるのかしらね」
「えっ、何? お母さん」
「ううん、何でもないわ。行ってらっしゃい……そして、自分の気が済むようにしてらっしゃい」
杏那は口元を震わせながら頷くと、家を飛び出した。
そして、エンリケのいる空港へ向かった。