開設5周年記念・特別作品(2013年再掲載)
『杏那! 君は物事の一面しか見ていない!』
エンリケの悲痛な叫びは、杏那の胸に張り裂けそうな痛みをもたらす。
それでも触れられるのはたまらないと、エンリケの手を振り払った。
どうしてこんなに悲しいのだろう。心を引き裂かれるような痛みを感じても、悲しまなくていいはずなのに。
エンリケはただ正直に自分の気持ちを言っただけに過ぎない。それに、杏那もエンリケと再会するまでは、スペインで過ごした彼とのことは思い出でしかなかった。
お互いさまだ。
それをわかっているのに、どうしてこんなにも胸が痛く、裏切られた気がするのだろうか。
『杏那……聞いてくれ』
杏那は頭を振った。
大切な想いが、音を立てて崩れていく感覚に陥っている。
今は何を言われても、素直に耳を傾けられる精神状態ではない。
杏那は唇をギュッと引き結び、胸に手を置いて悲しみを振り払おうとした。でもなかなか上手くいかない。
どうすればいい? どうすれば……
そこで杏那はハッとした。
違う。振り払おうとするからもがき苦しんでしまうのだ。そんなことはせず、ただ向き合えばいい。
そうすれば、悲しむ必要がないってわかる!
杏那は胸に触れていた手で硬く握り拳を作り、強く胸を押した。
エンリケに恋をしたと感じた時の気持ちを思い出せばいい。
フィアンセがいても、自分の想いをぶつけられるだけで幸せだったあの時を。
なのに、フィアンセの存在が偽りだと知り、エンリケの想いを受け入れたせいで、幻想を抱き過ぎてしまったのだ。
エンリケとの関係は、彼が日本に滞在している間だけ。この恋は、永遠に続くものではなく、たった数日で終わってしまうもの。
杏那が暴走した結果、こんな事態を招いてしまったのだ。
残ったのは、胸を引き裂くような苦しみだけ。
『杏那!』
エンリケが叫ぶなり、再び杏那の腕を掴む。彼にソファへ引っ張られてそこに座るよう促されると、彼も杏那の隣に腰を下ろした。
このソファは、ふたりで気持ちを高めあう場所だった。
お互いの温もりを求めて抱き合い、キスを交わし、前戯へと進むのが常だった。
でも今は、そうではない。
エンリケは恐る恐る手を伸ばし、いつの間にか杏那が流していた頬の涙を拭った。
『俺が杏那を想って日本に来なかったと聞いて、泣いているのか? もし、そうなら――』
『もういいの! もう……本当に』
杏那はエンリケと目を合わせた。
涙で彼の顔が歪んで見える。
はっきり見えないのを感謝し、杏那は深呼吸を繰り返した。
でも、胸の痛みはなかなか消えない。それならばと、掌に爪を食い込ませて違う痛みを作って和らげようとする。
『わたしが、勘違いしていただけ。うん、そうなのよ』
『杏那? 何を言ってるんだ?』
エンリケの目が訝しげに細められる。
その目から逃れてそっぽを向き、自己弁護するために口を開いた。
『わたしだって、エンリケと再会するまで思い出さなかった』
壁にかけられた絵画にじっと見てはいたが、焦点は合わない。
それでもエンリケを見ず、淡々とした口調で話を続けた。
『前触れもなく再会した時、昔の記憶が徐々に甦ってくる感じだった。でもエンリケに優しくされるうちに、わたしの心にはエンリケが居ついてしまった。そして気付いたの……エンリケを愛してるって。フィアンセのいるあなたを』
杏那は苦笑いを浮かべた。
『フィアンセがいても、いいって思った。自分でも酷い女だと思ったけど、エンリケと過ごせる時間が残り僅かしかないって思ったら欲が出たの。素敵な思い出が欲しいって。でも、イレーネがフィアンセではないと知った時、また別の欲がわたしの中で生まれた。エンリケとの永遠を望んでしまった。でもそれは、わたしの勝手な思い込みだったのよね』
泣くまいとしているのに、杏那の頬に涙が零れ落ちた。すぐに甲で涙を拭うが、今度は嗚咽が漏れそうになる。
杏那は奥歯を噛み締めて嗚咽を呑み込み、視線をエンリケに向けた。
ペンダントがある位置で、目の動きを止める。
『エンリケは……わたしにブレスレットの意味を思い出させて、日本にいる間だけ楽しもうとわたしを誘ったのね』
『何を言うんだ? そんなこと、決してしていない』
動揺しているのか、エンリケの声が震える。
そんな彼と初めて目を合わせ、杏那は頭を振った。
『もういいの、嘘はもういい。言ってたじゃない、イレーネがフィアンセになるのを防ぐために日本に来たって。彼女を遠ざけるために、わたしの存在を利用したんでしょ?』
『勘違いもいいところだ。俺はこの滞在中のお楽しみで、杏那に迫ったんじゃない! 俺は――』
エンリケにいきなり二の腕を掴まれ、杏那は軽く揺さぶられた。
でもすぐに彼の手を振り払うとソファから立ち上がり、エンリケと距離を置く。
『いいのよ、別に! エンリケが……女性を欲しくなっても仕方ないもの。わたしが付き合ってきた彼氏だって、皆そうだった』
『杏那!』
エンリケが、初めて苛立ちを露にした。
それでも興奮した杏那の気持ちは、簡単に収まらない。
しかも、いったい何を言いたいのか、伝えたいのか。
それさえ、もうわからなくなってきていた。
『わたしはカマトトぶるつもりはない。エンリケに抱かれた時だって、わたしはバージンではなく、悦びを知っている大人の女だったんだもの!』
エンリケの鋭く息を飲む音が聞こえたが、杏那はさらに言葉を発した。
『男性が何を望んでいるのかも知ってる。わたしは、喜んで彼氏の昂ぶりを口でしてあげたこともあるし、それに――』
「Callate!(黙れ!)」
エンリケが初めて大声を上げた。
初めて聞くその怒りに、杏那の涙はピタッと止まる。
『それ以上……何も言うな。自分を貶めるんじゃない』
貶める? 貶めるって何が?
杏那は、見当違いなエンリケの言葉をあざけるように笑った。
『エンリケ……。もうわたしのことは気にしないでと言ってるの。束の間のゲームを楽しみたかったのを理解しているって言ってるのよ。どうせ、わたしだって最初はそのつもりだった』
『それなら、どうしてまた泣いてる?』
そう言われて、杏那はゆっくり頬に触れた。
涙は止まったはずなのに、再びポロポロと零れ落ちたそれが指の先を濡らす。
『それは! あの……わからない』
頬を拭い、戸惑いを隠せないまま声を漏らす。
『いや、わかってるんだ。わかっているが……嘘をつかずにいられない。だから、涙があふれるんだ』
『嘘なんか、ついてない!』
杏那は脳が揺れるほど頭をぶんぶん振った。
『それなら、どうして俺に抱かれる時、いつもこの胸にあるペンダントに触れていたんだ?』
エンリケは強く自分の胸元を叩いた。
その力強さに、杏那の躯がビクッと震えた。
『そ、それは……』
『これに触れ、キスをし、そして俺を受け入れた。そこには杏那の想いがあったはずだ。俺に対する何かが!』
必死な形相で杏那に詰め寄るエンリケ。
そんな彼を、杏那はしゃくり上げながらじっと見つめ返していた。