開設5周年記念・特別作品(2013年再掲載)
『杏那。どうしてこれに触れたがった? 知っていたからだろ? 俺がこれを持ち続け、肌身離さずにいた理由を』
エンリケに両肩を強く掴まれる。なんとかして説き伏せようとする彼の勢いに呑み込まれそうだ。
杏那は怖くなり、ついと目を逸らせた。
『わ、わたしは――』
その宝石に触れて、エンリケの心と結びついていると感じたかった。ふたりのいる場所が遠く離れていても、その宝石がある限り、心はいつも一緒だと思っていたかった。
それで、彼の肌に触れるそれに手を伸ばし想いを込めた。
離れませんように、この時間が長く続きますようにと。
でも、それは幻だった……
今だからこそはっきりわかる。
もともとエンリケとは結ばれる運命ではなかったのだ。
彼の胸にあるオニキスの片割れが杏那の手元にあっても、再びそれが合わさることはない。
お互いの心がすれ違っているのに、未来なんて望めない。
『わたしは?』
エンリケに続きを促され、杏那はハッとした。
急に躯が熱くなり、肌が汗ばんでくる。
言おうとしていることに対しての拒絶反応だろうか。それでもはっきり口にしなければ。
エンリケは誇り高いスペイン人。日本人みたいに、相手を傷つけないよう含みを持たす言い方をされても、きっと彼には通じない。
はっきりと、自分の気持ちをエンリケに伝えなければ……
杏那は生唾をゴクリと呑み込み、ゆっくり面を上げた。
エンリケの強い眼差しに怯みそうになるが、顎を引いて奥歯を噛み締める。そして、これが自分の意思だと伝えるため、彼の目を見つめ返した。
『ここで、そう……もうお別れしましょう』
エンリケが鋭く息を吸う。
『杏、那? それはいったい――』
杏那の肩を掴む彼の手に力が込められた。その痛みに、眉間に皺が寄ってしまう。
それでも、エンリケから目を逸らさなかった。
『明日の見送りには行かない。お互いその方がいいと思うの。関係に終止符を打ったあと、また顔を合わせるなんてイヤでしょ。だから……今日でさよならね』
目を大きく見開くエンリケ。呆然となりながらも、杏那の言葉が理解できないと何度も頭を振る。
『杏那。まだ……まだ何も話していない、何も解決していない!』
エンリケの顔が近づく。キスのできそうな距離に、慌てて肩を掴む彼の手を振り払って後ろに逃げた。
エンリケはこのまま杏那の唇を奪い、押し倒し、杏那の躯が誰を求めているのかわからせようとする気だ!
付き合いはまだそれほどでもない。
だけど、彼のちょっとした仕草や目つきでどういう行動を取ろうとしているのか、よくわかるまでになっていた。
それほどエンリケの近くに寄り過ぎたということ。全てを捧げてきたという意味だ。
『杏那、本気なのか? 本気で……さよなら? 永遠に? ……どうしてそうなるんだ』
『愛情がこれっぽっちもなかったと気付いたからよ!』
感情が爆発し、涙がポロポロと流れ落ちる。
エンリケの姿がぼやけてよく見えないが、それでも最後に彼を睨みつけた。
『さようなら!』
杏那はソファを立つと、彼に背を向けて走り出した。
side:エンリケ
杏那が去っていく。
一度も振り返らず、エンリケに背中だけを見せて……
早く言わなければ、出ていってしまう。このスイートルームから、エンリケの人生から!
『Anna, No quiero perderte!(杏那、君を失いたくない!)=x
杏那の耳に届いたかどうか、エンリケにはわからなかった。
わかるのは、彼女の姿がエンリケの視界から消え、そしてドアの閉まる音がむなしく部屋に響いたことだけだった。
「杏那……」
エンリケに杏那を追う力はなかった。脱力してソファに崩れ落ちる。
どうしてこんな風になってしまったんだろう。今夜は杏那と日本で過ごせる最後の日だったのに。
エンリケは震える手で頭を抱えた。
だが、すぐにその手を下ろしてポケットをまさぐった。小箱を取り出し、ゆっくり蓋を開ける。
そこに鎮座していたのは、シャンデリアの光を受けてキラキラ輝くエンゲージリングだった。
今夜、杏那にプロポーズするために用意した物。
それだけではない。
杏那がブレスレットをなくしたと聞いたあと、自分のペンダントに付いてあるクリスタルをひとつ取り、それをリングの内側に埋めこんでもらった特注品だった。
より強い絆を未来に求めて……
伯父はスペインに杏那を連れて帰ってこいとは言ったが、常識に考えてすぐに連れていけるわけがない。
だから、一度スペインへ戻り再び来日するまでの数週間。杏那にこのリングを身に付けていて欲しかった。
エンリケはテーブルに小箱を置くと、そのまま頭を垂れて手をじっと見る。
愛しい女性を引き寄せようとしたのに、腕に抱いたのは虚空。
日本に来たのに何も掴めなかった。
改めて感じた事実に、エンリケの顔から血の気が引いていく。
もう、杏那の気持ちは永遠に消え去ってしまったのだろうか。
一瞬その事実を受け入れて愕然としたが、エンリケはすぐに手を強く握り締めた。
違う。まだ終わってはいない!
エンリケは勢いよく立ち上がった。
杏那には、まだエンリケの気持ちを全て打ち明けていない。それに、彼女が聞いたエンリケとイレーネの会話。そこで話したものは、真実の10分の1に過ぎなかったというのを知らない。
イレーネに本音全てを話す意味がなかった。だが、杏那には話す理由がある。
杏那を愛しているから。彼女を失いたくないから……
追いかけよう。今すぐに!
エンリケは走り出そうとしたが、ちょうどその時小さなバッグが視界に入って、意識がそちらに向いた。
『これは?』
見たことのないバッグが、どうしてそこに置いてあるのだろう。
不思議に思いながら手に取り、中身を確認する。
入っていたのは、財布、ハンカチ、この部屋のカードキー、そして携帯電話。
明らかに、杏那の忘れ物だとわかった。
『杏那……』
彼女の名を囁くだけで、狂おしいほどの熱が生まれる。それは、縦横無尽に躯を駆け巡る。
杏那が欲しい! だが、傍らに彼女の姿はない……
疼く躯に意識を向きそうになる。それを止めるために違う行動を取るしかない。
ふと手に持ったバックに気付き、エンリケはその口を閉じようとした。
瞬間、何かがキラッと光った。
『うん? 今のはいったい……』
このバッグが誰のものかわかった今、中身を探るべきではないとわかっていた。
でも何故か、それに心惹かれてしまう。
内なる声が頭の中で響く。それを見ろ、確かめろ!≠ニ。
その声に押されて、エンリケは手を伸ばし、バッグからそれに取り出した。
『えっ……これは!?』
信じられないものが、携帯に付いていた。
それは、エンリケが杏那にプレゼントしたブレスレットだった。なくしたと言っていたブレスレットが、携帯のストラップとして付けられている。
『どういう、ことだ? 俺になくしたと言ったのは嘘? ……でも何故嘘なんか』
独り言をぶつぶつ言っていたが、エンリケはすぐに身に付けていたペンダントを外した。そして杏那のブレスレットにあるオニキスと、自分の持っているオニキスを触れ合わせる。
複雑な形をしたそれは、失った伴侶を探し出したと言わんばかりに、見事にぴったりと重なった。
手の中にあるふたつの宝石が、鼓動するかのように熱くなった。
『杏那……どうして嘘をついたんだ。いや、そんなのはもうどうでもいい。杏那がこれを持っていてくれただけで、俺は――』
エンリケは感情を抑え込むために唇を強く引き結び、宝石を強く握り締めた。
しばらくその場でじっとしていたが、すぐに我に返り、自分の携帯を取り出す。
登録している番号を出すと、ボタンを押した。
呼び出し音が1回鳴っただけで、相手が出る。
『フェルナンド! すぐにスイートルームに来てくれ、今すぐにだ!』
フェルナンドに何かを話す猶予を与えず、言いたいことだけ言うと、一方的に通話を切った。
『杏那……、俺たちはまだ繋がったままだ。決してこれで終わりになんかしないからな!』
その宝石に宣言するように、エンリケは声を出して誓った。