開設5周年記念・特別作品(2013年再掲載)
激しく高鳴る鼓動、熱くなる躯だけでも気がそぞろになるのに、甘い眼差しを向けられるだけで、くらくらして何も考えられなくなってくる。
それぐらい杏那の緊張が高まっているのに、エンリケはいとも簡単に杏那から視線を逸らし、物珍しそうに室内を眺め始めた。
エンリケから発せられた濃厚な甘い空気から解放されて安堵してもいいはずなのに、杏那は悔しい気分を味わう。
杏那はエンリケに見つめられるだけでドキドキしてしまうのに、彼はそんな気すら起きないようだったからだ。
それも当然だとわかっている。
なのに、杏那は無性にエンリケに何かを投げつけたい衝動に駆られた。
だが、エンリケが見ている置物を見て、杏那の気持ちが徐々に落ち着いてきた。
離れていたふたりの気持ちが、一瞬で通じ合ったような気さえしてくる。
『スペインのこと、忘れていたワケではないんだね』
『忘れるはずないでしょ』
壁にはコルクボードに張られた、バルセロナの聖家族教会の写真。
チェストの上には、スペインの扇子、ガウディのモザイクや地中海をイメージしたピアスやペンダント、そして赤や黄色などでペイントされた小皿が飾ってある。
遠い昔の記憶に口元がゆるむ杏那に対して、エンリケの表情は少し曇る。
どこかしら、怒りを堪えてるように見えるが、それが何なのかよくわからない。
エンリケの横顔を探っていると、突然エンリケは杏那に目を向け一歩詰め寄った。
『杏那の部屋は、こんなにもスペインの雑貨で溢れているのに、どうして――』
そこまで言ってエンリケは口を閉じ、横を向いて「Chin!」と舌打ちをした。
「エン、リケ?」
エンリケのやるせない表情に杏那は手を伸ばしかけたが、無意識の行動にびっくりしてすぐにその手を下ろす。
杏那の気持ちはエンリケに向いている。
でも彼に触れてからどうするつもりだったか、それ以降のことはまだ何も考えていなかったからだ。
杏那は力なくため息をつき、彼に背を向けて再びベッドに座った。
『ねえ、どうして家に来たの? 何か用事でも?』
杏那はそう訊ねながら、開いたままになっているアルバムを閉じようとする。
だが、いつの間にか杏那の傍まで来ていたエンリケが、杏那の動きを封じるようにアルバムに触れ、隣に腰かけた。
『スペインにいたころのだね? ……今、見ていたのか?』
エンリケは杏那の質問に答えず、訊ね返してきた。
杏那の目の前にエンリケの顔。彼に見つめられるだけで恥ずかしくなって、頬が火照ってきた。
普通を心掛けようとしても上手くいかず、杏那は咄嗟にアルバムへ視線を落とし「.... Si(うん)」と囁いた。
エンリケは、少なからず杏那との思い出を大事に思っているのだろう。
小さな杏那の写真に優しく触れる彼の指使いに、杏那はホッと息をつく。
『このころの杏那とは……あまり遊んだ記憶はない。でも、6歳になったぐらいから一緒に遊ぶようになったんだよな』
『断片的にしか覚えてないけれど、確かに仲間に入れて欲しくて、エンリケたちの後ろを追っていた気がする』
『そうだったね。でも、俺は……杏那が逃げていく後ろ姿が忘れられない』
「えっ?」
その言葉の意味がわからなく、杏那は問いかけるように顔を上げるが、彼は魅せられたようにまだアルバムを見ていた。
エンリケはゆっくりアルバムのページを捲り、成長していく杏那の姿を目に焼きつけては写真の少女に触れていく。
『そうだ。この時、杏那は小さなビキニを着ていた』
エンリケが指すプールの写真に、杏那は顔を寄せてそれを見つめた。
動いたことで、杏那の髪がエンリケの頬を撫でる。
『……杏那、は……』
エンリケの声が擦れる。
不思議に思ってエンリケを仰ぎ見ると、彼は目が離せないと言わんばかりに杏那を見つめ返していた。
『な、……何?』
ドキドキ高鳴る胸の鼓動が、耳の奥で聞こえるほど、杏那の気持ちは昂ぶる。
ああ、このままエンリケに触れて欲しいって思ってる。
さっき気付いたばかりの気持ちが、こんなにも膨れ上がるなんて!
『俺たちと同じような……パンツ一枚になりたがって、トップスをむしり取ってしまった』
「えっ?」
甘い雰囲気は、エンリケの言葉で綺麗になくなる。
「トップスをむしり取った? わたしが!?」
動転したあまり日本語が口から出るが、驚愕した表情からだいたい何を言ったのかエンリケも予想がついたのだろう。
クスッと笑みを零したかと思ったら、目をぐるりと一周させて肩をすくめる。
『言っておくけど、俺たちは止めさせようとしたんだ。でも、杏那は暴れて止められなかった』
『嘘! わたし、そんなことしてない!』
笑みを浮かべるエンリケに、杏那は拳を作って思わず彼の胸を叩いた。
エンリケは叩いてくる杏那の手首をギュッと掴んで動きを封じるが、その力強さに杏那はハッと息を吸い込む。
『もし、今……再び同じことをしたら、絶対止めさせる』
エンリケの視線が、ゆっくり下がり、杏那の乳房の上で止まった。
たったそれだけで、キャミソールの下で乳首が硬く尖るのがわかった。
そこは熱を帯びてジンジンし、触れて欲しいと自己主張している。
エンリケッ!
心の中で思い切り叫んだのが聞こえたのか、エンリケの視線が再び杏那に戻る。
『俺が盾になって、杏那の……裸を誰にも見られないように、する』
この瞬間、杏那はもうイレーネのことはどうでもいいと思った。
あと一週間でエンリケはスペインへ戻り、彼女と結婚する。それはそれで仕方ない。
でも、残りの一週間だけは……エンリケを独り占めにして全てを捧げたい!
いけないことだとわかっている。……でも!
杏那はエンリケへの想いを口にしようとした。
しかし、エンリケはそれを遮るように杏那の手首から手を離し、再びアルバムへ視線を戻した。
『あっ、これはサン・ホセの火祭りだな。杏那はあの火に驚いて、目を大きく見開いて見ていたのを覚えているよ』
エンリケは当時を懐かしんで笑っている。
だが、杏那は彼のように昔を思い出して笑えなかった。
どうして話題を変えたのだろう。
恋に敏感で情熱的なスペイン人のエンリケが、杏那の気持ちに気付かないなんてことはないのに!
イレーネに遠慮してる? もちろんそう言い切れる。
彼女は今エンリケの傍らにはいないが、ホテルへ戻れば彼女のベッドに潜り込める。
イレーネがいるのに、今更杏那なんかに触れたいとは思わないだろう。
そう思った途端、エンリケに抱かれるイレーネの優美な姿態が目に浮かび、激しい嫉妬が込み上げてきた。
何、嫉妬に身を焦がしているのか。ふたりの仲を知っていながら、エンリケに想いを抱いたのは自分なのに……
『……な? 杏那?』
優しく問いかけるような声が耳に届いて、杏那は我に返った。
『あっ……マンデ?(何?)=x
エンリケは何かを探るように目を細め、杏那の瞳を覗き込む。
しかし、何事もなかったようにアルバムを指す。
『この時のことを覚えてる?』
それは、杏那が初めてスペインで着物を着て、エンリケたちの前に登場した時のことだ。
赤い着物に、赤い紅をし、髪を結った、異国情緒溢れる日本人形。
エンリケはこの時の杏那を見て、態度が180度変わった。
杏那を妹のように≠ナはなく女の子 として扱うようになった。
それはとてもこそばゆく、心の奥がむずむずして、幼いながらも女の子の心をくすぐった。
当時のことを思い出しながら、杏那は目の前にいるエンリケへと視線を戻す。
『覚えてる……』
エンリケは、昔を懐かしむように笑みを浮かべた。
『俺も覚えている。杏那のジャパニーズ・ドール姿に魅せられ、所有欲に駆られた』
エンリケの口から出た言葉に、杏那は目をぱちくりさせる。
所有欲? わたしに対して? ――そう目で訊ね返すが、それが嬉しいのかどうかわからない。
所有欲という言葉に、妙な引っ掛かりを覚える。
『とても可愛くて……ずっと手元に置いて眺めておきたいと思った』
エンリケは再びアルバムに目を落とし、お別れパーティーで撮った写真のところでその手を止めた。
『これは? ……覚えてる?』
その写真は、隠し撮りのような形で撮られたもので、ふたりがベンチに座って見つめ合っているものだった。
母曰く、あまりにも別れ難いふたりを見て、思わずシャッターを押したらしい。
もちろん、この時のことはよく覚えている。
ファーストキスをした日なのだから。
だからこそ舞い上がったのか、その前後が靄にかかったようでよく思い出せない。
杏那が黙っていたからか、エンリケはその日のことを忘れられたと思ったようだ。
アルバムに触れていたエンリケの大きな手が、ゆっくり……だがしっかりと拳が作られ、腱が白く浮き上がる。
杏那は何も考えずにその手に手を重ねてギュッと掴むと、エンリケが鋭く息を吸った。
『覚えてる。わたしにとって、とても悲しい日で……そして、とても素敵な日だったから』
あの日の思い出を大切にしていると伝えようと、杏那はしっかり顎を上げてエンリケの瞳を見つめた。
『あのキスは覚えてる? ……母の大好きな花壇の前でした、男女のキスを』
エンリケの視線が、杏那の口元に落ちる。
その視線につられて、杏那もエンリケの口元を見た。
エンリケの手を握っていたのは杏那のはず。でもいつの間にか、エンリケが杏那の白くて華奢な手を握り返していた。
ふたりの吐息が混じり合うぐらい、距離が近づく。
これは、目の錯覚ではないと思いたい!