開設5周年記念・特別作品(2013年再掲載)
幸せは長くは続かない……
誰かが杏那に助言したとしても、それを信じようとはしないだろう。
エンリケがスペインへ帰っても、杏那が会いに行けばいいからだ。
愛さえあれば、距離なんて関係ない。
昔と違って大人になった今は、好きな時に彼のもとへ飛んでいける。
最初こそ、この恋は短期間だけのものと思っていた。エンリケが日本に滞在中している間だけ、幸せを感じられればいいと。
だけど、日が経つにつれ、杏那の気持ちは自然と変わっていた。エンリケがイレーネとの行動を一切しなくなったせいだ。
そして時間さえあれば、杏那を誘い、傍らにいるように言ってくる。
そもそもエンリケはクライアント。彼の願いを叶える立場にある杏那にとって、それはこれ以上のない喜びだった。
それもあって、杏那は温泉旅行から帰ってきて以降ほとんど彼と行動を共にした。
デートを楽しむこともあれば、突然エンリケの欲望が高まってラブホテルへ連れ込まれたこともある。
スイートルームとは違う宮殿みたいな内装。
こちらが身構えてしまうギラついた光を瞳に宿し、興奮するエンリケ。
彼はそれを杏那にぶつけ、いろいろな体位やローションを使い、飽くなき情熱で何度も求めてきた。
それでいながら、大切な女性のようにその腕で杏那を優しく抱きしめてくれた。
エンリケの愛に包まれて、この数日はとてもとても幸せだった。
もっと一緒にいたい……
そう思えば思うほど、エンリケと別れる日が近づいてくる。
その日は、もう明日に迫っていた。
覚悟していたはずなのに、いざ彼がスペインへ戻るとなると、焦燥感が胸の奥の方でむくむくと湧き起こってきた。
確かに寂しい日々を過ごすことになるだろう。
でも絶対にエンリケに会いにいく。ボーナスは、全てそれに注ぎ込む。
杏那は携帯を握り締め、ストラップに視線を落とした。
これがあれば……ふたりはまた巡り会えるのよね? 離れても、もう一度引かれ合うのよね?
頭の中で何度も自分に問いかけながら、杏那はエンリケの泊まるホテルへ足を踏み入れた。
今日こそ、彼に真実を話そう。
故意に隠していたのではない。毎日が楽し過ぎて、彼からもらったブレスレットのことをすっかり話し忘れていたのだ。
エンリケに抱かれるたびに目に入った、胸元で揺れるペンダント。
その時には言おうと思うのに、いつも彼の愛撫で翻弄されてしまい、快感を得たあとは何も考えられなくなってしまっていた。
そして、まだ彼に弁明すらできていなかった。
でも、今夜はふたりにとって最後の夜……
だから、エンリケにきちんと真実を告げて素直な気持ちを伝える。
杏那は、エレベーターホールに向かった。
もうすぐエンリケに会える!
この時の杏那は彼と会える喜びに打ち震えていた。
真実を話す前に、エンリケの真の目的を知るとは思わずに……
エレベーターを降りた杏那は、エンリケの部屋に向かって歩き出した。
彼に渡されたカードキーを使って室内に入り、リビングルームを覗いた。
「あれ?」
ミスター・サンチェスの姿がどこにもない。
仕事でも、仕事以外であっても、彼は必ずその場所にいるのに。
今日は最後の日。それで、杏那の来る時間を見計らって席を外してくれたのだろうか。
あの温泉旅行後、ミスター・サンチェスはずっと杏那たちの恋を応援してくれていたから……
彼の優しい心遣いに頬を染め、室内を見回す。
でも、エンリケがこの部屋へ来る様子が感じられない。
杏那が約束の時間より早く来ても、エンリケはミスター・サンチェスとリビングルームで談笑して待ってくれているのに。
豪華なリビングルームに隣接するダイニングルームへ移動して覗くが、そこにも誰もいない。
もしかして、待ち合わせ時間を間違えた?
室内にある置時計に目を向ける。
間違っていない。待ち合わせの時間の五分前だ。
どうしてエンリケはいないのだろう。
杏那は訝しく思いながらリビングルームに戻ると、クラッチバッグをそっとソファに置いた。
「エンリケ?」
静かな部屋に、杏那の声だけが物悲しげに響く。
自分の声なのに何故か不安を煽られ、ブルッと躯が震えた。
震える我が身を両腕で抱いたその時、今まで聞こえなかった囁き声が耳に届いた。
それは男性の低い声ではなく、……女性?
心臓がドキドキする。体温が上がり、嫌な汗があふれ出てくる。
このまま何も聞かなかったふりをして、部屋を出るべきかもしれない。
だが、躯が動かない。
じっとその場で立ち止まっていると、再び声が耳に届いた。
「えっ? 今のって――」
杏那はハッと息を呑んだ。
イレーネの声? どうして彼女の声がエンリケのベッドルームスイートに?
杏那は耳を澄ませて、そちらの方へゆっくり歩き出した。
そこは、杏那が何度も入ったことのなるベッドルーム。
ドアへ近づけば近づくほどイレーネとエンリケの声が鮮明に耳に届いた。
その理由がやっとわかった。
ドアはきちんと閉まってはおらず、ほんの少しだけで開いている。それで音が漏れていたのだ。
覗いてはいけない。
リビングルームで話さず、個人的なベッドルームにいるのには、必ず理由があるはず。
今は何も見なかったふりをして、部屋を出よう。
杏那はゆっくり身を翻そうとした、その時。いきなりガタッと大きな音がした。
音にビックリした杏那は振り返り、思わず室内を覗いてしまう。
その光景に、杏那は息を呑み、目を大きく見開いた。