開設5周年記念・特別作品(2013年再掲載)
杏那は乱れた姿のまま躯を起こし、机の下にある携帯へ手を伸ばしながら一歩踏み出した。
だが、足がガクガクして力が入らず、その場にぺたっと尻餅をついてしまう。
「あっ!」
こんな経験も初めてだった。
足腰が立たなくなる……という言葉は聞いたことあるが、まさか自分が経験するなんて思ってもいなかった。
その時、後ろからくぐもった笑い声が聞こえた。
わ、笑われてる!
羞恥で躯が燃えるように熱くなる。
でも、何も文句を言えない。
照れた顔を見られたくなくて俯いた瞬間、杏那はエンリケに顎を掴まれて顔を上げさせられた。
「な、何? ……っ!」
それは、あっという間だった。
エンリケは杏那に顔を寄せ、甘いキスを唇に落とした。
「Mi Amor ..... (俺の愛しい人)」
たったそれだけで躯が蕩けてしまいそうになる。
このまま身を任せたい気持ちになるが、まだ鳴り続ける携帯が気になって仕方がなかった。
エンリケのキスを自分から拒むと、杏那は片手で胸を隠しながら携帯に手を伸ばした。
絶対に携帯ストラップが見えないようにして、相手が誰なのか確認もせずにボタンを押す。
「はい」
『杏那? 俺、大輔』
杏那は鋭く息を吸い込んだ。
「富島、さん?」
愕然とした。
付き合っている人がいるのに、杏那は今の今まで彼のことをすっかり忘れていたからだ。
浮気現場を目撃されたかのように、エンリケの手でずらされたトレーナーを杏那は急いで下ろして乳房を隠す。
「ど、どうしたの?」
『ほら、通訳の仕事が入って忙しくなるって言ってただろ? あれからもう一週間経ったから、そろそろ邪魔してもいいか思ってさ。……寂しかったんだからな。メールのひとつも返してくれないんだから』
「あっ、ごめんなさい……」
彼のことを忘れていた、とは言えなかった。
しかも、今この時でさえ気持ちは富島よりエンリケの方へと傾いている。
杏那は、思わず目を手で覆った。
どうしよう! わたし……富島さんを愛していない。初めから愛していなかった! ――それが自分の正直な気持ちだと、たった今気付かされた。
エンリケと一緒にいられるのは、あと一週間だけ。
だからと言って、 杏那は富島を簡単に裏切ってはいけなかった。
富島との仲を清算した上で、エンリケに向き合うべきだったのに。
まず、やらなければいけないのは、富島に自分の気持ちを告げること。
それをする前にエンリケに想いをぶつけるなんて、順序が違う。
きちんと富島に話そう。
真実の恋を知ってしまったから、もう富島とは付き合えない。
『イヤ、いいんだ。ほら、あんなあとで……ずっと連絡がなかったし、ちょっと心配になってさ。うん、わかってるよ、杏那が望んでいた仕事だもんな。あと残り一週間頑張れよ。それが終わって会える日を楽しみに待つから』
「待って!」
その時、異変を知らせるように肌が粟立った。
エンリケが、杏那の真後ろに立ったのだ。
何をするつもり? 今触られたら……!
杏那は何もしないでと祈りながら、ギュッと瞼を閉じる。
だが、エンリケの手が、肩から胸の前へと回ってきた。自然と躯がビクッと震える。
彼氏が電話の向こう側にいるというに、エンリケの行動ばかり気になって仕方がない。
胸をドキドキさせている杏那の目の前で、彼の手が上がる。
首筋にエンリケの手が触れて、ハッと息を呑むが、彼はただキャミソールの紐を掴んで、首の後ろで結んでくれただけだった。
杏那は思わず振り返って、エンリケを見上げる。
エンリケはただ優しげな笑みを浮かべ、再びベッドに座り、他のアルバムへと手を伸ばし始めた。
『……んな? おい、杏那? どうしたんだ? 杏那?』
杏那は我に返って意識を大輔へと戻した。
「ごめんなさい、今……ちょっと手が離せないの」
『もしかして、家?』
「うん」
『じゃ、今から行っていいかな? ちょっとだけでも会えたらと思って』
「ダメよ! ……あっ、実は……お客様が来ていて」
『そうなんだ? ……ちょっと残念だな。実は今――』
「富島さん!」
杏那は、何かを言いかけた富島の言葉を遮るように名前を呼んだ。
『うん? 何、どうした?』
「あの……明日、時間が取れる?」
杏那は、瞼をギュッと閉じる。
『俺は大丈夫だけど、杏那は時間あるのか?』
「うん、明日は東京案内をするんだけど、夜は抜けるようにするから」
『わかった。ありがとう、杏那。俺との時間を作ってくれて』
杏那は痛む胸に拳を押し当てて、その痛みを受けとめようとするが上手くいかない。
それもそうだろう。カノジョとして最低な行動を取っただけでなく、優しい彼を傷つけようとしているからだ。
「また連絡するわね」
『ああ、待ってるよ。……杏那?』
「何?」
『大変だと思うけど、仕事頑張れよ』
富島さん……。そんなに優しくしないで。
わたしは、明日別れ話をしようとしているのに!
「じゃ、明日……おやすみなさい」
杏那は電話を切ると、後ろを振り返った。
エンリケは、どんどん成長していく杏那の姿を心に留めようとしているのか、アルバムに魅入っている。
高校を卒業した杏那、大学に入学したのと同時に髪を染めた杏那、友達と楽しそうにしている杏那を。
そして、成人式の写真でエンリケの手が止まった。
杏那が家族と写っているのもあるが、初めて付き合った彼氏がそこにいたからだ。
でも、それは昔のこと。
まさか、エンリケは彼のことを気にはしないだろう。
『彼は、杏那のボーイフレンド?』
『そう。初めて付き合った彼氏で、ちょうど3年目だったかな?』
そして元彼と別れた年でもある。
『今、彼は?』
エンリケは、杏那が成人式で着ていた、からし色の着物を撫でるようにしながら訊ねた。
『わからないわ。頑張って働いてるんじゃない?』
エンリケがおもむろに視線を上げて、杏那の真意を見極めようと顔を凝視してくる。
そんな問うような眼差しをされても何も答えられない。
杏那が肩を竦めると、エンリケは息を詰めていたのか、ゆっくり長い息をついた。
『別れた男の写真をいつまでも残しておくなんて……女は変わってるな』
『あっ! 彼のことを忘れられなくて残してるんじゃないの。わたしが写っている写真だからよ』
エンリケは、クスッと笑みを浮かべた。
『そうだな、この写真を捨てるには……素敵過ぎる。俺がこの隣に立ちたかった』
本当に?
杏那は携帯を枕の下へ隠しながらベッドに座ると、エンリケの肩に手を置いてそのまま彼に凭れた。
『でも思い出して……。わたしが初めて着物を着て一緒に撮った相手は、エンリケよ』
その杏那の言葉が嬉しかったのか、エンリケは杏那の髪にキスを落とす。
『そうだ、最初は俺とだ……。最後も俺になればいい』
エンリケの声がくぐもって聞こえにくかったが、その言葉は確かに杏那に届いた。
でも、いったいどういう意味だろうか。
少し躯を起こしてエンリケを仰ぎ見ると、彼は杏那の髪に手を滑らせた。
そのまま引き寄せられたと思ったら、唇を奪われる。
杏那は自然とそのキスを受け入れ、彼の舌をも迎え入れた。
エンリケはさらに密着するように杏那を抱きしめる。
『杏那……俺はもう耐えられない、エストーイ ロカ ポル・ティ(君に夢中だ)=x
杏那は悦びの声を漏らしたが、全てエンリケの口腔に吸い取られる。
同じ気持ちだと伝えるように、杏那はさらにエンリケの躯に身を寄せた。
那々香がドアをノックするその瞬間まで、杏那はエンリケの腕の中で幸せを噛み締めていた。