開設5周年記念・特別作品(2013年再掲載)
杏那はホテルを飛び出すとタクシーに乗り、自宅の住所を告げた。
エンリケとの別れ、彼の気持ち、自分の感情が交錯しながらぐるぐる頭の中で回り続ける。
何も考えられない、何も考えたくない……
杏那は目を閉じると、タクシーが家に到着するまで俯いていた。
「お客さん、ここでいいですか?」
運転手の声にハッとし、顔を上げた。
「あっ、はい!」
メーターに映し出された値段を確認し、バッグから財布を取ろうとした。
そこで手に何も持っていないことに気付く。
「えっ?」
バッグ、持っていない! いったい どこに忘れてきたのだろう。
おろおろして周囲を見回すが、クラッチバッグは見つからない。
その時視線を感じておもむろに目を上げると、バックミラーを通して訝しげな眼差しを向ける運転手と目が合った。
「お客さん、無賃――」
「あの! そこ、自宅なんです! すぐにお金を取ってくるので待っていてください!」
「お客さんを疑うわけではないんですけどね。このご時世、こちらも気を付けなければいけないんです。家に誰かいらっしゃいますか?」
杏那はタクシーの時計、ガレージに置いてある自転車を見て頷く。
「母がいると思います」
「じゃ、そこで待っていてください」
運転手はそう言うなりエンジンを止め、杏那をその場に残して外に出た。
インターホンを押した彼が何かを言うと、玄関のドアが開き、財布を手にした母が外に出てきた。
タクシーにいる杏那を見るなり、運転手に謝ってお金を渡す。
杏那はタクシーを降り、タクシーが走り去ると、母に謝った。
「ごめんなさい。バッグ、置き忘れてきたみたい」
多分、エンリケのスイートルームに。
カードキーを使って部屋に入った時、バッグをソファに置いたのを思い出していた。そして、エンリケに別れを告げたあと、そのまま部屋を走り出てしまったのを。
エンリケたちは明日チェックアウトする。
杏那がバッグを取りに行かなければ、きっとフロントに預けてくれるだろう。
エンリケがそうしなくても、きっと傍にいるミスター・サンチェスが。
「お母さんが家にいて良かったわね。それより、カードとかも入っていたんでしょ? 使われる前に、早く家に入って手続きしなさい」
「はい……」
カードは誰かに使われる心配はない。でも、それを母には言わず、素直に返事した。
「二階、上がるね」
玄関に入るなり母に告げると、杏那は階段を上がった。自室のドアを開けて顔を出す妹の那々香と目が合う。
「お姉ちゃん、お帰りなさい! あのね――」
笑顔で話しかけようとする妹に、杏那は小さく頭を振った。
「ごめんね、お姉ちゃん……ちょっとしんどいから」
いつもの杏那なら、どんなに忙しくても、躯が疲れて悲鳴を上げていても、決して幼い妹を邪険に扱うような真似はしなかった。
でも、今回だけは本当にきつい。
何事もなかったように、笑顔で那々香の話を聞ける精神状態ではなかった。
「お姉、ちゃん?」
「ごめんね、那々香。お母さんにも言っておいて。しばらくひとりにしてって」
悲しそうな、それでいて心配そうに眉に皺を刻ませる妹に力ない笑みを投げて、杏那は部屋に入った。
「何も、何も……考えたくない」
服を着たままベッドに倒れ込み、枕に頭を載せた。
今日あったこと全て頭の中から消し去りたいと願いながら、そっと瞼を閉じた。
でも、あとからどんどん涙があふれ出てくる。
止めようと堪えるほど、それは頬を伝って枕を濡らしていく。
「……っ!」
嗚咽が漏れそうになるたび何度も呑み込む。
それが無理だと察した時、杏那は声が部屋の外に聞こえないように枕に顔を埋めた。
さようなら、さようならエンリケ!
それからどれぐらい時間が経ったのかわからない。それでも泣きつかれて眠ってしまったのはわかった。
泣き過ぎで頭が痛く、また瞼が腫れ上がっていると感じるほど重たかったからだ。
杏那はベッドに手をつき、上体を起こす。
窓の外は茜色に染まり、それに覆いかぶさる闇も近づいていた。
そのコントラストをしばらく眺めていたが、徐々に黒い闇が広がるにつれて、何故か妙に胸を締め付けられる。
顔をくしゃくしゃに歪めて胸のあたりの服を強く手で掴んだ時、部屋にノックの音がかすかに響いた。
ドアを見ると、それがゆっくり開いた。
音を立てないように気を遣っているのか、おずおずと顔を覗かせた那々香と目が合う。
「お……姉ちゃん? あのね、今いい?」
いつもの姉らしくない態度を間近で見たせいだろう。
妹は部屋に入ろうとはせず、その場所で立ち止まって窺うような目を向けてきた。
こんな風に、幼い妹に気を遣わせるべきではない。
それはわかってはいるけど、泣きはらした目を見せたくはなかった。
自分の顔が妹に見えないよう俯き、目を逸らす。
「えっと、ごめんね。もう少しひとりにしてくれるかな?」
「あっ、うん。わかってる。でもね、お姉ちゃんにお客さんが、来てて……」
客? それってもしかして……
抑え込んだはずの感情が、再び胸の奥でざわめき始めた。表に出ないよう意志の力で必死に蓋をする。
きっとホテルに置き忘れた杏那のバッグを持ってきてくれたのだろう。
そして運良く事が進めば、またあの話を蒸し返そうとするに決まってる。
「那々香、ごめん! エンリケに帰って言って。会いたくないって、もう放っておいてって!」
杏那はシーツを強く掴み、さらに顔を背けた。
「チガウヨ、アンナ。ボクダ」
突然聞こえた片言の日本語。
えっ? どうして……!?
杏那は息を呑むと顔を上げ、泣きはらした目でドアを見た。
そこに立っていたのは、ミスター・サンチェスだった。彼の手には、しっかり杏那のバッグが握られている。
「……あ、あの、どうして?」
そう言いながら、バッグを持ってきてくれたのがエンリケではなかった事実に、ショックを受けていた。
今更何を思っているのだろう。自分の方から彼を振った。上に立つことに慣れた彼の自尊心を傷つけた。
エンリケが杏那にはもう会いたくないと思っても不思議ではない。
自嘲の笑みを浮かべ、杏那は小さく頭を振った。
『ミスター・サン、チェス……』
彼の名を呼びながら、もう一度彼に目を彼に向ける。
今までミスター・サンチェスの横にいた那々香は姿を消し、そして彼は不可思議な表情を浮かべて杏那を見ていた。