開設5周年記念・特別作品(2013年再掲載)

『Te amo 〜愛してる〜』【11】

 この日の東京は天気もよく過ごしやすい日だったので、観光も楽しんでもらえるだろうと思っていたのに、それはもう酷いものだった。
 イレーネがエンリケを独占することはわかっていたので、それは目を瞑れた。
 そもそも、フィアンセのいるエンリケに恋をしてしまった自分が悪いからだ。
 堂々と彼と手を繋いだり、腕を組んだりはできない。でも、杏那にはエンリケからもらったブレスレットがバッグの中にある。
 それさえあれば、エンリケの想いを感じ取れるし心も穏やかになる。
 そこに加わる幸せ……エンリケから話しかけられ、微笑みかけられ、その視線が口元へ落ちるだけで、杏那の心には満ち足りた愛の波が押し寄せてくる。
 今はその感情を得られるだけで十分だった。
 酷いものとは……それを見たイレーネが、何かと杏那の行動に文句を言ったり、生まれの違いを言ったりしては、エンリケにはイレーネこそが相応しいとアピールしてくることだった。
 どうしてそういう態度を取るのだろう。不必要な嫉妬だとわからないのだろうか。
 でも、これが逆の立場なら、愛しているフィアンセが、他の女性に目を向けていたら、杏那も同じ行動を取るだろう。
 
 それが、帰国するまでのほんの数日だけでも。
 
 そう思うと、杏那は彼女の暴言を素直に受け止めるほかなかった。
 そんな杏那の気持ちを知ってか知らずか、ミスター・サンチェスが話しかけては心を和ませてくれた。
 彼の存在は、杏那にとって大きなものへとなりつつあった。もちろん、友達として。
 そんな調子で観光コースを回ったが、イレーネの希望するものではなかったようだ。
 エンリケとミスター・サンチェスが日本の文化や伝統に興味を抱いても、イレーネには古臭いとしか思えないようで、何に対しても興味を持たなかった。
 だが、彼女の喜びそうな銀座へ移動すると、やっと彼女の機嫌は良くなった。
 
 イレーネはエンリケの腕に手を絡めてブランド通りを歩き、世界中に点在する有名なブランド店へ入った。
 イレーネがアクセサリーを指して、エンリケに何かを言う。
 そんな仲睦まじい光景を見ながら、エンリケたちの英語が店員に通じると確認してから、杏那は外へ出た。
 携帯を取り出し、エンリケからもらったブレスレットを手の中に収めてから短縮ボタンを押す。
『杏那!?』
 コール音が2回鳴ったところで、すぐに富島が出る。
「ええ……。あの、クライアントの夕食は19時に予約してあるの。彼らをホテルに案内してからになるんだけど、何時がいい? 待ち合わせ場所によって時間が変わるんだけど」
『じゃ、19時にそのホテルへ行くよ。残業1時間追加しても間に合うし』
「わかったわ。じゃ、ロビーで待ってる」
『うん。じゃ今夜な、杏那』
 富島との通話を切るなり、杏那は小さくため息をついた。
 これから富島を傷つけることになると思うと、申し訳ない気持ちでいっぱいだったからだ。
 だが、愛していないと気付いたのなら、早く富島との関係を清算した方がいい。
 携帯をバッグの中に入れてからもしばらくその場に立ち尽くしていたが、力なく頭を振りながら振り返った。
 店内へ戻ろうとしたところで、エンリケがドアから出てこちらを見つめていたことに気付く。
『エンリケ? どうしたの? 何か言葉の壁で問題が?』
 杏那はエンリケの横を通り過ぎて急いで店内へ入ろうとしたが、その腕をエンリケが掴んで動きを封じる。
『大丈夫か? 杏那の表情が曇っていたから気になって。もし、俺のイレーネに対する態度を気にしているのなら――』
 杏那は苦笑いを浮かべながら、急いで顔の前で手を左右に振った。
『違う違う!』
 だが、エンリケは杏那の返事は誤魔化しだと感じたようだ。
 彼は手を滑らせ、杏那の手を強く握る。
『杏那、きちんと話したい。説明させて欲しい。今夜、時間を作ってくれるね?』
 杏那はドキッとした。
 
 今夜……
 
 できるものなら、エンリケと過ごしたい。残り少ない時間を大切にしたい。
 でも、それをするのは……先に富島と別れ話をしてからだ。
『ペルドン(ごめんなさい)″。日は、用事があるの』
 杏那は、彼氏と会うことを秘密にする後ろめたさから目を伏せて、エンリケが手を握っているのもお構いなしに、店内の入り口に足を踏み出した。
 だが、エンリケがそれを阻む。
『杏那、本当に? 俺を避ける理由ではなくて?』
 エンリケの言葉にびっくりして、杏那は目を見開いて彼を見上げた。
『もちろんよ! 何言ってるの? そんな……エンリケを避けるだなんてあり得ない』
『それならいいが……』
 エンリケの手から力が抜け、杏那を解放してくれた。
『さぁ、中に入りましょう』
 杏那は、エンリケをその場に置いて店内へ入った。
 当然イレーネの鋭い目つきが躯中を刺しにくるが、杏那はその視線に気付かなかった振りをしてミスター・サンチェスのところへ行き、素敵なアクセサリーを眺めては取りとめもない話をした。
 ミスター・サンチェスが不思議そうに見てきたが、杏那は気付かない振りをした。
 何があったのか、彼に説明する理由など全くなかったからだった。
 
 観光も終えたあと、杏那はエンリケたちをホテルへ連れてきた。
『今日は、こちらでディナーを用意しました。バーから望める東京の景色はとても綺麗なので、是非そちらにも行ってみて下さいね。眺めのいい場所を用意していますので』
 杏那は、彼らに話しながらエレベーターホールへと向かう。
『杏那も一緒なの?』
 イレーネが不機嫌そうに言うので、杏那は頭を振った。
『今日の仕事は観光までなので、わたしは皆さんをレストランへ案内したところで失礼します』
 杏那の言葉にイレーネは満足そうに微笑み、これみよがしにエンリケに寄りかかった。
 ミスター・サンチェスは残念そうな表情を浮かべ、エンリケは何かを探るような目つきを向けてくる。
『……時間はあと少ししかないんだ。最後の日までは、俺のためにずっと時間を空けて欲しい』
 あまりにも真剣なその言葉に、杏那の頬はほんのり染まったが、了承の証として頷いた。
 
 イレーネの瞳が、怒りの炎で燃えていようとも。
 
 実際、杏那も明日からはエンリケとの時間を大切にするつもりだった。
 残された時間、忘れられない思い出にしたいと。
 杏那はミスター・サンチェスにバーのチケットと部屋のカードキーを渡した。
『全て手配していますので、あとはよろしくお願いします』
 ミスター・サンチェスはそれを受け取ると、胸ポケットへ入れて頷いた。
 彼らとともにエレベーターに乗り、イレーネが食べたいと言っていたフランス料理店へ行くと、予約の旨を伝えた。
『では、楽しい時間を過ごして下さいね』
 案内を受けてエンリケやイレーネが進み、ミスター・サンチェスが影のようにあとに従う。
 エンリケの後ろ姿がだんだん遠くなって視界から消えると、杏那は急に切なくなった。
 
 エンリケがスペインを戻る時も、きっとこんな気持ちになるのだろう。だからと言って、大切な時間を放棄するようなことは決してしない。
 
 杏那は、後ろ髪引かれる思いで背を向けると、エレベーターホールへ向かった。
 
* * * * *
 
――side:エンリケ
 
 エンリケは席に着いたが、杏那のことが気になって仕方なかった。
 先程、皆の前で杏那を独占する時間を欲した時、彼女はそれを受け入れてくれた。
 それで良しとしなければならないだろう。
 なのに、杏那が傍にいないだけで、今すぐにも席を立って彼女のもとへ行きたくてたまらなくなる。
 
 もう一度、ふたりだけで話がしたい!
 
『失礼』
 エンリケは、急に立ち上がった。
『エンリケ! どこへ行くの?』
 エンリケは、イレーネの顔をただ静かに見下ろす。
『何故そんなことを君に言わなければならないんだ?』
 ふたりの席とは離れた場所で、フェルナンド・サンチェスが身構える。
『だって、だって……デートの真っ最中なのに!』
『デート? 変なことを言うんだな』
『エンリケは考え直してくれたんでしょ? わたしのフィアンセとしてスペインへ戻ってくれるんでしょ?』
 イレーネは一瞬で顔を強張らせるが、エンリケは表情を崩さない。
 それがイレーネには気に食わないのだろう。
 いつもの余裕ぶった彼女はもうそこにいない。顔を醜く歪め、なんとかして我を通そうとしているのがよくわかる。
 イレーネの話がどこへ向かいたいのかも、長い付き合いから安易に予想がついた。
 だからこそエンリケはイレーネのヒステリーにも耐え、自分の筋に向かうよう彼女を誘導させる。
『俺が、いつ、そんなことを言った?』
 エンリケの瞳が冷たく光る。
『伯父に何を吹き込まれたか知らないが、勝手に押しつけられたフィアンセを俺が受け入れるとは、当然思ってもいないだろ?』
 イレーネの顔が、一瞬で青ざめた。
『確かに気の迷いで、昔イレーネと付き合った。だが、それはもう終わった。そのことは伯父も知ってる。にもかかわらず、俺は何故、フィアンセ面して杏那との邪魔をしているイレーネに何も言わなかったのだと思う?』
『そ、それは……』
 イレーネの唇がわなわなと震える。
『そんなことをしても、何の意味もない。それを、俺が知っているからだ』
 だが、それは昨日までのこと。
 杏那を手に入れることができる今、イレーネに邪魔されるのはもう我慢がならない。
『すぐ、戻る』
 イレーネではなく、席から離れたフェルナンドにそう告げると、エンリケは堂々とした振る舞いで店内の出入り口に向かった。
 杏那を追いかけるために。
 
* * * * *
 
 杏那は、エンリケがあとを追いかけているとは思いもせず、ロビーで富島が来るのを待っていた。
 19時前、ロビーの扉が開くと、杏那はそちらへ目を向ける。
 富島が入ってきたのを確認すると、杏那は緊張からドキドキする心臓に手を置きながら立ち上がった。
「杏那!」
 嬉しそうに駆け寄ってくる富島に対して、杏那は緊張した面持ちで彼の傍へ近寄る。
「富島さん……」
 だが、富島が思いもよらぬ行動に出た。
 彼はいきなり杏那を抱き締め、周囲に宿泊客がいるというのにキスをしたのだ。
 びっくりした杏那は、ただただ……目を見開いてされるがままになる。
 我に返った時は、富島が情熱の炎を燃やして杏那を見つめていた。
「さぁ、行こう。時間がもったいなから」
「う、うん」
 富島に肩を抱かれることに戸惑ったが、杏那は彼に促されるまま、ホテルのロビーから外へと出た。
 
 
――side:エンリケ
 
 杏那と見知らぬ男性とのキスシーンを、エンリケはしっかりと目撃していた。
 今まで感じたことのない燃え上がるような嫉妬が、突然湧き起こってくる。
 杏那が付き合っていたという男性との写真を見た時も似たような思いを覚えたが、その時に感じた痛みとは比べ物にならない。
 胸をじりじりと焼くこの感情はとても苦しく、短剣で胸を刺されたような痛みが、染みのようにどんどん広がっていく。
 遠い昔、エンリケはジャパニーズドールの杏那に所有欲を覚えた。誰にも触れさせず、自分のものにしたかった。
 でも、今やそれは独占欲へと変わっていた。
 誰の目にも触れさせず、他の男のことは見向きもせず、自分だけを想って欲しいと、こんなに強く想うとは!
 
 これが……独占欲。
 
 エンリケは、奥歯をギュッと噛み締めた。
 もう二度と自分を抑えるようなバカなことはせず、杏那の全てを手に入れるため、全力で体当たりしよう。
 他の男ではなく自分だけを見つめてもらうには、もうそうするしかない。
 エンリケは身を翻すと、再びエレベーターホールへ向かった。
 フェルナンドのもとへ戻ること、そしてイレーネとの最後の夕食をともにするために。

2008/03/26
2013/07/07
  

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