開設5周年記念・特別作品(2013年再掲載)
「つまり、俺と……別れたいってこと?」
鳩が豆鉄砲を食ったような富島に、杏那は生唾を飲み込んでから頷く。
ここは、六本木にある居酒屋。
最初はお洒落な創作和食の店に誘われたが、これから別れ話をするというのに、ムードたっぷりの店になんて入られない。
それで、富島の誘いを断り、たまたま目に飛び込んだ店に彼を促した。
そして、酒を注文するなり、杏那は富島に別れたい≠ニ告げたところだった。
「理由は、俺とのセックスが原因?」
「違う!」
違う……そうじゃない。
杏那は唇を噛んで、自分の身勝手な行動からこうなったのだと説明しようとするが、富島の顔に浮かぶ苦悶の表情を見てしまうと、言葉が喉の奥に詰まってしまった。
注文した品が運ばれてきて、ふたりの会話が途切れるが、富島が口を開くまで杏那は視線をテーブルに落とす。
別れを口にした今、杏那にできるのは、彼の言う言葉に受け答えするだけだ。
その時、テーブルを強く叩く音がして、杏那はビクッと躯を強張らせた。
「でも、俺にはそれしか理由が思いつかない。あの日からたった1週間だぞ?」
あの日とは、ふたりがセックスをしようとした日だろう。
心が伴わなかった行為を思い出し、膝の上で強く握り拳を作る。
「……本当に、あの日のことは関係ないの。上手くいかなかったのは、富島さんのせいじゃない。気を取られていたから。初めて舞い込んだ通訳の仕事に」
「あの時の電話か。それが理由というなら、何故? どうしていきなり俺と別れたいなんて言うんだ? もしかして……他に好きな男でも?」
「ご、ごめんなさい」
杏那の瞳から、涙が零れた。
もうその言葉しか出てこない。でも、そこで口を閉じたせいで、他に好きな男性ができたと富島にも伝わったのだろう。
テーブルを叩いた彼の手が、かすかに震えている。
杏那は目を背けたい衝動に駆られるが、そうさせているのは自分だからこそ、最後まで誠意を持って答えようと顎を上げる。
「たった、この1週間の間で好きな男が!? 俺とのこの3ヶ月はいったいなんだったんだよ!」
「わたしもそんなつもりじゃなかった。でも、彼と過ごした8年間の思い出が甦ってきて」
「えっ、8年!? おい……元カレ、か?」
富島は驚いたようだったが、その問いかけは辛そうに見えた。
杏那の言葉が、彼を辛い目に合わせてる。
それがわかっても、杏那は真実を伝えるため頭を振った。
「いいえ、元カレなんかじゃない。彼とは今まで付き合ったこともないの。でも……わたしのファーストキスの相手よ」
富島は唇は強く引き結び、歯を食い縛っているが、まっすぐに杏那を見つめている。
その強い眼差しに、杏那は思わず怯みそうになるが彼から目を逸らさず唇を引き結んだ。
全て、正直に!
「わたし、彼と再会するまでは特に思い出すことなんてなかったの。スペインの話題が出た時に思い出すぐらいで」
「スペイン?」
杏那は頷く。
「彼は、スペイン人なの」
「ちょっと待って。つまり……杏那に会いに来た? そのスペイン人が?」
再び杏那は頷いた。
富島は驚きも露に息を呑んだが、いつしか何かを考えるように目を細めて黙る。
だが、カッと目を見開くと、杏那を射るような目を向けてきた。
「……スペイン人。つまり、あの日……俺たちがセックスしようとしていたあの時、杏那はそいつと仕事をすることを知っていたんだな。だから俺の愛撫に集中できなかった」
「違う! 確かに、クライアントがスペイン人と聞いて驚いたけれど、その人がエンリケと同一人物だなんて思いもしなかった。それに、昨日まではエンリケは普通に……昔の友達のように振る舞ってくれていた」
「昨日まで?」
まだ富島と付き合っている時にエンリケへの恋心に気付いてしまったことが申し訳なくて、杏那は辛そうに顔を歪めた。
「わたし、昨日まではエンリケのことを昔馴染みぐらいにしか思っていなかった。でも、ふとした瞬間、彼に恋してるって気付いたの。エンリケは、フィアンセと一緒に日本に来てるっていうのにね」
「それじゃ、互いに想ってるわけじゃないんだ?」
それは、どういう意味かによる。
そこに愛はないのかという意味なら、きっとイエスだろう。
杏那はエンリケを愛しているが、エンリケは杏那を愛しているとは言えないからだ。
でもわからなくてもいい。ふたりに残された時間は、限られているのだから。
「富島さん、エンリケはあと1週間でスペインへ戻る。彼は、わたしとした昔の約束を守ろうと会いにきてくれたと思うの。だからわたしは、彼がスペインへ……本国へ戻るその日まで、彼と一緒にいたい」
富島は腕を組むと椅子にもたれ、一度考えるように瞼を閉じたがしばらくすると目を開き、何かを伝えるように杏那に鋭い眼差しを向けてきた。
「それなら別に俺と別れる必要はないだろ? そいつは日本からいなくなる。俺たちは、また元の鞘に戻る。それでいいじゃないか」
彼の言葉が信じられず、杏那は上半身を後ろに引いた。
杏那がエンリケを好きだとわかっていて、彼がスペインへ戻ったら何もなかったように付き合おうと本気で言うなんてどうかしてる。そんな考えを持つなんて信じられない!
「富島さん、本気で言ってるの? わたしは……エンリケと一緒にいたいと言ってるのよ? わたしたちは子供なんかじゃない、一緒に居るという意味が何なのかわかるでしょ?」
杏那は目を見開きながら、何度も富島の考えを改めさせようとする。
だが富島は頑なになって、杏那の言葉を聞こうとはしない。
でもそうしながらも、彼の瞳に宿るのは、言葉からは感じ取られない苛立ちのようなものが見え隠れする。
もしかして、富島も自分の言っていることが嫌なのではないだろうか。
杏那は静かな面持ちで、富島の気持ちを推し量るような目を向ける。
ただまっすぐに、彼だけを。
富島は杏那の眼差しに、一瞬気まずそうに視線を逸らすが、すぐに降参するように瞼をギュッと閉じた。
テーブルの上に置いた彼の手が、強く握られる。
葛藤してる? ――そう思った時だった。
「向こうにはフィアンセがいるんだ。そうなる方がおかしいだろ!」
富島が声を荒げた。
「そうだろ、杏那! そいつは……杏那に欲望を抱いたりしないよな?」
そんなことを訊いて、いったいどうしたいのだろう。
エンリケの気持ち? こちらが訊きたいぐらいだ。
「何て言って欲しいの? エンリケはわたしなんか欲しがっていないって? わたしはエンリケじゃないから、彼がどんな気持ちを抱いているかはわからない。でも、わたしはエンリケを欲してる!」
杏那は口を閉じて、力なく頭を振った。
「ごめんなさい……こんなことを言って。彼はあと1週間でスペインへ帰るし、彼の傍にはフィアンセがいる。それがわかっているのに、気持ちが止まらないの」
「だから、俺とは別れると? 1週間もしたらいなくなる男のために、俺を捨てるって言うんだな? そのことを俺が……気にしないと言っても?」
富島の熱を帯びたその言葉を聞いても、杏那の心はもう揺るがない。
「ええ、ごめんなさい」
付き合っていた彼氏に、なんと残酷な態度を取るのだろう。
でも、でも……エンリケへの気持ちはもう止まらない!
こんな杏那を今は許し、求めても、いつか絶対に憎むようになる。
だから、エンリケが日本を去っても富島の元へは戻れない。
「ごめんなさい、本当にごめんなさい」
杏那は頭を下げ、もう一度謝った。
「わかった……もういいよ」
富島は立ち上がると、杏那の傍で立ち止まる。
「酷い女だ」
その一言で、富島の気持ちが杏那から離れたのがわかった。
そうなることを望んでいたのは自分自身なのに、杏那はとても悲しかった。
愛せなかったが、彼のことは本当に好きだったから……
「ごめんなさい、富島さん」
杏那の謝罪に、彼が憤りを覚えたのが伝わる。
顔を歪めた彼が、勢いよく手を振り上げる。
頬を叩かれるっ!
だが、杏那は避けようとはせず、ただギュッと瞼を閉じた。
彼の受けた心の痛みをこの身に受けるのは当然のこと――そう覚悟を決めた時、彼の手が頬に触れた。
躯がビクッとしたが、それは叩くというより頬を包み込む感覚だった。
杏那がビックリして瞼を開けたのと同時に、富島が覆い被さってきた。
「えっ? ……っん!」
富島の行為に、杏那は目を大きく見開いた。
彼はキスをしたのだ。
それは愛しくてたまらないとでもいうような、優しいキス。
乱暴にしようとすればできたはずなのに、今この瞬間でも杏那を優しく扱う彼の手に感極まって、涙が込み上げてくる。
富島はゆっくり唇を離すと、杏那のショールに手を伸ばしてそこに顔を近づけた。
だが、途中でピタッと止まる。
富島は身を引いて姿勢を正し、苦悶で歪んだ表情を杏那に向けた。
「本当に……本当に酷い女だ。そいつに見せつけてやろうと思ったのに、逆に見せつけられることになるとは!」
そう言うと、杏那に背を向けてその場から立ち去った。
杏那の瞳から、涙がポロポロッと頬を伝い落ちる。
富島の手でずらされたショールに触れながら、杏那はさらに涙を流した。
「ごめんなさい、本当にごめんなさい」
そこには、昨夜エンリケから受けたキスマークが無数にあった。