開設5周年記念・特別作品(2013年再掲載)
エンリケは、エールフランス航空を利用する。
会社からもらった仕事のスケジュールで、杏那はそのことを知っていた。
だから、まっすぐ専用のラウンジに行けばいい。
空港に到着したらどう動けばいいのか、頭の中ではもう整理はできている。
できていたはずなのに!
「もう! どうして今日に限って!」
電車が成田空港駅に停車すると、杏那は扉が開くと同時に飛び降り、4階出発ロビーへ急いで走り出した。
6時に家を出たにもかかわらず、途中で出勤ラッシュと人身事故の影響で、電車の乗り換えがスムーズにいかなくなってしまった。
そのせいで、かなり時間をロスしてしまった。
エンリケの乗る飛行機は、9:30発。搭乗手続きは既に始まっており、アナウンスで最終手続きの案内を知らせている。
もう時間がない!
でも、ミスター・サンチェスは、ギリギリまで待っていると言ってくれた。
それを信じ、エンリケが利用する航空会社のカウンター周辺に目を走らせる。
人ごみの中にいても、必ず見つけられる。
なのに、どこにも彼の姿はない。
「エンリケ……どこ?」
願いを込めて、ペンダントトップを強く握り締める。
だがそれは叶わず、エンリケらしき人物はどこにもいなかった。
もう搭乗手続きを済ませてしまった?
杏那は、その場に呆然と立ち尽くした。
どうしてこんな風になってしまったのだろう。せっかくミスター・サンチェスが背を押してくれたのに、チャンスがあると教えてくれたのに。
「違う。全部、わたしが悪い……」
ミスター・サンチェスが家にきてくれたあと、動けば良かったのだ。
遅くなったとしても、エンリケの泊まるホテルに駆けつけていれば、こんなことにはならんかあった。
オニキスに触れていた杏那の指から力が抜ける。
終わった。終わってしまった……
これも全て、杏那が傷つくことを恐れたせいだ。
愛するだけで良かった時は、全てをぶつけるだけで満足していたのに、想いが通じ合ってしまうと、ほんの些細なことで不安になってしまう。
このままではダメだ。
あの日に戻ろう。ふたりで昔を語り合った時に芽生えた想いは、杏那の胸の中に残っているのだから。
時間はまだある!
杏那は唇を強く引き結び、零れそうな涙を指の腹で拭うと、周囲をキョロキョロと見回した。
目の端に案内カウンターが入り、ホッと息をつく。
エンリケを呼び出してもらわなければ、何も始まらない。
そちらに向かって走り出そうとした、まさにその瞬間だった
『杏那!』
突然、後ろから抱きすくめられた。
心臓が一瞬で高鳴る。
忘れもしない力強い腕、嗅ぎ慣れた男らしい匂いに感極まり、杏那は目の前にある彼の腕に触れながら顔を埋めた。
エンリケだ。エンリケが、杏那が来るのを待っててくれた!
泣いている場合ではないとわかってはいても、どんどん涙があふれてくる。
心のどこかで、エンリケとはもう会えないと思っていたからだ。だからこそ、この幸運が嬉しくて感情のコントロールができない。
『来てくれると信じていた』
耳元にエンリケの吐息を感じ、杏那の躯がブルッと震えた。
いつまでも彼の腕の中で包み込まれたいという欲求が湧くが、同時に時間がないことも思い出した。
杏那は彼の腕の中で躯を動かし、エンリケの顔を見上げた。
言いたいことはいっぱいある。身勝手な思いで、勝手にエンリケの想いを決めつけたのも謝りたい。
でも、それよりももっと伝えたい言葉がある。
涙目でエンリケの顔がぼやける。
それでも彼の目をじっと見つめ返し、想いを口にしようとした。
「エンリケ、わたし――」
そこまで口にした時、エンリケが急に顔を近づけてきた。
「Te amo ..... Te qyueri con toda mi alma ..... No puedo vivir sin ti!」
(愛している、心から愛している……君なしでは生きられない!)
エンリケの愛の告白に、杏那は顔をくしゃくしゃにして思い切り彼に抱きついた。
『わたしも同じ気持ちよ、エンリケ……』
そしてゆっくり躯を離し、エンリケの吐息を唇に感じる距離で彼をじっと見る。
「Te amo(愛しているわ)」
杏那の告白に、エンリケの瞳が光り輝く。
それを見た杏那は勇気付けられて、さらに彼への想いを口にする。
『エンリケ、愛してる。別れを決意したけど、エンリケへの愛はわたしの心から消えなかった』
『杏那……! 俺はその言葉を待っていたんだ』
エンリケが杏那の頬に触れた。そして顔を上げるように促される。
「エンリケ……」
彼の名を口にしたところを覆いかぶさられ、唇を奪われた。
「っんぅ……」
エンリケは優しく杏那の唇をついばみ、どれほどの想いを抱いてきたのか、キスで表現しているようだった。
まだ貪り足りないと言いたげに口づけを求めてきたが、エンリケの方からゆっくり杏那を離した。
そして、胸ポケットから何かを取り出す。それは、杏那の携帯に付けていたブレスレットだった。
エンリケは一度杏那の手をギュッと握り、それから手首にそのブレスレットを付ける。
その光景を見て、杏那の脳裏にスペインの果樹園の風景が広がる。
初めて大人のキスをされたあの日、こうやって彼の手でブレスレットを付けてもらったのが、つい昨日のことのようだ。
杏那は口元を綻ばせて、手を首の後ろに回す。ペンダントの留め金を外すと、今度はそれをエンリケの首に手を持っていった。
彼が少し躯を前に倒してくれる。
留め金から手を離し、ゴールドのチェーンを指の腹でなぞる。そして最後に、オニキスに触れて手を下ろした。
『今度も……肌身離さず持っていて欲しい。そうすれば、俺たちは絶対にもう一度巡り会える。決してこれが最後ではない』
『最後じゃない……』
エンリケが填めてくれたブレスレットに触れながら、杏那は何度も頷いた。
そんな杏那の姿を見ていたエンリケが、ポケットから小さな箱を取り出した。
杏那の目の前で、その蓋を開ける。そこにあったのは、ダイヤの散りばめられた素晴らしい指輪だった。
「Anna, Casate conmingo.(杏那、俺と結婚してください)」
杏那はハッと息を呑み、慌てて顔を上げる。
『それ、本気? だって、エンリケはスペインに――』
『ブレスレットを渡した時、確かに俺は幼かった。杏那と連絡を取ろうとさえしなかった。でもあの時……俺は既に杏那を選んでいたんだ。だから曽祖母から伝わる宝石を、杏那に贈ったんだよ』
そんなに大切な贈り物だったの!?
伝統のある宝石とは全然知らなかった杏那は、恐る恐るブレスレットに触れた。
『そのブレスレットの意味は、また今度教えてあげる。それよりも、杏那……プロポーズの返事を』
切なげな声音に、杏那は再び視線を上げた。
「Si .... si,Si!(はい……ええ、はい!)=v
結婚を考えれば、当然いろいろな問題が生じる。
ふたりの国籍の違いもそうだが、エンリケの血筋を考えると彼の家族は東洋人の妻を喜んで迎えはしないだろう。杏那にも異国で暮らす不安が出てくるはずだ。
それがわかっていても、杏那は自然とイエスの言葉を発していた。
エンリケを愛しているから。彼以上の男性と一緒になりたいとは思えないから――
『ああ、杏那!』
エンリケが喜びのあまり杏那を強く抱きしめた。そして、さっきとは違う激しいキスをする。
その瞬間、周囲で拍手が湧き起こった。
その音にびっくりして、杏那は慌ててエンリケの腕の中で身をよじってキスから逃げた。
周囲に目をやって、初めて杏那たちを取り囲むように外国人が手を叩いているのを知った。
急に恥ずかしくなってどこかへ身を隠したくなるが、そんな杏那の手首をエンリケが掴む。
何をするのかと思ったら、エンリケは手にした指輪を杏那の指に填めた。
キラキラ輝く指輪に、心の奥にほんわかとした温もりが広がっていく。
それに見入っていると、杏那の視界に人影が入り込み、おもむろに顔を上げた。
その人物は、ミスター・サンチェスだった。彼は満面な笑みを浮かべながら拍手をしている。
『おめでとう、エンリケ、杏那。これで、早く日本に戻ってこないとダメだな』
『ああ。向こうでの仕事が終われば、すぐに日本へ戻ってくる』
エンリケの言葉に、ミスター・サンチェスの笑みが広がる。でもすぐに彼の表情が曇った。
『だが、時間切れだ』
ミスター・サンチェスはそう言って、エールフランスの専用ラウンジを指した。
タイムリミット……
杏那は切なげにエンリケを見上げた。
『杏那、来月にはもう一度日本へ来る。その時、いろいろと決めよう』
『うん……、待ってるね』
そう言う杏那の声は悲しみで震えていた。しかも、エンリケの顔を脳裏に焼き付けようとしているのに、どんどん彼の輪郭がぼやけていく。
震えてくる唇を強く引き結んだ時、エンリケが手を伸ばし、杏那の零れた涙を指の腹で払った。
『泣かないで、杏那。今は離れるのが悲しく、辛くとも、ふたりが結ばれるための出発だと考えれば、とても素敵な旅立ちの日になるだろう?』
杏那は、何度も頷く。
『今は、時差を考慮せずに毎日メールもできる。インターネットでテレビ電話も。寂しくはないよ。むしろ、とても素晴らしい毎日になる。再会する日を楽しみにしながら』
再び杏那は頷いた。
『そうね……それに、エンリケを身近に感じられるもの』
エンリケの目にブレスレットが入るよう、杏那は手を上げた。
今度は彼が力強く頷き、そして自分のペンダントトップに触れる。
ふたりは想いを伝え合うように見つめ合っていたが、その空気を破るミスター・サンチェスの咳払いが聞こえた。
『……もう行かないと』
エンリケは顔を引き締めた。そして、杏那の頬に指を走らせ愛撫する。
「Te amo(愛しているよ)」
「Te amo!(愛しているわ!)」
エンリケが背を向け、専用ラウンジへと進む。
杏那は、エンリケが去っていく後ろ姿をずっとずっと見つめていた。
そして、エンリケとミスター・サンチェスにイレーネが近づき、皆視界から消えた。
皆の姿が消えた途端、周囲の喧騒が杏那の耳に届く。
ひとりになって改めて、エンリケが帰国するんだと実感が湧いてきた。
遠距離恋愛なんて経験したことがない。本当にこの恋を守っていけるのだろうか。
不安はないと言えば嘘になるが、今は杏那の心は彼への愛でいっぱいになっていた。
エンリケ、待っているから……。迎えに来てくれるのを待ってるから!
展望台に移動した杏那は、エンリケたちの乗った飛行機が離陸し、視界から消えるまでずっとそこにいた。
今は離れるのが悲しく、辛くとも、ふたりが結ばれるための出発だと考えれば、とても素敵な旅立ちの日になる
エンリケの言葉を何度も反芻した杏那は、澄み渡った青空を見つめた。
ふたりの未来はこの雲ひとつない空のように輝かしい未来になる!
それを強く信じると誓うと、杏那は前を向いて歩き出した。
エンリケと再び共に生きるために……