開設5周年記念・特別作品（2013年再掲載）

『Te amo ～愛してる～』【10】

――― ルイス果樹園（11年前）
 
『杏那……、とうとう日本へ戻るんだね』
　真っ白いワンピースに小粒のパールピアスをしてお洒落をした杏那を見ながら、エンリケは顔をしかめた。
　どうしてそんな表情をするのかわからないが、エンリケが杏那をまっすぐ見つめてくれるのが嬉しくて、にっこり微笑む。
『うん。スペインが……このルイス果樹園が好きだけど、わたしは日本人だし、パパのお仕事で戻らないとダメだから』
　杏那は頬を上気させ、胸を高鳴らせながらエンリケの目を覗き込む。
 
　これは初恋ではない。
　でも杏那が初潮を迎えてから恋をした相手は、目の前にいるエンリケだった。
 
　とは言っても、最初からエンリケを好きだったわけではない。
　家族同士の付き合いが始まってから何度も休暇を一緒に過ごすうちに、仲が良くなった。
　ただ年齢が離れているせいか、エンリケからは我が儘な妹と見られていた。
　自分ではそんなつもりはなかったが、仲間に入れてもらえない悔しさからいつも駄々をこねていたせいでだろう。
　でも当時は、それが本当に悔しかった。
　エンリケから仲間はずれにされるたび、杏那は物陰に隠れてよく涙を流していた。
　でも泣いてばかりでは癪に障り、親が見ている場所でよく彼に仕返しをした。
　そのせいでふたりの間には亀裂が走り、関係を修復するのも難しくなってきた１年前。
　ふたりの関係は一変した。
　それは、新年を祝うパーティーでのこと。赤い着物を着た杏那を見た途端、エンリケの態度ががらりと変わったのだ。
　その日以降、エンリケは杏那を妹ではなく、女の子として扱ってくれるようになった。
　優しく手を差し伸べられるたび、こちらが戸惑う強い眼差しを向けられるたび、杏那はどんどんエンリケに惹かれるようになった。
　エンリケは、杏那の気持ちの変化に気付いていただろう。
　それでもエンリケは紳士に振る舞い、決して杏那の恥ずかしがるような真似をしなかった。
 
『俺は、離れたくない。一緒にいたいと思う。でも……ダメなんだね。俺たちはまだ、自分の力で立つことはできないから』
『わたしは立ってられるわよ』
　杏那は指を折って、一つずつ自分でできるものを口にした。
　そんな杏那を、エンリケは困ったような表情で見つめる。
『杏那……俺がダメなんだ。俺の力では、まだひとりで立てないんだよ』
　エンリケが何を言っているのかわからず、杏那は不思議そうに小首を傾げた。　
『どうして？　エンリケはわたしより３つも年上でしょ？　なんでもひとりでできるじゃない』
　エンリケは、今度こそ本当に困惑の表情を浮かべた。
『杏那にそう思ってもらえるように努力するよ。だから、その時が来たら――』
『うん？』
　杏那は首を傾げてその続きを問いかけると、エンリケににじり寄った。
　すると、エンリケはびっくりしたように少し身を後ろへ引く。
　杏那は知らなかった。15歳のエンリケが大人の欲求を覚えているということを。
　そんなエンリケの事情は知らなかったが、彼の緊張した面持ちから、異様な雰囲気が伝わってきた。
　杏那は慌てて躯を引いてもとの位置に戻ろうとしたが、それを止めるようにいきなり彼が手を握った。
『……エンリケ？』
　エンリケの目つき、手を握る彼の強さに戸惑ってしまい、杏那の声がかすれる。
　彼が何をどうしたいのか、杏那自身はどうすればいいのか、全く対処の仕方がわからない。それでも、杏那はエンリケの目から逸らせなかった。
　そんな杏那に、エンリケがゆっくり顔を寄せてきた。
『杏那、お別れの……キスをしていいか？　友達同士のキスではなく、男と女として、杏那の唇に』
 
　お、大人のキスッ!?
 
　杏那の心臓が飛び跳ねた。
　ドラマで恋人同士がするキスを……エンリケは杏那としたいと言ってる!?
『イヤ、かい？』
　エンリケにならキスされてもいい――その思いを伝えようと、杏那はブンブン頭を振る。
『ありがとう、杏那。怖がらなくていいからね』
　エンリケはそう言うと、杏那の柔らかい頬に掌を当てて、さらに顔を近づけた。
『目を瞑って……』
　杏那は言われるがまま、ギュッと瞑った。
　そうしないと、激しく高鳴る心臓が目からも飛び出しそうだったからだ。
 
　いつキスされるだろう。今？　もうすぐ？
 
　もう何がなんだかわからなくなったその時、杏那の唇に熱い吐息がかかる。
　それはエンリケのもの。それぐらい顔を寄せているとわかった瞬間、柔らかな感触を唇に得た。
 
　キスされてる！
 
　杏那の脳はフル回転し始める。しかも、グルグルグルグル高速に回転するので、杏那はジッとしているだけで精一杯だった。
　しかも、何度も優しくついばんでは角度を変えて迫ってくる。
　杏那が愛しい、誰にも渡したくない――そんな気持ちを伝えるようなエンリケのキスに、躯が熱くなる。
　杏那は息を止めていたため、どんどん息が苦しくなってきた。
　気を失うかもしれないと思った時、やっとエンリケが唇を離してくれた。
　その隙を狙って、杏那は空気を求めて何度も息を吸う。
　頭や耳の奥で大きな音がガンガンと響いているし、視界はグルグルと回って視線が定まらない。
　とにかく息をしようと集中している杏那に、エンリケが急に何かを目の前に差し出した。
『杏那、これ……』
　エンリケの手にあったのは、太陽の光に反射して綺麗に輝くブレスレットだった。
『ずっと、肌身離さず持っていて欲しい。そうすれば、いつの日か……俺たちは絶対に出会えるから。これを見ながら、俺を想い続けて。何年経ったとしても……、もし俺を忘れてしまったとしても、杏那がこれを持ち続けてくれている限り、俺たちはもう一度必ずめぐり合えるから』
　エンリケは、杏那の左手首にブレスレットを付けた。
『約束してくれ……絶対なくさないと。身に付けておくと……ふたりがもう一度めぐり合い、結ばれるために』
　何も言えずにいる杏那に、エンリケがそっと視線を向ける。
『杏那？　約束してくれるね？』
　視線の定まらない目でエンリケを見ていた杏那は、ハッと我に返った。
『……約束？　っぁ、うん、約束する』
『杏那……ありがとう』
　エンリケは、杏那の手首にあるブレスレットを愛撫するようにオニキスに触れ、大切なクリスタルにも同じように念を込めるように撫でていた。
 
＊　＊　＊　＊　＊
 
「……っ！」
　杏那はベッドから飛び起き、弾む息を整えるようとして何度も深呼吸を繰り返す。
　だが、たった今見た夢から抜け出せず、呼吸はなかなか平常には戻らない。全速力で走ったかのように心臓が高鳴り、荒い息が何度も口から漏れる。
　杏那は額の汗を手の甲で拭いながら、カーテンの隙間から差し込む陽に目を向けた。
　呆然としてはいても、はっきりわかったことがある。
　夢は、杏那の忘れていた過去だということを。
　でもどうして今になって、夢という形で真実が明らかになったのだろう。昨夜エンリケにキスをされて、そして眠っていた過去が甦ったのだろうか。
　杏那はそこで口元を緩めて、ふっと笑った。
　そんなことはどうでもいい。何故エンリケが怒ったのか、その理由がやっとわかったからだ。
 
　あんなに大切にして欲しいと念を押されたのに、杏那はそんなことはすっかり忘れて、エンリケから贈ってもらったブレスレットをなくしたと言ったから……
 
　杏那はため息をついて両手で顔を覆った。
　もし１週間前、ブレスレットを身に付けていたら、なくしたと言っていなければ、ふたりにはもっと時間があっただろうか。
　そこまで思って、杏那は強く頭を振った。
「そうじゃない。その時間があったからこそ、わたしはエンリケを愛するようになった。この恋に気付けたのよ」
　杏那は両手を下ろすと、枕元にある携帯ストラップを見た。そこにはエンリケからもらったブレスレットがある。
　アクセサリーを身に付けられなかった学生時代。〝ストラップにすれば？〟と母に言われて付けるようになり、そして今もそうしている。
　エンリケから、身に付けていて欲しいと言われた言葉はすっかり忘れていたけれど、心のどこかでその言葉を覚えていたから携帯に付けて持ち歩いていたのかもしれない。
「エンリケは……わたしに言った言葉を忘れていなかったのね。だから、ブレスレットの行方を訊ねた。なのに、わたしはずっと持っていたことを恥ずかしく思い、嘘をついてしまった」
　昨夜、エンリケは杏那がブレスレットを持っていなくても会いに来てくれ、昔の記憶を辿りながら気持ちを伝えてくれた。
　わたしも言わなきゃ！　ブレスレットを持っているって、エンリケを愛しているって――そう自分に言い聞かせると、杏那はベッドから飛び出した。
　残された時間は、あと１週間。
　その間だけでも、エンリケとの素敵な時間を過ごしたい！
　杏那は下着とカジュアルな服を取り出すと、浴室へ向かった。
　気持ちはエンリケへと向かっていたが、まずその前にやることがある。
 
　恋人である、富島との別れ話だ。
 
　彼ときちんと向き合う準備をするように、杏那は念入りに化粧をし始めた。
　鏡に映る表情には決意が漲っているにもかかわらず、彼を思って……杏那の口角が下がっている。
　しかし、 杏那は視線を逸らそうとはせず、ひたすら前だけを向いていた。

2008/03/25
2013/06/19
　　

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