開設5周年記念・特別作品(2013年再掲載)

『Te amo 〜愛してる〜』【20】

 ほんの隙間から伺える室内の状況。
 エンリケを信用してはいた。
 でも、個人的なベッドルームで男女がいる理由で考えられるのはただひとつ。
 
 ふたりは、愛を交わしている。
 
 そう思っていた。
 仮にもイレーネはエンリケの元カノ。美人の彼女に攻められて、拒めないはずがない。性欲に負けてベッドで激しく絡み合っているのでは?
 杏那の頭の片隅には、そんな考えが浮かんだ。
 でも予想に反し、そんな光景は広がっていなかった。
 エンリケはドアに背を向けているが、腕を胸の前で組み、威圧的な態度を取っている。
 彼の前にイレーネが立っているせいで、彼女の表情ははっきり杏那の目に入った。彼女は真摯な眼差しを、ただエンリケだけに向けられていた。
『エンリケ……あの日のこと、まだ怒ってるのね? だから、わたしを拒絶するんでしょ?』
『いい加減にしてくれ。俺は気にしていないと何度も言ってるだろ』
『なら、どうしてわたしを拒絶するの? 初めて会った時は、わたしを愛してくれたのに!』
 エンリケの怠そうなため息が、ベッドルームに響く。
『……悪いが、俺は一度も愛したことはない。君は、とても美しくて魅力的だった。そんな女性の誘いを受けて、断る男がどこにいるんだ? ……確かに、君にフラれて呆然となったのは事実だが、別に気にもしなかった。女なんて掃いて捨てるほどいる。こちらからアプローチしなくても群がってくるんだ。俺が君を拒むのは、俺の後釜にマヌエルを選び、彼を食い物にし、感情もなく切り捨て、再び俺に近づいてきたからだ』
 エンリケの声に怒りが込められている。
 一瞬ビックリしたが、彼の口を衝いて出たマヌエルという人物が気になった。
 
 その人はエンリケの友人?
 
 だが、すぐに心の中で頭を振り、ふたりのスペイン語に耳を傾けた。
『ロ・ディセス・エン・セリオ?(本気でそんなことを言うの?)≠たしが、エンリケと別れて後悔しなかったとでも? ……マヌエルと会っていてもエンリケ、あなたを忘れたことは一度としてなかったのよ!』
『……マヌエルでは満足できなかったと?』
『違うわよ! エンリケがわたしの心にいたから』
 エンリケに一歩近づいたイレーネが、彼の腕に触れる。
『コン・トダ・ミ・アルマ(心から愛してるわ)=c…わたしはあなたが必要なの!』
 イレーネはエンリケにしな垂れかかり、頬を肩に押しつけた。
『……悪いが信用できない』
 イレーネの顔が醜く歪むのが、杏那の目にははっきり見てとれた。
 瞬間、目を見開いたイレーネと杏那の視線がぶつかる。
 思わず盗み見するつもりはなかったの!≠ニ言いそうになったが、彼女の憎々しげな鋭い眼光が、杏那の言葉を取り上げてしまった。
 そんな杏那を見つめるイレーネの口元に、一瞬笑みが浮かぶ。
 ぞくりと背筋が震える。
 どうしてそんな表情をするのだろう。たった今、エンリケの言葉に顔を歪めていたのに。
 杏那は呼吸を整えられないまま、イレーネの顔を見続けた。
『いいわ。スペインに戻ったら、もう一度エンリケの心を手に入れるから』
『それは無理だ。知ってのとおり、俺の心は既に他にある』
 イレーネがゆっくり身を引くと、挑発するように彼を見上げた。
『それはどうかしら? わたしは真実を知っているのよ』
『何のことだ?』
 エンリケの戸惑う声音に、杏那の心臓がドキドキしてきた。
 
 真実って何? イレーネは何を言おうとしているの? そして、……
 
 杏那はゴクリと唾を呑み込んだ。
 もしかして、彼女はエンリケにではなく杏那に聞かせようとしているのだろうか。
 何故なら、イレーネの視線が再び杏那に向けられたからだ。
『エンリケ、あなたは杏那を愛してなんかいない』
 えっ? 愛してはいない?
 杏那はエンリケの背中に視線を向け、何か言うのを待つ。
 でも彼は、彼女の言葉に反論しなかった。
 イレーネがクスッと笑みを零し、エンリケを見上げながらさらに一歩近づく。
『そう、愛してなんかいないのよ。だって、日本に来たのは……ただの偶然。わたしとの婚約話が出てしまったから、どこかへ逃げたかっただけ』
『……確かに、そうだ』
 
 えっ? ……それってどういう意味?
 
 つまり、日本に来たのは仕事で、杏那の存在はおまけだったという意味なのだろうか。
 昔遊んでいた女の子を思い出した。それで接触したと?
 杏那は鈍器で頭を殴られたような衝撃を受けた。
 躯がふらつき、慌てて壁に手をつく。
『パブロおじさまに、押しつけられそうになったフィアンセから逃れるために、何かを言わなければならなくなった。そこで思い出したのが、日本人の杏那』
 イレーネは妖艶な笑みを口元に張り付け、エンリケの腕を指でゆっくり愛撫し始めた。
『エンリケが子供のころに、彼女に贈ったというブレスレット。そのことを話せば、パブロおじさまに強烈な刺激を与えられる。そうと知っていたから、その場で言ったのよね。ずっと彼女の存在を忘れていたっていうのに』
『伯父に聞いたのか……』
『ええ。日本へ行くのなら知っておいた方がいいと言ってね。……エンリケ、言ってよ。杏那の存在なんて忘れていたわよね? だって、忘れていなければ、もっと早くに会いに行っていたはずだもの。他の女性と楽しい付き合うをする前に日本へ立ち寄るぐらい、エンリケなら造作もないんだから』
 イレーネの言葉に自然と納得がいき、心の中で頷く杏那。
 それに対してエンリケの反応を知りたい。でも、彼はじっと押し黙る。
 まるで、彼女の言葉を肯定するように。
 杏那が唇を強く引き結んだ時、エンリケが身動きした。彼に触れていたイレーネの手を掴む。
『確かに……そのとおりだ。伯父にフィアンセの名を聞き、対策を練ろうとするまで……俺は杏那を思い出したりはしなかっただろう――』
 エンリケの言葉を受け、杏那の顔から血の気が一気に引いた。
 
 会いたくて来てくれたのではなかった……
 
 しかも、杏那を思い出したわけでもない。
 この一週間はいったい何だったのだろう。イレーネを寄せつけないための策?
 突然杏那の目の前が真っ暗になる。
 思わず手を伸ばして躯を支えるが、ドアに触れてしまった。きちんと閉じていなかったそれは、大きく開く。
 部屋に反響するほどの音に、エンリケが素早く振り向いた。
 杏那の姿を認めるなり、彼が動揺を露にする。
『杏那……? いつから、そこに……!?』
 顔を強張らせ、食い入るように杏那を見る。
 だが、急に杏那に背を向けた。
 同時に、イレーネの顔が勝ち誇ったみたいに光り輝いた。
『イレーネ! 君は、なんて女なんだ!』
『やめて!』
 杏那の叫び声で、エンリケがすぐに振り返る。
『杏那、勘違いしないでくれ。いったいどこから聞いていたのかはわからないが、これは杏那が勘ぐるものではない』
 エンリケがこちらへ向かって歩き出した。両手を差し出し、杏那に触れようとする。
「No me toques!(触らないで!)=v
 杏那は涙を堪えて頭を振り、一歩後ろに下がった。
「..... Por favor(……お願い)=v
 杏那が拒絶すると、エンリケがショックを受けたように目を見開いた。
 それでも彼と話せる状態ではない杏那は、身を翻す。
 髪を振り乱して駆け出した杏那を、エンリケが追いかけてくる。
『杏那! 待ってくれ!』
 名を呼ばれても、杏那は動きを止めなかった。
 
 
side:イレーネ
 
 イレーネは、ふたりがこうなるように祈って罠を仕掛けた。
 杏那がエンリケのスイートルームに来るのを見計らい、そこで本音を引き出そうと考えた。
 想像どおりの答えが返ってきて、ニヤリとしたのも事実。
 上手く事が進んで喜びを感じても良さそうなのに、何故か、後味の悪さだけが残った。
 
 なんて醜いのだろう。こんなことをする女に成り下がってしまうなんて……
 
 エンリケが杏那の名を何度も呼ぶ声が聞こえる。
 その声を遮断するため、両耳を手で塞ぐ。
 早くベッドルームを出ていこうと思うのに、イレーネはその場でじっと立ち竦んでいた。

2008/04/12
2013/11/28
  

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